家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

キリストの為に生きる

2026年10月18日 トリニティ教会礼拝
テキスト:エペソ3:1~13
讃美歌:249&391

          C.救済の奥義としての教会とキリスト者の存在(エペソ2:11~3:21)

 前回まで、地上のキリスト者共同体(教会=エクレシア)は、キリストを「頭」とする「一つの体」であり、地上に福音を宣教するために派遣された「キリストの弟子集団」であることが示された。この普遍的教会は、聖霊によって導かれ、時代を超えた命を持って地上を歩み、成長する。また、地上において神が臨在され「御父に近づき」「礼拝する」場所でもある。壮麗な大教会でも、「二人または三人が」御言葉の下に集う場合でも、「霊と真理をもって礼拝する」場所が、神が臨在される「神の住まい=教会」である。エペソ書著者の関心は、キリスト者各人及び共同体が、以上のような「普遍的教会=エクレシア」の役割・立場を自覚し、個人の救済を超えた神の深い摂理を理解するに至ることである。そして、福音を自分達「異邦人」に伝えた偉大な使徒「パウロ」を想起し、彼の霊によって宛先の教会群に語ろうとしている。
 今回の箇所は、「パウロ」の名の下に、彼の宣教から浮かび上がる救済の奥義を解説している。

(3)「教会」による救済の奥義の解説者パウロ(3:1~13)
 「こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは……。」と、2章11節以降語られてきた「キリストにあって一つの体となり、(中略)主における聖なる神殿となる」事を理由にして、何事かを語り始めようとした。
 ところが、それを中断し、「あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロ」について語り出す。つまり、使徒パウロの役割と受けた啓示についての著者の認識を語るのである。この書簡を書いた使徒の状況としては、ピレモンへの手紙を書いた当時の、エペソの獄中にあったパウロを想定している(パウロ名書簡は、全て獄中書簡の形式で作成されている)。彼が投獄されたのは律法を超越したキリスト信仰の故であり、異邦人への福音宣教の為に囚人となったと言える。だが、それ以上に、キリストに捉えられ、彼に堅く結びつけられた囚れ人の意味が強い。
 「 2あなたがたのために神がわたしに恵みをお与えになった次第について、あなたがたは聞いたにちがいありません。 3初めに手短に書いたように、秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。 4あなたがたは、それを読めば、キリストによって実現されるこの計画を、わたしがどのように理解しているかが分かると思います。」
 キリスト信仰の迫害者サウロが、ダマスコ途上で、異邦人への使徒として召された次第は有名だから、著者が(勿論パウロ自身も)面識ない宛先教会も、当然知っていることを前提としている。ダマスコ体験でパウロに啓示された「秘められた計画」は、「初めに手短に書いた」とあるから、他のパウロ書簡ではなく、2章11~23の内容である。特に次の6節にある「異邦人が同じ約束にあずかる」事を指すと思われる。それをよく読めば、キリストによって実現されつつある神の救済計画を、パウロ(=著者)がどう理解しているか分かる、という。
 つまり、相互に交流がないバラバラの宛先教会群が、啓示された事柄について共通の認識を持ち、教会の使命について霊的一致に至る事を目標としている。そして、その啓示された「秘められた計画」について語り出す。

 「 5この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や“霊”によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。 6すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。」
 旧約聖書では、世の終わり=神の救済の完成について、一部の選ばれた人(預言者等)には示されると考えられていた。すなわち、義人は苦難に遭うが終には救済されるというものである。ところが、キリストの出来事という、実際に神がもたらした救済は、義人ではない<異邦人>が、キリスト信仰によって「同じ約束にあずかる」という驚くべき事である。これは、キリスト以前には全く予想もされなかった。
 つまり、少数の義人達だけではなく、神に棄てられた側の人間達、すなわち「空中の権」を持つ悪の勢力の支配され、死と滅びへと追い立てられて行く畜群のような罪人達が、キリストの十字架によって「神の国」の正統な世嗣へと奪還されたのである。この落差のすごさよ!悪の勢力の餌食であり、滅びに定められた最も哀れな者達が、天上の市民となり、天から追放され投げ落とされた神に背く勢力の上に立ったのである。こんな事態、悪の勢力には耐え難い屈辱である。

 「 7神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。 8この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました。わたしは、この恵みにより、キリストの計り知れない富について、異邦人に福音を告げ知らせており、 9すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのかを、すべての人々に説き明かしています。」
 以上のような落差、「高きにいます神が、低き者を顧み給う」落差(恵み)の大きさを表現するために、著者はパウロを「聖なる者たちすべての中で最もつまらない者」と自称させ、この「罪人を義とする」福音の宣教者とした、と述べる。万物の創造者である神が、創造の初めから意図されていた「秘められた」恩寵の計画=救済の完成が、どのように(キリスト=神御自身の自己犠牲により)実現されて行くかを、「すべての人々に説き明か」す宣教活動を行っている、とする。
 「 10こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、 11これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。 12わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。 13だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。」
 以上のように使徒としての働きをパウロに語らせ、宣教の結果「低き者を、高め給う」(マリアの賛歌)神の恵みが、地上での「教会」の存在により、誰の目にも、特に「空中の権」を持つこの世の「天上の支配や権威」に知られるようになった。これは、「キリスト・イエスによって実現された永遠の計画」に沿うものであり、キリスト者は奴隷が主人に向かうようにではなく、キリストに所属する者として、子が父に対するように、愛されているとの確信と、心からの自由な愛と感謝をもって「大胆に神に近づくこと」ができる。このような大きな幸いを受ける事ができるのは、ひとえに、「御自分の御子をさえ惜しまないで」死に渡された「神(父)の愛」と、「御心の成就」を祈り罪人に代理して苦難と死を自ら受け入れ給うた「主イエスの恵み」による。使徒パウロおよび福音宣教者の受ける苦難は、主の苦難の反映なのだから、「あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆」してはならない。福音宣教者の受ける苦難は、自分達の為に主が受け給うた苦しみをキリスト者に想起させ、信仰を呼び起こし、栄光に至らせるものである。 Ⅱコリント4:11&12でパウロは「わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。 12こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働く」と言っている。同じことを、エペソ書は、使徒・宣教者の苦難イコール「あなたがた(キリスト者)の栄光」と云う。
 思えば、キリスト者が「聖なる民に属する者、神の家族」という「栄光」を受けたのは、罪の報いとしての死と滅びを、キリストが全人類を代表して受け、古い人類(最初のアダム)を死んだ者として下さったからである。パウロはこう言っている「ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである」Ⅱコリント5:14。 
 続いて言う。「そして、彼がすべての人のために死んだのは、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである」Ⅱコリント5:15。つまり罪に死んで、復活の新しい命に生きるキリスト者は、もはや自分の救済という自己追求ではなく、「自分のために死んでよみがえって」下さったキリストに奉仕するために生きようとする。現世&来世の自己追求を止め、かえって「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」(行伝5:41)さえする。エペソ書著者の言いたいのも、そこ(証し&奉仕について)であろう。
 地上の信仰者達は、聖霊によって強められ、「神の国」完成の為に今なお働き給うキリストに仕える「教会」へと、成長しなければならない。「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる」(ロマ1:17)とある。エペソ書は、「(救済を得た最初の個人的)信仰から(主に従い彼に仕える教会の)信仰へ」と進むべき事を語ろうとしている。
 今日はここまでとし、次回は、教会の為の使徒の祈りを取り上げる。