家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

第二回コリント訪問

2024年5月5日

テキスト:Ⅱコリント10:1~6

讃美歌:2&499

                                コリント人への第二の手紙
                              <第二回目のコリント訪問>
                                            
(1)「最初の弁明」書簡後の、第二回コリント訪問
 パウロは第一書簡の最後に、五旬節まではエペソに留まらねばならないので、まずテモテを派遣し、その後に自分もマケドニア経由でコリント訪問の予定であると記している(1コリ16:5~11)。コリント再訪の目的はエルサレム教団への募金活動のためであり、各地からの献金をコリントで集約しエルサレムに届ける予定だったのである。
 ところがコリントがテモテが戻ってきて、外部からコリントを訪れた伝道者達にパウロ使徒職性を貶めるような言動があり、教会がそれに唆されてパウロから離反する動きがあると知らされた。パウロは驚いて、自分が「新しい契約=福音」の使徒であり、神からの和解の使者であると今一度説明し、神からの和解を受け入れのは、その使者である自分を受け入れることである、と「最初の弁明」の書簡(Ⅱコリ2:14~7:4)で述べている。だがこの時点では、自分が創設した教会がそれほどたやすく離反するとは思わず、彼らの信仰を励ます傍ら自分の使徒性を弁明する余裕があった。

 だが、コリントの状況は予想以上に悪く、「最初の弁明」書簡は期待した成果を挙げられなかった。パウロはコリントをローマ帝国宣教の基地として最重要視していたから大変に心配し、(献金集約のためでなく)海路直接コリントに乗り込んで状況解決を図った。この第二回コリント訪問は使徒行伝に記載がない。だが「わたしはそちらに三度目の訪問をしようと準備している」(Ⅱコリ12:14)との記述がある以上、それ以前に2回目のコリント訪問が為された筈である。しかもその際、外から入り込んだ論敵「使徒」と対決したようだ。だが、論敵は一部のコリント教会の人々を取り込み、パウロと対決させた。そのためこの訪問は、パウロにコリント教会の離反を明白にさせる結果となった。失意の中、エペソに戻ったパウロは「わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに」(2:4)、違った福音に惹かれていくコリントの人々を叱責する手紙を書いた。これが、いわゆる「涙の書簡」であり、現在の10~13章部分がそれに該当する。
(2)コリントの論敵
 「涙の書簡」の本文に入るまえに、コリントの論敵(他人を誹るのが嫌いなパウロが「使徒」とまで呼び、対抗意識を剥き出しにしている)がどんな人達だったか考えてみたい。この書簡に記載された範囲でわかる事は以下の通りである。
 ①ユダヤ人であり、かつ外部から教会に来訪したキリスト信仰の「働き人=伝道者」。
 ②しかし、ガラテヤ教会に来訪した論敵と異なり、「割礼」や「律法」を押しつけるユダヤ化主義者ではなかったらしい。
 ③パウロ使徒職性を貶め、特にエルサレム教団への募金活動に批判的だった。
 ④「不思議と力ある業」つまり超常現象を起こす能力や「特別の啓示」を誇る「霊の人」だったらしい。
 パウロは、キリスト教伝道者同士の勢力争いには超然としており、宣教の動機が「見えからであるにしても、真実からであるにしても、要するに、伝えられているのはキリストなのだから、わたしはそれを喜んでいるし、また喜ぶであろう」(ピリピ1:17)と述べているように、だれが伝道しようと、同じ福音が伝えられるならそれを喜んだのである。
 ところが、コリントの論敵に対しては、「肉に従って誇る」と恥じつつも、自分の使徒性が彼ら以上である事を強く主張し対抗意識を剥き出しにしている。これは、論敵が自分達の権威で教会に押しつけようとする「信仰」が、パウロの伝えたと異なる「」から由来すると判断したからである。
 発生したばかりの最初期のキリスト者達には色々な傾向や派閥が存在した。ステパノやピリポといった「律法」から割合自由な立場をとるヘレニストキリスト者や、律法を重んじユダヤ教伝統を守るヘブル的キリスト者(エルサレム教団など)がおり、またエッセネ派バプテスマのヨハネの弟子集団からの入信者など、色々な傾向のキリスト者達が存在した。その中のユダヤ化主義者が、パウロの建てたガラテヤ教会を訪れ「割礼」を押しつけようとした事は有名である。だが、反対に「律法」から自由で、ヘレニズム哲学に影響されたユダヤ人達を中心とする「キリスト信仰」もあり得ただろう。そうした人達が、ユダヤ教シナゴーグから自由になり自分達独自の分派としてキリスト信仰を推進しようと考えても不思議ではない。後に、イスラエル信仰伝統を切り捨てキリスト教を独自の宗教として捉えようとする異端(マルキオン派など)が生じたように、コリントの論敵も、エルサレム教団のようなユダヤ教に拘るキリスト者集団を切り捨て、独自のキリスト信仰による分派または新興宗教としてキリスト教を形成しようとしたのではないか。それは、非ユダヤキリスト者達の心霊的内面的なヘレニズム末期の「宗教性」とよくマッチした。第一書簡で分かるように、教会内部には霊的知恵=グノーシスを誇る人々が存在した。おそらく、パウロの人間的知恵を誇らない「十字架の言葉」を理解しきれず、グノーシスを誇るそうした人々が、来訪した論敵の外面的な「不思議と力ある業」や「特別の啓示」に共感し、パウロと対決する方向に誘導されたのではないだろうか。
 現代でも、オウム真理教の教祖が宙に浮き上がって座禅しているようにみえる写真だけで、熱狂的に信じ込んでしまう人達がいた(弁護士が、同じ事を両膝とお尻で飛び上がればできると証明していたが)。当時も同様で、ちょっとした霊的能力を示せば、もともと霊的能力に憧れる素地があり超常的現象を霊力と認める人は、簡単に信じ込んでしまうのである。
 しかしパウロに顕現し、彼を使徒として召した復活者は、単なる心霊現象ではなく圧倒的な現実であり、頭の中で作り上げた仮説や教説でもない。イスラエルに御自分を啓示された神が、預言者達と律法を介して予告され、時満ちてイエスの死と復活として救済を実現されたのである。イエスをキリストと信じる者が、終りの日に復活させられる形で神の国は完成する。全世界が一人のキリストを通して救いに与るのであるから、考えが違う他の人間達を切り捨て、同じ信仰の仲間だけで救いに与ろうとするキリスト信仰は本来あり得ない。教会は「遂に一人の羊飼い(キリスト)、一つの群れ」となることを目指すのである。(しかし、エルサレム神殿崩壊後にユダヤ教キリスト教を異端認定し、またその後の歴史から、結局、キリスト教ユダヤ教と分離してしまった。だがそれは本来あるべき姿ではないことに注意したい)。
 だからパウロは、エルサレム教団へ異邦人教会から献金することを、教会の一致の徴として大切にし、どんな困難を乗り越えても達成しようとした。これを妨害し、教会の一致よりも個人の内面的霊性にキリスト信仰を矮小化する論敵の主張を、「受けた事のない違った霊や、受け入れたことのない違った福音」(11:4)と判断した。だからパウロは、コリントに最初に福音をもたらした自分の、使徒としての権威を、福音そのものの権威として強く主張したのであろう。詳しくは、本文を読みながら考えていきたい。

                          涙の書簡(Ⅱコリント10:1~13:13)
(1)パウロの誇り
a.使徒の戦いの武器(10:1~6)
 「1さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います。 2わたしたちのことを肉に従って歩んでいると見なしている者たちに対しては、勇敢に立ち向かうつもりです。わたしがそちらに行くときには、そんな強硬な態度をとらずに済むようにと願っています。 3わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。 4わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、 5神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、 6また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています」。
  1節、「面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る」とは、何とも失礼なパウロ評ではないか。教会に対する書簡では使徒としての権威によって指導するが、信徒一人一人に対しては穏やかに優しく対応する態度を、使徒としての自信がないからそういう態度をとると誤解している。よく「○○先生」等と呼ばれる教師や指導者は、往々にして生徒や信徒・弟子達に威張った「上から目線の」態度をとる。そうしなければ程度の低い生徒や弟子達は、先生を「嘗めて」しまう場合があるからである。だがパウロはそうしなかった。人間的に謙遜で高ぶらない上に、自分が入信させた人達を慈しんだからである。その結果、コリント教会の人達に嘗められたのである。彼らを信仰に導いた恩義あるパウロに、こんな態度をとるとはなんたる事だろう。しかし、他者に恩義を感じることを負担に思い、かえって相手に反発することもありがちな人間性なのである。
 確かに信仰に入るのは、伝道者のカリスマや能力ではなく、聖霊の働きであるから、伝道者は自分の働きを誇ってはならない。とはいえ、伝える人がなくて誰が福音を知らされようか!宣教は単なる情報伝達ではなく、火が燃え移るように信仰の熱が人から人へと燃え移る形で伝えられる。だから、信仰に入るのは他者から受ける形で入信する。信仰を伝えてくれた相手を支え、その恩に報いようとするのは当然である。
 だが、「わたしたちがまだ敵であった時に」まずキリストが先んじて、神に敵対する罪人達を愛し、彼らの為に命を捨てて下さったのであるから、キリストの僕である使徒・伝道者も、自分に叛き迫害する者達に先んじて彼らを愛し、宣教するのである。たとえ叛いたとしても、何とかして立ち返るように、親鳥が雛に呼びかけるように懇切に呼びかける。それが、「キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います」という言葉になっている。
 2節の「わたしたちのことを肉に従って歩んでいると見なしている者たち」とは、パウロらが使徒としては二流で献金を受ける資格や自信がないから、エルサレムへの献金名目で献金を集めているとか、エルサレム教団の権威の傘の下で「肉に従って」活動していると誤解し見下すコリント教会の人々である。そんな人達に対し、集会からの破門(追い出し)という使徒の権威を持って威嚇する。だが、コリントに赴いた時、実際にそんな強硬処置を執らないで済むよう対応せよと勧めている。この強硬処置がどう実施されるのか不明だが、使徒行伝記事のアナニヤ夫妻や盲目にされた魔術師などの記事から見て、単なる集会出入り禁止以上の、かなり威力的な処置であろう。
 3節、パウロ一行は、人間的弱さや労苦や迫害という限界の中で活動している(肉において歩んでいる)が、決して肉に従って(=人間的能力によって)働いている(戦うのでは)ない。
 4節から6節。パウロ使徒・伝道者達の宣教における武器は人間的能力()ではなく、「神に由来する力」である。ちょうど、エリコの城壁を崩壊させたのはイスラエルの鬨の声の音響効果ではなく、神の力であったように、人間を超えた神的力である。それは「(エリコの城壁のような)要塞も破壊するに足り、…(ローマやギリシャの)理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、 6また、…すべての不従順を罰する」。
 コリントの人々が出会った、テサロニケを追われ、アテネ伝道に失敗し、不安を抱えた弱々しい外見のパウロという「土の器」には、それと対称的にこれ程の「神に由来する力」が盛られていた。 このことが、次回から詳しく語られていく。