家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

死人の復活-5 復活の身体

2023年11月12日

テキスト:Ⅰコリント15:35~49

讃美歌:11&505

                             (6)死人の復活(15:1~58)
 前回まで問題にしてきた15:12「死者の復活などない」といっている者達は、イエス・キリストの復活を信じ、キリスト信仰に入った者達である。だが彼らは、イエス・キリストが復活したのは人間の霊魂を天上界に導く心霊的存在になるためであり、実体的身体を持った人間に復活したのではないと考えたのではないだろうか。これは肉体を霊魂の牢獄とするヘレニズム的考えから生まれたものであろう。
 しかし、これは人間的宗教性による歪んだ解釈であり、神が現実にイエスを復活させた事を否定することになるから、パウロは激しく反論した。もしそうであれば「あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」。
 とはいえ、パウロが宣教したヘレニズム世界は、肉体を蔑視する霊肉二元論が深く染みこんでおり、霊魂が死後再び身体に戻る「復活」は厭うべき状態と受け取られた。これはアテネのアレオパゴスでパウロが復活を語りだした途端、人々から嘲笑されたという使徒行伝記事からも読み取れる。現代でも、復活は「死体の蘇生」と誤解され易い。今回は、復活の身体について取り上げる。
Ⅳ.復活の身体(15:35~58)
a.二つの身体-「自然の命の体」と「霊の体」
35しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。 36愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。 37あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。38神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。 39どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。 40また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。 41太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。
42死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、 43蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。 44つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。
 35節の「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」は、あくまで現在の世界秩序を前提とした質問である。これは「(天地の創り主=創造者である)神について何も知らない」「愚かさ」を曝露している。パウロは、現在の世界でも生起している、神の創造の奇跡を示す。生命活動を何も示さず命ない物質にしか見えない種粒を蒔くと、命が発現し種粒の姿は崩壊し芽を出し成長する生命体(植物)が出現する。「種粒」は土に蒔かれて消失しなければ、命ある作物にならない。つまり、まず最初にある「種粒=肉の身体」から、それとは全く違う「後でできる体=復活の身体」が(新しく創造されて)出現するのである。
 しかも、どの種も同じ植物になるのではないと同様、「神は、御心のままに」「一つ一つの種にそれぞれ」特有の身体を付与される。地上には、人間・獣・鳥・魚と別々の体があり、天上には、太陽・月・星といった天体(当時は、天体は光の体をもつ生命体と考えられていた)も、それぞれ異なった「輝き=体」を持っている。
 死者の復活も、同様であろう。種粒のような<朽ちる、卑しい、弱い自然の命の体から、それぞれふさわしい特徴をもった<朽ちない、輝かしい、力強い霊の体に復活するのである。これは最初の創造の完成であり、最終的創造である。
 ここで、<朽ちる、卑しい、弱い自然の命の体をただ個人的なものとしてだけ考えてはならないだろう。むしろロマ7:21「善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという(罪の)法則」に支配された人間と世界全体、と広く受け取るべきであろう。人間は、いくら平和を願っても戦争が絶えることはなく、いくら働いても飢えと貧困に苦しむ地域があり、また、気候変動を止める事もできない。被造物全体が、「神の子達」が出現し、この死に定められた状態(運命)から贖出される事を待ち望んでいる、とロマ書は言っている。
 44節、「自然の命の体」から、それとは全く違う栄光ある「霊の体」に復活するということは、深い霊的な洞察である。
 その「霊の体」がどのようなものであるかは、1ヨハネ3:2「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています」に尽きる。御子(復活者キリスト)の身体に似た身体に復活する事だけが約束されており、信仰者はそれを忍耐して待ち望むのである。
 しかし、この性質の異なる最初と後の「二つの身体」という考えはキリスト教界にあまり普及しなかった。キリスト教を取り囲むヘレニズム世界の霊肉二元論の他に、キリスト教内部に霊的革新を「復活」に置き換えるグノーシス主義が蔓延したからである。このため、身体を持った復活を強調するあまり、「霊の体」を現在の肉体に近いものに描写する行き過ぎが生じた。
 例えば、礼拝毎に唱える「使徒信条」の「<身体の甦り」の<身体>は、肉(サルクス)を意味するラテン語<カルニス>となっている。これは、イスラエル帝国のような地上的歴史的救済を目指したユダヤ教の影響を強く受けているユダヤキリスト者が多かった事にもよる。
 しかし50節にあるように「(サルクス)と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはでき」ないのであるから、この段落で語られている復活の「霊の体」が、「自然の命の体=死の体」と区別されることは、しっかり心に留めておきたい。
b.二種類の命-魂(プシュケー)と霊(プネウマ)
  「45『最初の人アダムは 命のある<生き物>となった』と書いてありますが、最後のアダムは命を与える<霊>となったのです。 46最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。 47最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。 48土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。 49わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです」。
  パウロはが引用する(旧約)聖書は、ギリシャ語の70人訳聖書ある。そこでは、創世記2:7「人はこうして生きる者となった」を「人は命のあるプシュケーとなった」と訳している。パウロはこの<魂=プシュケー>を「自然的命」とし、<霊=プネウマ>と対比している。<霊=プネウマ>は本来人間に属さない神の永遠の命である。うまい譬えではないが、<プシュケー>が一定量の命の<電池or溜池>だとしたら、<霊=プネウマ>は命が創り出される<発電機or泉>に相当し、それ自体が根源的命であり、命の供給源である。
 つまり、最初の人間の始祖アダムは、土人形が外から限定的な自然的命を受けて<生き物=プシュケー>となったが、最終的人間の始祖キリストは、創造し「命を与える霊=プネウマとなられた。だから復活者キリストの身体は、「(見えざる)神の似姿」であり、創造の霊である根源的命に生きておられる。この<霊=プネウマ>が与えられたのは、復活の時点であり、これによって万物を支配更新する神の権能が彼(復活者キリスト)に与えられた。(だが、それには死に至るまでの従順」という御子の義を遂行し終えねばならなかった)。ナザレのイエスは「命を与える霊=プネウマを付与され、はじめてキリストとされた。そうして、(プネウマ=霊)を付与するキリストの権能により、聖霊を信仰者に注がれるのである。
 聖霊を注がれた自然的人間は、<蒔かれた>種粒のように、将来、キリストの似姿に復活することが約束される。だから、まだ自然的命にあっても、聖霊の導く力により「天に属するその人(キリスト)の似姿」に向かって目的を持って生きる。例えばパウロは、自然的命としては「日々死んでいく」宣教の生活において、「なんとかして死人のうちからの復活に達したい」との目標に向かって生きたのであった。
  今日は、復活において現在とは異なる<朽ちない、輝かしい、力強い霊の体が与えられる事、そしてキリスト者は、約束された永遠の命を目指して<今>を生きるべき事を学んだ。続きは次回。