家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

パラダイス体験

2024年7月14日

テキスト:Ⅱコリント12:1~10

讃美歌:309&284

                                コリント人への第二の手紙
                          涙の書簡(Ⅱコリント10:1~13:13)
                                            
  前回は、論敵らに倣って「愚か者」のように自分を誇ろうとした。血筋によっても「キリストに仕える者」としての実績についても、彼らに少しも劣る者ではない、と主張しようとした。だが、「キリストに仕える者」としての実績として自分の労苦と苦難を挙げるうちに、反論を超えて、復活の命が現れるためにキリスト者使徒)の苦難が用いられる事を熱情を込めて語った。
 こうした、世の常識とはかけ離れた確信はどこから由来するのだろう。聖書やイエスの言動についての神学的解釈からのものならば、これ程の断固とした認識には至らないのではないか。(例えば、使徒行伝の律法学者ガマリエルのように他の解釈の余地も認める中庸の態度があり得る)。しかしパウロは、苦難の神秘主義とも言うべきこの認識を、推論や思索の跡もみせず、眼前の事実のように、使徒キリスト者の苦難と死を通しイエスの復活の力が発揮されるという認識を示す。その認識の源となるのが、今日取り上げる「第三の天に挙げられた」体験ではないかと考える。
(2)愚かな誇りという仮面をつけて(11:1~12:13)
e.第三の天に挙げられた体験(12:1~7)
 「1わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。 2わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。 3わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。 4彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。 5このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。 6仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、 7また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。
 1~4節で語られている「キリストに結ばれていた一人の人」は、勿論パウロ自身である。優れた霊的体験を誇っている論敵らに対抗して、自分が体験したすぐれた啓示(霊的体験)を語り出したのである。この書簡執筆時期がAD54年頃であるから、それから「十四年前」はちょうどタルソまたはアンテオキア教会で働いていた時期に当たる。パスカル聖霊体験した日付と時刻を記憶し書き留めたように、このエクスタシー体験の日付を記憶していることは、この体験がパウロにとって特別な意味を持っていたことを示している。
 「第三の天」は、天上を幾つかの階層に分けて考えるようになった捕囚以降のユダヤ教で、死後の義人の魂が終りの日の復活まで休息する場所とされた。別名「楽園=パラダイス」である。イエスも、隣で十字架につけられた罪人に「今日、あなたは私とパラダイスにいるであろう」と語られている。「パラダイス」は最終的な「天国=神の国」とは別であることに注意。
 復活顕現である「ダマスコ体験」は、復活者が地上に顕現された、つまりキリストが地上に降下された。それに対し、14年前の体験は祈りの中に「体のままか、体を離れてかは」知らず、パウロが「第三の天=楽園=パラダイス」に引き上げられた事件である。そこで(人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉)を聞いた。これは、言語や幻、聴覚や視覚を媒介せずに直接認識を生じさせる真の「言葉」である。そこで認識した事は、時間空間に限定された存在の理解力を超えた永遠の神的現実であろう。だから、地上の存在である限り(生きている限り)語ることを許されないし語り得ない内容である。生きている状態で、このような啓示を体験した(パラダイスに入れられた)人物は、歴史上でエノクやエリア、ダニエルなど特別な少数者だけである。パウロは自分がその一人とされたと語っているのである。
 ダマスコ体験は、確かにユダヤ教ラビであったパウロを召命し、直ちに福音の使徒として活動を開始させるに充分であった。だがそれとは別に、すでに宣教者として活動中の彼が、深い祈りの中で第三の天にまで連れ去られ啓示を受けた。それによって、理性を用いた神学的推論や解釈を超え、体験した神的現実として「エスの復活の命が世に現れ出るのは、使徒キリスト者の苦難を通してである」との認識が生じたのである。ヘブル書に「見えない事実を確認する」(ヘブル11:1)信仰という言葉がある。つまり人間的理解力を超えた「事実=現実」を体験するという事である。この「第三の天」体験があってこそ、テトスのような異邦人が「無割礼」のままでキリスト者たり得る事や、異邦人との共同の食事等の諸問題につき、あれほどの確信を持って行動しえたのだろう。
 エルサレム会議で、先輩使徒達や主の兄弟達を前に、一歩も退かなかった事、異邦人との共同の食事を巡っての衝突でも、人間的躊躇(エルサレムの政治情勢への配慮など)を排し福音の命ずるまま行動すべきことを主張し得た事も、この(肉体と精神で体験できる現実以上にリアルで深刻な)パラダイス体験あっての事と思われる。何故なら「口にするのを許されない、言い表しえない」永遠の神的現実に押し迫られたからである。このような体験は、誰もが与れるものではなく、歴史上限られた数人だけに限定される。だが、その一人は、全人類を代表してそれに与るのであり、啓示は彼個人を通し人間達すべてを対象とする。要するに、神は人間に予め示すこと無しに(同意と承認無しに)人間との交わりを一方的に進めようとはされず、人間に絶えず語りかけて下さるのである。
 5節、パウロがこのように素晴らしい体験に与ったことは、人間全体として本来喜び感謝すべき事である。ところが、論敵に対抗してイスラエルの血統を誇り、「キリストに仕える者」としての苦難の数々を誇ったパウロが、この特別な啓示については語ることを躊躇し誇ろうとはしない。「第三の天にまで引き上げられた」のは神の業であり、対象となった自分の資格や能力によるのではない。とはいえ、体験したのは事実であり、語ったとしても自分を偉く見せようとする愚かには該当しない。だから語ろうか、と躊躇し「だが、誇るまい」と思い直す。
 人間性はこのような神秘的体験を誇り、その体験によって特別な境地に達したと誇示する。だが福音はどこまでも、弱く罪にまみれたありのままの人間がキリストにあって神に結ばれることを目指す。素晴らしすぎる啓示体験がパウロに特別な聖人のような虚像を纏わせ、パウロをありのままの人間以上に過大評価させてはいけないのである。「わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする」とは、生身のパウロを体験する事である。しかも、他人からだけでなく、自分でさえ実際以上に思い上がり、高ぶる危険性がある。それほど、素晴らしい啓示を受けた。だから「誇るまい」と、使徒は慎み深く思慮ある決断をする。
f.弱いときにこそ強い(12:7~10)
 「それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。 8この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。 9すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 10それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
 「あまりにもすばらしい」啓示を受けたからには、「思い上がる」のが当然の成り行きだった。そこで、「思い上がらないようにパウロの肉体に「一つのとげ」が付与された。この「とげ」が何かは不明である。疾病だと一般に考えられているが、この体験以後付与されたものだとしたら、生来の体質的なものではないだろう。深刻なエクスタシー体験には身体的後遺症が伴う事がある。アシジのフランシスには「聖痕」が現れ、生涯その痛みに苦しんだ。パウロに与えられた「とげ」が具体的に何かは不明であるが、いずれにせよ突発的にパウロを苦しめ、彼に「自分の弱さ」と卑しさを絶えず想起させる肉体的な障害だったのだろう。パウロは、これを取り去って下さるよう三度も主に祈った。そして三度目に「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」との主の応答を得た。
 「力は弱さの中で十分に発揮される」とは、人間的能力・要因が全く排除されゼロ以下の状況で、キリストの能力が十全に発揮されるという意味である。だから「キリストの力がわたしの内に宿るように」とは、キリストの能力がパウロの行き詰まりや困窮を城壁のように囲み守り、敵を打ち破る力となって発揮される為に、という事である。「千歳の岩よ、我が身を囲め」という讃美歌があるが、キリスト者を囲む主の力は、単なる防御の砦ではなく、敵を攻撃し打ち破る拠点として働く。
 パウロの祈りに対する主の応答は、パウロを苦しめる「とげ」すらも復活の力がそこから溢れ出る「茨の冠」のようなものとした。使徒の「弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態」は、主の力に覆われて世に復活の命が現れ出る機縁となり場所となるからである。福音に対する世の反抗としての宣教者の苦難が、キリストの力が発揮される場となる事を思い、パウロは自分の「弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まり」に満足し、主の勝利を歓呼して言う。「わたしは弱いときにこそ強い
 今日語られた「第三の天」での啓示は、人間性が到底体験し得ないものであり、簡単にキリスト者全般に適用することはできない。然しながら、地上の人間が到底理解し得ない「口にするのを許されない、言い表しえない」霊的事柄でさえ、パウロを通しすでに啓示されている事実をしっかりと受け止めたい。2次元的存在が、3次元的存在を理解し得ないように、私達の目に映るこの世界は相変わらず「この世の君」の支配下にあると見える。「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」ヨハネ16:33と語られた見えない現実は、パウロの「パラダイス体験」によって体験せられ確認された。だから彼は「わたしは自分の弱さを誇る」と自分を囲む主の力を誇り得た。
 私達も、使徒を始めこのような多くの証人達に囲まれているのだから「見えない事実を確認する」(ヘブル11:1)信仰を貫き己が馳場を走り抜いていきたい。