2024年3月10日
テキスト:Ⅱコリント4:13~5:4
讃美歌:3&344
コリント人への第二の手紙
A.最初の弁明
前回、パウロは自分への批判を論駁すると言うより、宣教者としての自分自身について語った。宣教する事で彼は絶えず苦難に逢い続けているが、それは現在の肉の身体に「イエスの死」を纏う事であり、それによって現在生きておられる「イエスの命」が死ぬべき身に顕れ出るためである。それは単に自分たちのためだけではない。「わたしたち」宣教者の苦難(死が働くこと)を通して、「あなたがた」宣教対象(エクレシア全体)に信仰という「命が働く」ためである。
以上の論調には、パウロの抱く熱烈な復活への希望が表明されている。彼にとって信仰は、決して現在の安心立命を求める事ではなく、イエスの死と復活によって確実となった来るべき「神の支配=神の国」への熱烈な希望である。今回はその希望が語られる。
(8)主イエスを復活させた神(4:13~15)
「 13『わたしは信じた。それで、わたしは語った』と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。 14主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。 15すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。」
13節で引用されているのは詩116:10の70人訳で、共同訳では「わたしは信じる、『激しい苦しみに襲われている』と言うときも」と訳されている。この詩人は、逆境と死の恐怖の中で、かえってそれに押し出されるように信仰の叫びをあげている。信仰は、逆境にあって奔流のように人間に押し迫り、その人から溢れ出て外に語らざるを得なくさせる。(このことからも、信仰は神からくる霊だということがわかる。)パウロもその同じ「信仰の霊」によって、苦難に押し出されるように激しく信仰を語っている、と述べている。
その信仰の内容が14節「主イエスを復活させた神が、<イエスと共に>わたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださる」事である。神は、世の罪を<イエスの十字架>によって浄め、それを信じ受け入れる者が「神と共に永遠の命に生きる」ために<イエスを復活>させて下さった。それがすでに実現した以上、将来において宣教者も宣教を受け入れた者も、同じ信仰者として、「神が人と共に住む」神の国に受け入れられることは確実である。「御前に立たせてくださる」とは、断罪と裁きのためでなく主の眷属として立たせて下さる事である。
だから、イエスの死も復活も、自分たちの苦難に満ちた宣教も、一切は「あなたがた」人間のためであり、多くの人の感謝が満ち溢れて「神に栄光を帰すようになる」ためなのである。
(9)見えないものへの希望(4:16~18)
「16だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。 17わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。 18わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」
16節。このような希望の確信を持っている以上、(苦難や死の危険に遭遇しようとも)パウロらは気落ちしない。生まれながらの肉体と霊魂という「外なる人」は衰え滅びても、聖霊によって自分の中に新しく生まれた「内なる人」は日々新しくされていく。(ここの「外なる人」と「内なる人」は、ギリシャ思想のように肉体と霊魂の区別ではないことに注意)。
これは慰め深い。肉体に依存している能力が損なわれて認知症や鬱病になったとしても、人格の本質である霊魂は「新たな力を得、鷲のように翼を張って上り」(イザヤ40:31)、「若返って、鷲のように新たになる」(詩103:5)。聖霊が霊魂を支え「神が、イエスと共にわたしたちをも復活させて下さる」と、揺るぎなく「主に望みをおく人」としているからである。これは慰め深い。テレビで認知症になった認知症専門医のドキュメントを見た。彼は敬虔なキリスト者であり、心身の衰えにあってひたすら神に自分を委ねておられる姿は感動的であった。
17節。このような信仰者は、現在信仰の為に体験している苦難は、それを通して得ようとする「永遠の栄光」の保証であると、知っている。だから、それがどんなに激しくとも「一時の軽い艱難」とみなす。むしろ苦難によって信仰を燃え立たせる。
18節。上述したように「わたしたち」信仰者は、永遠の命や復活の身体や神の国など、霊的で「目に見えないもの」に注目し、それを基準として生活する。五感で認識しうる「見えるもの」は、肉体や時間と共に消え去っていく。だが、これら「目に見えないもの」は永遠に存続する。
ここで語られている「見えないもの」は、哲学が夢想するような、星空遠くどこか異次元空間に存在する「永遠の世界」ではない。具体的に、イエスが復活されたと同じように、この世界で生きた人間たちが復活する事である。それは、続く5章で身体の復活が語られていることからも明らかである。
パウロは、イエスの同時代人として、その死がどんなに恥辱にまみれた絶望の死であったかを知っている。ところが(ダマスコ体験で)、その死は「神に離反した人間を代理しての死」であり、また、イエスが復活し生きておられるのは「彼を信じる者が、永遠の命に生きるため」である事を知った。それを知った時、もともと持っていた神への熱心からではなく、自分の為に死んで下さったキリストに巻き込まれ、彼のために存在する者となった。彼はピリピ書3章で次のように語っている。「キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、 …キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。 3:10すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、 3:11なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである」。
つまり彼は、自分の益のためと言うより、むしろイエス・キリストの愛に捉えられて、苦難と死を通してキリストが打ち開いて下さった道をひた走るようになったのである。
私たちはどうであろうか?地上でささやかな幸福と内面的安心が得られれば、そこそこ満足し、まどろんいないか?だが、主は今も「十字架につけられたままの姿」で、私達に呼びかけておられる。目を覚まし、彼の十字架を見上げて、私達も走らねばならない。
こうしてパウロは自分の死も視野に入れつつ、具体的な復活の身体について語っていく。
(10)天にある住みか(5:1~4)
「1わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。 2わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。 3それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。 4この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。」
1節。信仰者の「内なる人」は、地上の住処である身体が滅びても、永遠の住処である復活の身体が天に準備されていることを知っている。現在の肉体を暫時使用し直ぐ撤去する「幕屋=テント」に、復活の身体を石造りのような堅固な「建物」に譬えている。人間は霊魂と身体からなる存在だから、身体なしでは不完全である。身体なしの霊魂は、ちょうど素っ裸や、宿無しのような状態といえる。1節で「幕屋」や「建物」に例えた身体を、2節以下で今度は衣服に例えて「脱ぐ」とか「着る」と表現するのは変だが、霊魂が具するべき身体について語っているのである。
従って2節は、信仰者たち(ここ以下の「わたしたち」は、パウロ一行を含む信仰者と解釈する)は、「復活の身体」を与えられる事を切に願って、この肉体にあって苦しんでいる、という意味になる。3節、死んで「(肉体を)脱」いでも、素っ裸の霊魂になるのではない。これは、1節で言ったように「人の手で造られたものではない天にある永遠の住みか=霊の身体」が準備されているからである。では、死んでから復活するまでの間はどうかと聞きたくなるが、霊の次元は時間と空間を超越しているからそれは問題にならない。要は、死んでも霊魂だけの存在ではないと言う事である。ギリシャ思想のように、肉体を脱し霊魂だけとなって救いに到達するなど、空想に過ぎない。現にパウロは、栄光に輝く身体の復活者に出会ったのである。
4節。信仰者たちは、弱く罪になじんだ肉体にあって苦しみ嘆いているが、それは身体を脱したいからではなく、霊の身体に変えられることを求めているからである。3節でパウロは、「脱いでも」と自分の死の可能性に触れたが、ここでは、(生死に関わりなく)地上の肉体の上に栄光の身体を着せられる希望を表明している(第一の手紙15章を参照)。
パウロの体験した復活者顕現は、五感や演繹的理性を超越した強烈な霊的認識である。彼の証言を通し、私達も「見えないもの」に目を注いでいきたい。