家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

使徒の権威

2024年5月19日

テキスト:Ⅱコリント10:7~18

讃美歌:187&520

                                コリント人への第二の手紙
                          涙の書簡(Ⅱコリント10:1~13:13)
                                            
  前回は、パウロの第二回コリント訪問が失敗に終わり、エペソに戻っていわゆる「涙の書簡」を執筆した事情を取り上げた。また書簡の内容から、外からコリント教会に来訪した論敵がどのような人達であったか、いささか想像を交えて推測した。(だが、確実なことはパウロの記述から読み取れることだけである)。
 書簡の内容に入り、使徒の戦いの武器は、人間的能力を超越した「神に由来する力」であり、「神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、…あなたがたの従順を完全なもの」とするため、不従順を処罰する覚悟があると述べた。今日は、その続きである。
(1)パウロの誇り
b.使徒としての権威(10:7~11)
 「7あなたがたは、うわべのことだけ見ています。自分がキリストのものだと信じきっている人がいれば、その人は、自分と同じくわたしたちもキリストのものであることを、もう一度考えてみるがよい。 8あなたがたを打ち倒すためではなく、造り上げるために主がわたしたちに授けてくださった権威について、わたしがいささか誇りすぎたとしても、恥にはならないでしょう。 9わたしは手紙であなたがたを脅していると思われたくない。 10わたしのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいるからです。 11そのような者は心得ておくがよい。離れていて手紙で書くわたしたちと、その場に居合わせてふるまうわたしたちとに変わりはありません。
 7節前半の動詞「見ています」は命令形として解釈できるので、英語訳(RSV等)やドイツ語訳は「眼前にあるものを見よ」と翻訳している。要するに、後半の「わたしたち(パウロ一行)もキリストのものである」という眼前の事実を直視せよということだろう。だがそれでは、パウロに反抗する人々が、その事実に気づかなかい理由がハッキリしない。おそらく彼らは、聖霊の賜物としてのカリスマやグノーシスを付与されたことを根拠として「自分がキリストのもの」と信じ込んだのだろう。
 だが「キリストのもの」であることは、「不思議と力ある業」という霊的能力や、幻視などの「特別の啓示」体験で証明されるものではない。むしろそうした人間的誇りを捨て、自分の限界や弱さの中で(十字架を負って)、主に従うという事ではないだろうか。だからパウロは、それらのカリスマやグノーシス、つまり「不思議と力ある業」や幻による「特別の啓示」などを、外面的な「うわべ」と喝破し、7節全体でより本質的な事柄(キリストへの従順?)を基準にして判断せよと言っていると解釈する。従って7節前半を「眼前にあるものを見よ」という命令形に訳すのでなく、「うわべのことだけを見ている」という批判として翻訳する方をとりたい。
 自他の霊的能力を比較して優劣を競うこと自体、自己追求以外何物でもない。
 8節で、パウロは「(そうした信仰の初歩段階にいる)あなたがたを打ち倒す(=批判する)ためではなく、造り上げる(=成長させる)ために」、キリストから授かった使徒の「権威」を用いると述べる。それは後から分かるように、具体的には不従順な者達を信仰共同体(エクレシア)から追い出す(破門する)「権威」である。(ペテロが授かった、天国の門を開き、また閉め出す「鍵の権能」である)。だがパウロは、自分が腹を痛めて産んだ子供のようにコリントの人々を愛し大切に思っているので、厳しく言い過ぎて信仰から脱落したり集会から出て行ったりしないよう「いささか誇りすぎたとしても、恥にはならないだろう」と、謙った控え目な言い方をする。この叱責は、彼らが反省し立ち返るためであり、処罰したいからではない。「泣いて馬謖を斬る」ではないが、パウロの心痛を思いやりたい。
 しかし実際問題としては、厳しく叱責し思い知らせる必要がある。書簡でのパウロの指示を、言葉のみの脅しと軽視する人がいるからである(9節)。「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」とは、なんと、使徒を甚だしく侮った言葉ではないか。
 たしかにパウロは、バルナバのような堂々たる体躯や、アポロのような華やかな弁舌は持っていなかったようだ。だが、彼の活動に伴う聖霊の驚異的な力の前に、人間的な能力の要素は目立たなくされてしまう。例えば、イザヤ書の主の僕は(実際はそんなに醜くなかった知れないが)「慕うべき外見なく」と描写され、ゴリアテを倒すダビデは(鎧がだぶだぶの)育ちきってない少年と表現されている。パウロの才覚や外見が特に劣っていたというより、神的威力に畏怖し自分を誇らない彼の態度が誤解され、パウロを貶める口実に利用されたのだろう。
 ここで、荒野を導かれたイスラエルの旅を思い起こそう。指導者であるモーセは非常に謙遜な人だったので、イスラエルの民に軽んじられ度々反抗された。時には兄のアロンや姉のミリアムまで、そうであった。だが、彼に反抗した人達は、神に罰せられ「荒野に屍を晒し」約束の地に入る事はできなかった。そのように、この世を旅する信仰共同体(エクレシア)も、指導者(使徒)に不従順な者は神によって罰せられ排除され、全体が従順な群れとして導かれねばならない。11節。パウロは(外見で人を判断するような人に対し)使徒の権威をもって断固たる処置をとると述べる。
c.限度を超えて誇らないこと(10:12~18)
 12わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです。 13わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇るのです。 14わたしたちは、あなたがたのところまでは行かなかったかのように、限度を超えようとしているのではありません。実際、わたしたちはキリストの福音を携えてだれよりも先にあなたがたのもとを訪れたのです。 15わたしたちは、他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません。ただ、わたしたちが希望しているのは、あなたがたの信仰が成長し、あなたがたの間でわたしたちの働きが定められた範囲内でますます増大すること、 16あなたがたを越えた他の地域にまで福音が告げ知らされるようになること、わたしたちが他の人々の領域で成し遂げられた活動を誇らないことです。 17『誇る者は主を誇れ。』 18自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです。
 前段落で述べたように、使徒たるの権威は人間的能力や資質ではないのだから、「不思議と力ある業」つまり奇跡を起こす能力や、どんな幻を見たかなどの「特別の啓示」、または、アンテオキアやエルサレム教会との関係、などをお互い同士で競って自己推薦するような輩を相手にすることはできない、と言う。人間同士で比較し優劣をつけるような事柄ではないのである。
 パウロ一行は、神が割り当てて下さった(働きの)範囲内で誇る。すなわち、まず最初にコリントに福音を伝え、集会を設立した具体的な実績の範囲で誇る。(論敵のように)「あなたがたのところまでは行かなかったかのように、限度を超えて」(=自分が設立したのではない既成の教会に乗り込み、権限を越えて)指導するのではない。教会創立者としてパウロが教会を指導するのは当然である。事実、福音を「だれよりも先に」コリントにもたらしたのは彼であり、論敵らの行いは「他人の労苦の結果を」乗っ取る侵害行為である。
 パウロ教会に献金を要請する真の狙い(願いor目的)は、15節、①パウロらの働きが「定められた範囲内でますます増大する」(つまりコリント教会が信仰的に成長し、一行の働きを理解し支援する程になる)こと、16節、②コリントを超えた「他の地域にまで福音が告知されること」(できれば、コリント教会がローマ帝国西側宣教の基地となってほしい)、しかも③「他の人々の領域で成し遂げられた活動を誇らない」つまり、すでに福音が伝えられた地域ではなくて、まだ伝えられていない未開拓の地域に宣教する事、である。(以上、決して私腹を肥やすための募金ではない)。
 伝道者や牧師に召された人であっても、最初から開拓伝道を志す人は少ない。まず既成の出来上がった教会に支えられる事を望む人が多い。だがパウロは、最初から未信者への宣教、しかも無代価で、福音未達の地域への開拓伝道という、困難を選び取る方向で志した。宣教は、使徒として主に命じられた当然果たすべき義務である。そこでパウロは、命じられた義務を超過する、剰余的な労苦を自発的に選びとり、それによってキリストへの愛を示そうとする。これが彼の誇りなのである。
 17節の「誇る者は主を誇れ」とは、自分の働きではなく、神が(自分を用いて)働かれることを尊び誇示せよ、という意味である。つまり神の働きへの参与すること自体を光栄とし、その成果を自分の成果として誇らないという意味である。18節は、論敵のような自分のカリスマや能力を誇示する自己推薦ではなく、神に用いられた実績を神からの推薦状と判断せよと言っている。
 今日は、信仰共同体(エクレシア)を導くのは、その成員達の多数決や合議ではなく神であるから、神の言葉を預かった指導者に従うべき事を考えさせられた。カナの婚宴で「水を汲んだ」僕達のように、直ぐに理解できずとも指導者の命に従う信仰の従順があり得ると、心に留めておきたい。