家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

伝道旅行報告とエルサレム会議

2026年1月25日
テキスト:使徒行伝14:21~15:18
讃美歌:225&354

                            E.エルサレムとアンティオキア
                          Ⅱ.アンティオキア共同体とその活動
(5)バルナバとサウロのキプロス島・ガラテヤ州南部への伝道旅行
 前回は、マルコが抜けてバルナバ・サウロだけで❶ピシディアのアンティオキアのシナゴーグで説教し、次の安息日にはほとんど町中の人が集まるほど大きな成果を挙げたこと、その一方、反律法とも受け取られかねない「イエス・キリストへの信仰によってのみ義とされる」という<信仰義認>の教えが、律法に熱心なユダヤ人の反感を買い、有力者を巻き込んで町から追い出される羽目になったこと、❷次にイコニオン(現在のコニア)に向かい、そこにある程度(数ヶ月?)滞在し、町中をキリスト信仰側とユダヤ教側に二分するほどの成果を挙げた。だが、ユダヤ人のリンチを逃れて、❸リストラとデルベ周辺に向かった。リストラにはユダヤ人が少なかったのだろう、唯一の神を知らない異教徒達は、パウロが足萎えを立ち上がらせた奇跡を見て、バルナバパウロをゼウスとヘルメスの化身だと誤解し、供犠と花輪を捧げようとする珍事があった。シナゴーグ以外での異邦人伝道は、まず唯一の真の神の存在を教る事から始めねばならないのである。❹だが、アンティオキアやイコニオンのユダヤ人たちが、パウロを律法違反を教える者として追って来て、石打ちにした。死んで町の外に引き釣りだされたが、弟子達がパウロを囲むと蘇生して立ち上がった。❺そして、デルベに逃れデルベとその周辺で伝道した。こうしてガラテア州南部に多くの信徒と信仰共同体を設立する事ができた。今日は、伝道旅行の帰路と彼らを送り出したアンティオキ母教会への報告を取り上げる。
d.伝道旅行の帰路とシリアのアンティオキア教会への報告
 「二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、 22弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。 23また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた」。
  地図を参照すれば分かるように、ガラテヤ州南部デルベから山脈を抜ける道「キリキア門」を通りタルソ経由で(船便で)シリアのアンティオキアに戻るのが一番近道である。だが、二人は苦労して設立した各地のキリスト者共同体を再訪し、以後の信仰生活を指導し励ます為、デルベから引き返しリストラ、イコニオン、アンティオキアを再訪していった。まず、❶長老達の指名ディアスポラユダヤ人がそうであったように、その町に定住する同信者のうち信仰的にも日常生活でも指導者となれるリーダー(長老)を指名した。これはシナゴーグのような共同の集会場や専任の指導者がまだないキリスト者共同体にとって是非必要な事であった。❷そして「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と、患難や誘惑に耐え信仰を全うするよう励ました。
 「24それから、二人はピシディア州を通り、パンフィリア州に至り、 25ペルゲで御言葉を語った後、アタリアに下り、 26そこからアンティオキアへ向かって船出した。そこは、二人が今成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて送り出された所である。 27到着するとすぐ教会の人々を集めて、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。 28そして、しばらくの間、弟子たちと共に過ごした。
 ❸ベルゲでの伝道:マルコと別れたベルゲでは、往路では伝道しなかったが帰路ではそこでも伝道し成果を挙げ、船便でシリアのアンティオキアに戻った。❹シリアのアンティオキア教会への報告:二人を送り出したシリアのアンティオキア教会は、新しく入信したキリスト信仰を守る事だけでなく、自分の受けた福音を、それをまだ知らない人間(世)に伝える事を信仰の証、また主イエスへの服従と捉えていた。パウロバルナバの伝道旅行は彼らの個人的活動というより、アンティオキア教会に働きかけた聖霊に指名され、アンティオキア教会全体を代理・代表しての伝道活動であり、教会の祈りに支えられ送り出されたものであった。だから二人は、帰還すると直ちに教会全員を集めて伝道旅行の報告をした。主の霊(聖霊)が「異邦人に信仰の門を開いてくださった」という報告は、使徒行伝11章で異邦人百卒長コルネリウスらへの聖霊降臨を聞いて、エルサレム共同体の人々が「『それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ』と言って、神を賛美した」事に対応している。行伝著者は異邦人世界へのキリスト教進展を主題としているからエルサレム教会とアンティオキア教会同時進行形で福音がヘレニズム世界に進展していったと記述するのである。
 しかし、福音がイスラエル民族を超えて異教世界に進展するにつれ、ユダヤ人社会ではあり得なかった問題も生じてくる。それが異邦人キリスト者と律法の関係であり、特に割礼問題として表面に出てきた。

            エルサレム会議とその前後
(1)使徒行伝によるエルサレム会議
 「ある人々がユダヤから下って来て、『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と兄弟たちに教えていた。 2それで、パウロバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった
 割礼はエジプトその他古代世界に広く行われていた陽皮切除手術で、本来は婚礼と関係があり男性が(結婚可能な)成人に達した徴であった。だがバビロン捕囚期以後は神との契約の徴とされ、ユダヤ人(イスラエル男子)は生後すぐに施される習慣となった。特にパレスチナユダヤ人は律法遵守に熱心であった。パリサイ派や更に厳格なエッセネ派の人々が多くキリスト信仰に入信するにつれ、エルサレム在住のキリスト者はそうした律法に熱心な者達が中心となっていた。彼らにとっては、キリスト信仰はユダヤ教信仰の延長線上にある究極のイスラエル信仰そのものであった(実際、その通りである)。そこで、異邦人もキリストを信じ受け入れ「神の民」とされた以上、その徴として割礼を受けるのが当然と考えたのであろう。またそれだけで無く、エルサレムの政治情勢は危険なまでに律法遵守の国粋主義に燃え上がっていた(ステパノ殉教や使徒ヤコブの斬首、ペテロの投獄など)。少しでもキリスト者達が律法軽視すると見られたら、エルサレムに在住する事さえ困難な情勢であった。アンティオキアで使徒ユダヤキリスト者が異邦人と同席の食事をすれば、エルサレム教団自体も律法軽視の集団として迫害される危険があった。そこで、エルサレム教団の一部の人がアンティオキアに来て、異邦人キリスト者も割礼を受けるよう説得した。割礼を受ければ改宗者=ユダヤ人となるから同席の食事も問題ではなくなる。しかし「割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」との主張(ユダヤ人化主義=ユダヤ主義)は、信仰によってのみ義とされるとする「福音」に抵触する。ユダヤ人はユダヤ人のまま、異邦人は(改宗してユダヤ人にならずに)異邦人のまま、イエス・キリストへの信仰によってのみ義とされる。つまり、信仰のみが救済の要件であり、人間側からの外面的律法遵守はもはや救済の要件とはなり得ないからである。
 従って、パウロバルナバvsユダヤ主義キリスト者で論争となり、この問題に決着とまで行かずとも調停を図るため、ユダヤ主義者の出身母体であるエルサレム教団(十二使徒らが創設し現在は長老達によって指導されていた)と話し合いが必要となり、アンティオキア教会はパウロバルナバほか数名(なかには無割礼の異邦人キリスト者テトスもいた)をエルサレムに送り出した。
 「一行は教会の人々から送り出されて、フェニキアサマリア地方を通り、道すがら、兄弟たちに異邦人が改宗した次第を詳しく伝え、皆を大いに喜ばせた。 4エルサレムに到着すると、彼らは教会の人々、使徒たち、長老たちに歓迎され、神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告した」。ペテロら(ステパノらのようなヘレニストではなく)パレスチナ出身の使徒達も、ヘロデ・アグリッパ王の迫害以来、エルサレム在住が困難であったから、どの程度エルサレムに集まれたかは不明である。だが、少なくともペテロのほかヨハネもこの会議に出席している(ガラテヤ2:9「ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました」)。会議の結果は、パウロ福音主義者の主張が通り、異邦人キリスト者に割礼は不要との結論が出された。 行伝記事によれば、パウロ福音主義者とユダヤ主義者で激しい論争が行われ、ペテロが立って異邦人コルネリウスらへ無割礼のままの聖霊降臨を語った。「すると全会衆は静かになりパウロバルナバの語ることを傾聴した。最後に主の兄弟ヤコブが、アモス書9:11~12を引用して討論をまとめ、「わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません」と結論した。ヤコブがまとめ役の議長的発言しているのは、その時点で、ユダヤ教内のキリスト信仰を代表する立場にあったからである。この時点で、キリスト信仰はユダヤ教と分離しておらず、パリサイ派エッセネ派と並んで「ヤコブ」等と呼ばれるユダヤ教の一派であった。
 エルサレム会議については、今回取り上げた使徒行伝記事のほかに、会議に出席したパウロ自身がガラテヤ書で語っている。それが第一次資料として最も信憑性が高いから、次回はそれと比較して使徒行伝記事を読んで行きたい。