2026年9月6日 トリニティ教会聖書研究会
テキスト:エペソ2:1~10
宛先への語りかけ
前回取り上げた前置き(前書き)で、著者はまず色々の傾向にある教会群が、互いに同信の仲間として敬意と愛情を抱き合うことを、神に感謝する形式で勧告した。次に執り成しの祈りで、彼らに❶「知恵と啓示との霊」が与えられ、更に深く神を認識しうること、➋それに「心の目」が開かれて、神から与えられる希望と、受け継ぐべき神の国の栄光の偉大さ、および❸信仰者に働く「神の力」が「どれほど大きなものであるか」悟り、信仰認識が深められるよう、祈った。
そして、万物の支配者である復活者キリストが、「頭として教会に」与えられたと述べて、「教会はキリストの体」であるとした。頭は天にあり、身体が地上にある巨人のイメージは、私達には奇異に感じられる。だが著者はこの例えで、キリストの霊(聖霊)によって地上のキリスト者が一つに結ばれ、各自キリストの弟子達として働くべきことを言いたいのだと解釈した。人間を含む天地万物はキリストによって統御支配されるが、「キリストの体」である「教会」は、宣教という特別なキリスト(救主)の業を行う手足(道具)として用いられる。それが、万物とは別の形で、キリストが「満ちておられる場」だと云うことだろう。
実際、キリスト者自身は救済を受けた罪人に過ぎない。だが復活者は、「救済を受けた罪人」自身がそれを体現する証人として、神の側から為された救済(福音)を世に伝えるよう命じられた。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」マタイ28:19&20
エペソ書著者の語り方は、当時の宇宙観を反映して現在の私達には奇異に感じられる。だが、彼が当時のキリスト者達に伝えようとした信仰的勧告を、私達なりに解釈して受け取っていきたい。
執り成しの祈りに続き、著者は宛先のキリスト者達に、彼らが(主にある)新しい存在になったことを語りかける。
B.前書き(2) 宛先への語りかけ
「1さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。 2この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。 3わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」
1~3節まで、宛先人たちの入信前の状態を述べている。自分を創造し保持して下さる神を知らず、自分を自分の主人と思い込み、生命の源である神との繋がりを絶った死の状態にあった。それが「過ちと罪のために死んでいた」と表現されている。その結果、神に叛く霊的勢力に捉えられ、操られて「肉の欲望の赴くまま…」生活していた。「神に叛く霊的勢力」を「かの空中に勢力を持つ者」と表現するのは、神の居ます至高の天から地上に至るまでの空間、つまり「空中に」何層かの霊的勢力圏があり、それぞれの勢力圏を支配する霊的存在(グノーシス=天使)が地上に力を及ぼしている、という当時の宇宙観からである。つまり、一定の権勢を有する霊的存在(グノーシス)が、神に反逆して地上の出来事や人間を支配しようと働いている、との考えである。(悪魔ルチファーも力ある天使であったが、神に反逆して天から墜とされ、このような霊的存在となったとされる)。
「過ちと罪」は、具体的には「泥酔、宴楽、性的放縦」等の異教的退廃が想定されるが、それに限定されない。神に熱心なパリサイ派ユダヤ人でさえ、パウロがロマ書で「善を行う意志はあるが、その力がない」と嘆いたように「欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行」う我欲=自己追求という罪の法則に捉えられているからである。神を知らない異教徒に限らず、罪の肉に支配される者は全て「生まれながら神の怒りを受けるべき」人間である。ここから、後に「原罪」という考え方が生まれてくた。だが「原罪」は遺伝された素質や体質のようなものではなく、各人の意志的決定という、自己責任としての神への反逆である。ゲッセマネで「わたしの願いではなく、父の御心がなる事」を祈られた、神に従順な(罪を知らない)「神の羔羊」イエスの死によって、全人類の「肉=我欲」が贖われた。それを信じ受け入れる者は、「キリストと共に葬られ、その死にあずかる=罪に対して死んだ」ものとされる。つまり、「肉(我欲)に従って生きる」事を止め、復活者キリストから分け与えられる新しい「永遠の命」に生きる始めるようになる。
「4しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、 5罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです―― 6キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」。
4~6節は、入信以降のキリスト者が置かれた状態である。洗礼によって「肉に死に、霊に生きる」者となった事を、「罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし」と表現している。これはパウロも「キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています」(ロマ8:10)と語った事である。ここで、御子イエスの死という代価を払って、人間に命の道を開いて下さった神の愛に感動し、「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」と挿入している。一切は、背く人間を見捨てず追い求める神の愛による。
しかし、まだ肉にあって生きている「わたしたち=キリスト者」が、すでに「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせ」られた、と過去形で語るのは、少し言い過ぎのように感じる。死者の復活と信仰者がキリストと共に支配することは、将来の完成の時点で実現する事柄であり、現在ではまだ希望に属する事である。「“霊”は義によって命となって」いても、地上のキリスト者はまだ肉にあって「自分を捨て、自分の十字架を負って」主に従う道を歩き終わっていないし、死者の復活は未だ到来していない待望の事柄である。
著者自身それを弁えているから、導入の讃美で「時が満ちるに及んで、救いの業が完成され」と完成を将来の事としている。だがこの書簡の関心は、地上のキリスト者・教会が一致団結し、地上で福音の証人として働く事に集中している。その為、黙示録のヨハネが天上で勝利者キリストが白い衣を着た信仰者の群れに囲繞されているのを見たように、まだ地上で実現していないが、天上ですでに実現している事実を、述べたと考えられる。同じようにヨハネ伝も「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ること」と、現在の信仰的認識をそのまま「永遠の命」と同一視している。だが同時に、主が「その人を終わりの日に復活させる」と何度も繰り返し、「終りの日の復活」を否定していない。地上の生活での信仰的認識だけを一面的に強調し、約束の事柄への待望が抜け落ちれば、信仰は「この世の生活」に関わる人生哲学や思想に陥ってしまう。パウロも「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」(Ⅰコリント15:19)、と述べている。十字架の贖いや復活は、理性で把握できない出来事であり、科学重視の現代人には躓きであるから、信仰を現在の実存的認識に矮小化して解釈しやすい傾向がある。だが私達は、信仰がもたらす現在時点の恵み(すでに)と到来を待望する希望の確信(いまだ)の緊密な結びつきを、しっかり押さえておきたい。この希望が、信仰と愛に尽きない力と命をもたらしている。
「7こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。 8事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 9行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。 10なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」
7節では、与えられた恵みは、現在のキリスト者達の為だけでなく、「来るべき」次の世代の人間達に、その恵みを体現した者として、福音を証し伝える為である、とする。つまり、教会は地上に仮設された予備的「神の国」では決してなく、むしろ到来する「神の国」を宣べ伝えるために「世に派遣された」弟子達の群れとして働く。イエスが「枕するところなく」放浪し、神の国を宣べ伝え、十字架の死を遂げられたように、彼に遣わされた弟子達も彼が歩まれた足跡に従い、「悪霊を追い出し、病人を癒やし、神の国を宣べ伝え」、「労し、苦しみ、度々眠られぬ夜を過ご」す。だが、このような「一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたら」す事を知っていて、慰められ力づけられるのである。
エペソ書時代以後、激しい弾圧を乗り越え、キリスト教がローマ帝国の国教となった。そして有名無名のキリスト者達の働きにより福音は全世界に展開し、遂に現代日本の私達にまで伝達された。 その一方、「教会」は「自らの力」を誇り、力で少数者や弱者を支配し、帝国主義的侵略の先兵となったり、少数者を弾圧するなど、数々の過ちや罪を犯してきた。これを正直に認め、悔改め、8節以下にあるように「善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られた」神の作品、すなわち「神から生まれた人」として、地上のイエスの御跡に従って歩んでいくよう、著者は読者に語りかけている。(「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです」Ⅰヨハネ3:9)。「神の種」とは信仰であろう。
「わたしたちのために、命を捨ててくださ」ったイエス・キリストにおける神の愛への感動=信仰が、預言者が言うように「公義を行い、慈しみを愛し、謙って神と共に歩」ませ、困難や挫折にあっても神に依り頼み信頼して自分を委ねる、という神の喜び給う「善い業」を行わせる。
「神の賜物」としての信仰を、いよいよ切に祈り求めていきたい。