家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

自分の弱さを誇る

2024年6月23日

讃美歌:376&280

                                コリント人への第二の手紙
                          涙の書簡(Ⅱコリント10:1~13:13)
                                            
  前回は、論敵らの批判に反論するため、自分を誇る愚かさを装うとの断りを入れ、すでに論敵らにそうした自慢を許しているコリント教会を皮肉った。そして、論敵らが説く「異なったイエス」や「違った霊」「違った福音」を受け入れている事を、エバが誘惑されたように「あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまう」事として心配した。
 論敵らの「違った福音」が具体的にどのようなものか分からないが、「光の天使を装う」との譬えから、際だった霊的能力やエクスタシー体験を誇るものだったのだろう。だが、ヨブが、付与された賜物(家族や財産や健康)ではなく、神を神御自身として尊び愛したように、信仰者は付与される賜物以上に、御子を世に遣わし給うた神の愛を喜び感謝すべきである。優れた賜物を<誇る>事自体、金色夜叉の「ダイヤモンドに目が眩み」ではないが信仰的誘惑である。
 後代のグノーシス主義は、キリストを媒介にして個々の人間の魂が霊界に上昇する事を求めるものだったようだ。それは現実の世界をどうでもよいものとして放置し忘れようとする人間的宗教であり、地上に神の国の到来を期待し待ち望む福音的信仰ではない。霊的賜物を求めるのは当然であるが、それに目を眩まされる事なく「キリストに対する真心と純潔」を失わず守り通せるよう、注意深く聖書から学んでいきたい。
2)愚かな誇りという仮面をつけて(11:1~12:13)
c.愚か者になって誇る(11:16~23a)
 「16もう一度言います。だれもわたしを愚か者と思わないでほしい。しかし、もしあなたがたがそう思うなら、わたしを愚か者と見なすがよい。そうすれば、わたしも少しは誇ることができる。 17わたしがこれから話すことは、主の御心に従ってではなく、愚か者のように誇れると確信して話すのです。 18多くの者が肉に従って誇っているので、わたしも誇ることにしよう。
  19賢いあなたがたのことだから、喜んで愚か者たちを我慢してくれるでしょう。 20実際、あなたがたはだれかに奴隷にされても、食い物にされても、取り上げられても、横柄な態度に出られても、顔を殴りつけられても、我慢しています。 21言うのも恥ずかしいことですが、わたしたちの態度は弱すぎたのです。だれかが何かのことであえて誇ろうとするなら、愚か者になったつもりで言いますが、わたしもあえて誇ろう。 22彼らはヘブライ人なのか。わたしもそうです。イスラエル人なのか。わたしもそうです。アブラハムの子孫なのか。わたしもそうです。 23キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。
 16節~18節。付与された賜物を自分のもののように誇るのは愚かである。だが、「多くの者(論敵ら)が肉に従って」誇っているように、自分も誇ってみよう、とパウロは語り出す。
 19節で、賢い「あなたがた」コリント教会は、論敵らの自慢を忍耐しているのだから、当然私達がそうしても我慢してくれるだろう、と皮肉る。20節で、教会が論敵に追従する事への怒りを爆発させる。「奴隷にされても」とは、論敵が振りかざす宗教的権威に追従した事を言っているようだ。ガラテヤ書では割礼を受ける事を「奴隷の軛につながれる」事と表現している。十字架によって肉に死んだものとされたのに、再び肉の規定に拘束されようとしたからである。「食い物にされても、取り上げられても、横柄な態度に出られても、顔を殴りつけられても」とは、大使徒風を吹かせる論敵らを扶養し、威張り散らされてもヘイコラして従うコリント教会の態度を表現している。パウロは、教会員に優しく接し、自活してまで負担をかけまいとした。だが、それが侮られる原因になったなら、嫌でも「わたしたちの態度は弱すぎた」と言わざるを得ない。
 論敵に倣って、相手が(「ヘブル人」「イスラエル」「アブラハムの子孫」)と神の選民としての血筋を誇るなら、パウロも同じ事を誇れる。論敵が「キリストに仕える者」と誇るなら、パウロは「彼ら以上に」そうであると、気が狂ったように主張し、その根拠として自分が体験した苦難を語りだす。
d.「キリストに仕える者」であるとの証拠(11:23b~33)
 「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。 24ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。 25鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。 26しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、 27苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。 28このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。 29だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。
 30誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。 31主イエスの父である神、永遠にほめたたえられるべき方は、わたしが偽りを言っていないことをご存じです。 32ダマスコでアレタ王の代官が、わたしを捕らえようとして、ダマスコの人たちの町を見張っていたとき、 33わたしは、窓から籠で城壁づたいにつり降ろされて、彼の手を逃れたのでした。
 論敵らは「キリストに仕える者」である証拠として、おそらく自分達の霊的体験や功績を挙げたと思われる。入信させた人数や、働いた場所の多さや規模などである。それを取り上げれば、パウロの実績は彼らを遙かに上回った筈である。数次の伝道旅行や設立した集会の数、ダマスコやアンテオキアでの働き、ほか数々の奇跡も行った。だがパウロは、「キリストに仕える者」である証拠として、それらの実績ではなく宣教のために体験した苦難を挙げる。
 「四十に一つ足りない鞭」とは、シナゴーグでの懲戒の鞭打ちである。それ以外は官憲による。「石打ち」は使徒行伝14章に記載がある。その他、記載されたこれ程の難儀を、一人で体験したかと思うと辛い。

 臣下が主人のためにした苦難は、忠義の証拠となる。だがパウロは、それとは違う特別な意味を苦難に付与している。4章で「10わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、エスの命がこの体に現れるために。 11わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」と語っている。つまり、イエスが苦難と死を通して勝利されたように、イエスの復活の命が世に現れ出るのは、使徒キリスト者の苦難を通してであると、彼は理解しているからである。
 だから「キリストに仕える者」である証拠は、なによりも、彼らの苦難を通し聖霊の付与や諸集会の設立などの復活の力()が世に出現した事である。だが、それらの「」を現す主体はあくまでも主御自身であり、使徒や伝道者ではない。彼ら自身のものとしては、主が彼らの苦難と弱さを通して働かれたという事実だけである。だからパウロは、用いられた自分の苦難と弱さ(を「キリストに仕える者」としての証拠として挙げる。

 更に28節で、設立した教会への配慮と心労を付け加える。パウロは伝道者として「神の熱情」を抱いているから、誰か弱っているなら、その人と共感して自分も弱らずにおれないし、信仰に躓く人がいれば、その人の取り返そうとして心が燃え立たずにおれない。愛の労苦というべきだろう。
  以上、「愚か者」になって自分を誇ったことを要約し、30節「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう」という。宣教の成果や実績、付与された霊的賜物などは、彼のものではなく主のものである。だから彼は、用いられた<自分の弱さ>を誇る。
 ここまで読むと、宣教には必ず苦難が伴う事が理解できる。現在ではさすがに暴力的迫害は少なくなった。だが、宣教に携わる者達は必ず、彼らを用いて働かれる主に対する世の反撃、つまり、外面的(貧困や弾圧)内面的(差別や心労など)な何らかの苦難に遭遇せざるを得ない。彼らを尊重し支え、祈らねばならない。だが同時に、パウロが「主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはない」1コリ15:58と、苦難に遭う者達を励ましていることを思い出しておこう。
 32節以降のダマスコの城壁から脱出した事件は、使徒行伝で「サウロはますます力が加わり、このイエスがキリストであることを論証して、ダマスコに住むユダヤ人たちを言い伏せた」結果、シナゴーグユダヤ人達がサウロ殺害を計画し、ダマスコを治めていたアレタ王の代官(当時ダマスコは、ペトラ遺跡で有名ナバテヤ王国の支配下にあった)治安を乱すとして訴えたので、パウロは捕縛の危険に迫られ、城壁伝いに吊り降ろされて脱出した事件である。
 なお、回心直後のアラビア伝道は、ユダヤ人が多く居住していたナバテヤ王国首都ペトラのシナゴーグを対象としたと思われる。だが、34年にヘロデ大王の息子ピリポが死んで、残された領地の受け継ぎを巡りアレタ王とヘロデ・アンティパスが戦争になり、居住者以外のユダヤ人は国外退去せざるを得なかったようだ。今日はここまで。