2024年4月21日
テキスト:Ⅱコリント5:18~6:13、7:2~4
讃美歌:304&494
コリント人への第二の手紙
A.最初の弁明
パウロは前回、自分達を論敵が誇るような外面的基準で見るのではなく、自分を忘れてキリストに献身してきた実績という内面的基準で見るように迫った。自分達が通常を越えて「正気でないとするなら、それは神のため」であり、「キリストの愛がわたしたちを駆り立てて」そうさせたのである。そしてまた、理性や常識という「正気」を用いて「あなたがた」を説得しようとしている。
まず判断の前提として、イエス・キリストという「一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も(人間的基準では)死んだ」とみなされる事実を指摘した。これを受け入れるなら、もはや経歴や能力等の「肉に従って」人間を判断すべきではない。
「その一人の方がすべての人のために死んでくださった」目的は「生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きる」ためである。こうしたキリストへの献身を、人間を判断する基準とすべきである。
だから「わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとは」しない。(当然、あなた達もパウロ一行を人間的基準で判断してはいけない)。かつては「肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとは」せず、自分の救主と信じ受け入れている。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」。この新しい現実から、何事も発想し判断すべきである。
パウロの論述の目的は、本来、自己弁明ではなくコリント教会を正しい信仰に導く事である。そこで続いて彼らに対する自分達の役割を述べる。
(14)和解の勧告(5:18~21)
「18これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。 19つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。 20ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。 21罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」
今まで述べたように、神は神に離反した生来の人間存在をイエスの死によって死んだとみなし、死に至る迄の従順を貫かれたイエスを復活させて神と調和した新しい人類の始祖(新しいアダム)とされた。しかしこれは、人間が関与しない一方的な神の行動である。ところが、和解とは対立関係にある両者が❶対立を解消させ❷新しい関係に入る事であるから、一方が和解を提示しても、相手がそれを受け入れなければ和解は成立しない。神の側からのイエスの死と復活という和解の提示を、個々の人間がその人格において受け入れてはじめてその人と神の和解が成立する。パウロ達は、神の代理人として神からの和解の申し出を人間達各自に伝達する任務を負っている。
19節、つまり各人がイエスをキリストとして受け入れるならば、その罪科を問わずキリスト・イエスに属する神の子供とするとの、神からの和解の申し出がパウロ一行に委ねられている。
20節、だから「わたしたち」をとおして、神が和解を提示されるのであるから、「わたしたち」はキリストの使者である。キリストに代理して願う。神からの和解を受け入れなさい。(それはつまり、パウロ一行をキリストの使者として受け入れよ、ということである)。
21節、神に従順であり罪を知らないイエスが、すべての罪ある人間を代理して呪いの死を遂げて下さった。これによって神に負い目のない関係(神の義=和解)に入る事ができた。(それを受け入れると言う事は、受け入れた人間側も神との新しい関係にふさわしく変化すべきである)。
和解は神との親密な関係が開始したと言う事であり、救いの完成へに向かって動き出したに過ぎない。キリストが示す目標である「霊的身体への復活=身体が贖われること」という完成を目指し、聖霊に励まされつつ進まねばならない。そのことが、次に語られる。
(15)恵みを無駄にしないようにとの勧告(6:1~10)
「1わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。 2なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」
1節、コリント教会の人々はパウロの伝えた福音を受け入れ、キリスト信仰を告白して神との和解の場に入るという「恵み」を受けた。だが肉に生きている限り、自然的自我から発する自己追求から完全に自由にされたのではなく、絶えず古い人間のまま生きようとする誘惑がある。というよりも、それが本来である。「わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。 24わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」(ロマ7:23/24)と、嘆かざるを得ない。だが、「初穂」キリストの死と復活は、「罪と死の法則」から信仰者を解き放った。罪と闘って勝利する道が開けたのである。和解を得たと言う事は、罪に抵抗する自由を得たと言う事である。エジプトの奴隷だったイスラエルが、脱出(エクソダス)の恵みを得たようなものである。そこから、人生の荒野を、「約束の地」目指して、進んでいかねばならない。神は、水も食物もない荒野を、昼は雲の柱、夜は火の柱としてイスラエルを導かれた。荒野の40年が、イスラエルが神に従う事を学んだ神との新婚時代であったように、信仰者の人生はキリストに従うことを学ぶ婚約時代である。「おのれの愛する者に倚りかかりて荒野より上りきたる者ものは誰ぞや」(雅歌8:5)。2節は、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と、神助の完全さで、信仰者を励ましている。「恵みを無駄にしては」ならない。
パウロは3節以下で、自分達を実例に挙げ、福音が誹られないようにどんなに努力し真実を尽くしているかを述べている。「 3わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、 4あらゆる場合に神に仕える者として<その実>を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、 5鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、 6純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、 7真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、 8栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、 9人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、 10悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」
キリスト者をこのような者とするのは「神の力」であり、聖霊の助けである。私達も自分の人生において主への愛と真実を実証できる者でありたい。
(16)結び(6:11~13,7:2~4)
「11コリントの人たち、わたしたちはあなたがたに率直に語り、心を広く開きました。 12わたしたちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたは自分で心を狭くしています。 13子供たちに語るようにわたしは言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください。」
7章「2わたしたちに心を開いてください。わたしたちはだれにも不義を行わず、だれをも破滅させず、だれからもだまし取ったりしませんでした。 3あなたがたを、責めるつもりで、こう言っているのではありません。前にも言ったように、あなたがたはわたしたちの心の中にいて、わたしたちと生死を共にしているのです。 4わたしはあなたがたに厚い信頼を寄せており、あなたがたについて大いに誇っています。わたしは慰めに満たされており、どんな苦難のうちにあっても喜びに満ちあふれています。」
論敵に唆され、パウロ一行とその福音から離れようとするコリント教会に対し、パウロは率直に自分達の心情を語った。彼は自分が宣教してキリスト者としたコリントの人々を、自分が産んだ子供のように愛し受け入れている。だから現在の確執は、パウロ側ではなくコリント教会側にある。どうか親子のように分け隔てなく、自分達に心を開き受け入れて欲しいと述べる。
自分達は、コリントの人々の誰に対して誠実であったし、(献金を)だまし取ったりするどころか自活して伝道してきた。コリント教会の態度を責めているのではない。あなた方がキリスト者であることが「どんな苦難のうちにあっても」自分達の喜びであり、慰めとなっていると、懇切に語っている。以上で、「最初の弁明」の手紙は終わる。
★差し込まれた別の書簡(6:14~7:1)
「14あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。 15キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。 16神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
17だから、あの者どもの中から出て行き、遠ざかるように』と主は仰せになる。『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、18父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。』全能の主はこう仰せられる。」
7章「1愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」
「生ける神の神殿」とタイトルがついている以上の箇所は、コリント教会宛第二書簡とは全く別の書簡の断片であり、何らかの事情で編集の際にここに差し込まれたものと考えられている。
第一書簡5章9~13節に「9わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが、 10その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません。もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう。 11わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。12外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。 13外部の人々は神がお裁きになります。『あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。』」とある。その以前の手紙となのではないだろうか。キリスト信仰に入っても、異教の風俗や儀式に参加して日常的生活や社交を変えない事についての戒めである。現在の日本でも、地域の神社祭儀、初詣や七五三詣で、地鎮祭など、キリスト信仰にそぐわない行事を慣習として継続しているキリスト者がいる。だが、内村鑑三はご真影を拝礼せず社会的制裁を受け、長崎の隠れキリシタンは「心の中でのみ信仰すること、かないませぬ」と仏教行事を拒み弾圧された。このように外部に対し自分の信仰を他と区別してハッキリと示すことが、他者に対する信仰の証となる。代々の信仰者達は、皇帝礼拝や宗教改革など、命がけで自分の信仰を証してきた。その殉教の歴史があってやっと信教の自由が法律に保障されたのだから、自分の信仰にそぐわない事はハッキリと拒否すべきである。社会に協調しつつ、他者に対し自分の信仰を証することができるよう、現在の私達も、注意深く心がけていきたい。