家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

死人の復活-4

2023年10月29日

テキスト:Ⅰコリント15:29~34

讃美歌:187&309

                             (6)死人の復活(15:1~58)
 前回は、キリストが死んだ人達の<初穂>として復活されたことにより、人間は<身体の甦り=復活>という形で救済される事が、決定的な現実となったことを学んだ。 また、復活者キリストの支配は「すべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡され」るまで続き、「神がすべてにおいてすべて」である神の国が到来する事を学んだ。
 だから、「死人の復活=身体の甦り」を否定すれば、それは<聖書に書いてあるとおり>という、イスラエルの歴史に介入し御自分を啓示された神の救済計画をも否定する事になり、キリスト信仰をただの内面的思想や空疎な教説としてしまう。
 だが、私達は目前の課題や生活に追われ、こうした壮大な神の救済計画を常に意識することは困難である。当面はやはり、新旧の聖書に証されたキリスト信仰に従う者として、どのように自分の人生に向き合うかが問題になる。そこでパウロは、ここで再びキリスト者個人の生活態度を取り上げる。
Ⅲ.復活をめざして(15:29~34)
❶復活への希望を抱く生
 「29そうでなければ>、死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか。死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか。 30また、なぜわたしたちはいつも危険を冒しているのですか。 31兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます。 32単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう。もし、死者が復活しないとしたら、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか』ということになります」。
 ※<そうでなければ>は、「死人の復活がなければ」という意味で29節と30節、両方にかかる。
a.死者の為の代理洗礼
 29節は、<死者の為の代理洗礼>を取り上げている。これは洗礼を救済に入る魔法的「密議」とする迷信として、397年のカルタゴ教会会議で禁止された。だが二世紀頃には、復活を否定するマルキオン派やグノーシス派で盛んに行われていたことが、教父達の著作から知られている。コリントの復活否定論者も、これを行っていたのであろう。
 しかし、故人の追慕する気持ちは誰にでもある。福音を知らず異教徒のまま死んだ身内を、何とかしてキリストとの交わりに入らせたいという願いから、死者の為に代理洗礼が行われたのであろう。パウロはこれについてなんのコメントもしない。ただ、この風習の裏に、復活否定論者でさえ、人間は死後も神の支配下にあるという本能的な知識を持っている事を指摘している。
b.十字架を負う生活
 30節は、「わたしたち(キリスト者)はいつも危険を冒している」と、当時のキリスト者が受ける迫害や困難を指摘している。確かにキリスト者であることは、周囲の異教徒から蔑視や差別を受けただろう。だがそれは「いつも危険を冒している」とまでは言えない。これは、パウロ自身の苦難を「わたしたちキリスト者の体験として一般化して語っているのである。彼は、Ⅱコリント11:23以下に語られているように、アラビアでの伝道開始以来、何度も死の危険を冒して活動してきた。ここで彼は、自身の個人的体験を語り出す。
 31節「兄弟たち、…、わたしは日々死んでいます。」は、マタイ16:24「自分を捨て、自分の十字架を背負って」キリストに従う生活が、どのようなものであるかを、パウロ自身の体験として具体的に語っている。それは「弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態」にあい、「罵られては、優しい言葉をかけ」人間の屑のように扱われつつ、宣教に励む生活である。
 もし、「復活の希望」を持たず現世が一切であるなら、これはなんと顛倒した生活態度ではないか。前回、信仰者の生活は「地上の主がそうであられたように、苦しみを受ける道であろう」と言ったが、具体的にパウロは、このような「日々死んで」いく生活を味わい、その果てに、実際に殉教の死を遂げた。それ程ではなくとも、私達の知る伝道者達の生涯も概ね困窮と苦闘の生活である。
 だが、それは決して不満や嘆きに結びつかない。むしろ逆に、「わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇り」として語られているのである。主がその苦難と死によって「すべての人が生かされる」復活を勝ち取られたように、使徒の「日々死んで」いく宣教が「あなたがた」コリント教会の人々に「永遠の命」を与える信仰をもたらした。つまり、Ⅱコリント4:12「わたしたち(伝道者・使徒の内には死が働き」、その結果「あなたがたの内には命が働い」たという収穫の喜びとなっているのである。
 32節の「エフェソで野獣と闘った」とは、比喩的表現である。映画「クオ・ヴァディス」の影響でパウロが実際に野獣と闘ったと思いやすいが、それは違う。ローマ市民権を持つ者が、そのような刑をうけることはない。だが、使徒行伝を読めば、エペソでの大騒乱でユダヤ人からテロの標的にされた事が分かる。それ程の凶暴な暴力にさらされたことを言っている。
 以上のようなことは、ピリピ3章「キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、11 なんとかして死人のうちからの復活に達したい」との望みからでなければ、何であろうか。
 もし現世だけがすべてで、「この生を善く生きる」為だけであれば、キリスト教も道徳律も哲学も、結局は享楽主義と同じ虚無的なものでしかない。「どうせ明日は死ぬ身」なのだから。
❷「正気になって、身を正す」こと
 「33思い違いをしてはいけない。『悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする』のです。 34正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない。神について何も知らない人がいるからです。わたしがこう言うのは、あなたがたを恥じ入らせるためです」。
 33節。ヘレニズム的哲学に惑わされ、「イエスが復活された」という現実を「思い違いをしてはいけない」。救済は「死人の復活=身体の甦り」として到来するのである。世俗(ヘレニズム哲学など)や教会内の復活否定論者との交際は、イエスを復活させキリストとしてお立てになった神の行動から目を逸らすことになる。復活を信じる事を恥じてはならないのである。
 34節「正気になって」とは、具体的には「イエスの復活」という決定的な出来事を、まともに受け取るべき事であろう。それは、神が死を滅ぼし、人間に神と共に生きる新しい命を約束された事である。その事実の前に「身を正」し、神を度外視した自分基準の観念や空想ををもてあそび、自律した自己であろうとする罪を犯してはならない。
 自分の目に見える現実だけがすべてで、真実に人間に相対される「神がいます」と言う事に、鈍感で無知な人がいる。パウロはこう言って、ロマ1:21「むなしい思いにふける」人を叱咤している。
 だが、これは当時の復活否定論者だけの話ではない。神との関わりの歴史を持つユダヤ人とは違い、異教的環境にいる現代の私達も「神について何も知らない」伝統や思想の中にいる。人間主体に物事を判断し、愛によって人間と世界を創造され、歴史に介入し、イエス・キリストの出来事によって人間に語りかけ給う神に気付かないのである。もしそうであれば、人間とは「露と生じ、露と消えゆく」儚く虚無的な存在ではないか。だが、福音はそうではない事を告げている。
 では、福音を信じるキリスト者が「身を正す」とは、具体的にはどうすべきだろう。各自、導かれるまま能力と立場に応じて追求すべきだが、私自身は次のように考えてみた。
 ①祈ること:祈りは、神との交わりである。<悩みの日>には勿論であるが、就眠前に、食前に、生活の中で絶えず祈る習慣を身につけ、人生の喜びや悲しみを悉く神に語り、神と共に生きる者でありたい。創世記5:24に「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」とある。彼は「神との交わり」の中で、死を見ずに生死を超えたのである。
 ②聖書を読むこと詩篇は代々の信仰者の祈りの集大成である。繰り返し読み、祈る事を学ぼう。また、聖書全体、特に新約聖書を、通読するだけでなく学びながら読み、解き明かしを聴き、福音が何を約束しているかを少しずつ確かなものにしたい。信仰は神の言葉(聖書)を聴く事に始まり、改革されていくのである。宗教改革も、ルターがロマ書を新たに読んだ事から始まったのである。
 以上、私達にもできるこれらささやかな事を習慣として、主に従っていきたい。