家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

死人の復活-3

2023年10月15日

テキスト:コリント15:20~28

讃美歌:380&488

                               (6)死人の復活(15:1~58)
 前回は、復活されたイエスの顕現は、十二弟子に留まらず、集会の場で500人以上の兄弟達やエルサレム教団系使徒達、そして最後にパウロ自身に至るまで続いた事が語られた。これらの人々は全て「十字架に死んだイエスが、現実に生きています」という事の証人達である。
 彼らは全て、イエスが復活されたのは、彼の死を人類の為の贖罪と神が認め、キリストとしてお立てになった事だと証言した。つまり、贖罪と普遍的死人の復活を預言した<聖書に書いてあるとおり>であるとしたのである。コリント教会の人々もこの証言(ケリュグマ)を受け入れ入信した。
 それなのに、イエスの復活を認めながら「死者の復活などない」とすることは、イエスの死を贖罪と認めないことになる。それでは「キリストが復活しなかったなら(罪の贖いもないのだから)あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」17節。
 「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです」(13&16節)とは、「死者が復活しない」経験則が不変であるなら、「エスの復活」もあり得ず、復活しなかったのに復活したと宣教するなら、それは神に叛く偽証であり、顕現は空疎な幻だったという事になる。
 要するに<聖書に書いてあるとおり>という旧約聖書の証言を否定すれば、イエスがキリスト(救主)であることも否定し、キリスト信仰を人間が思いついた宗教思想や教説にしてしまうのである。ヘレニズム異教世界への伝道開始以来、キリスト信仰は絶えずそうした宗教的思想的誘惑と戦ってきた。最近ではドイツ的キリスト教旧約聖書を否定したが、教父時代にはマルキオン主義やグノーシス主義があり、使徒信条に「身体の甦り」条項が入ったことは、その戦いの成果である。 
Ⅲ.キリストの支配(王国)が過渡的であること(15:20~28)
❶初穂キリスト(15:20~22)
 20~22節「<しかし、実際>、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの<初穂>となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです」。
 20節の<しかし、実際>は、ロマ書3:21「<しかし今や>、神の義が、律法とは別に、…現された」(口語訳)と同様に、神の救済史上全く新しい時代(アイオーン)が開始した事を表現する。
 人間がどう解釈しようと、神は現実にイエスをキリストとして復活させ、人間を身体の甦り=復活>の形で救済することを決定されたのである。パウロ自身がその証人である。
 <初穂>は、旧約聖書に由来しその年の収穫全体を代表する。初穂を神に捧げる事は、収穫全体が神に属する事を表すのである。復活されたキリストが、死人からの<初穂>と言う事は、全死人が復活すべきことを意味する。つまり、イエスが全死人を代表して復活されたことが、この<初穂>という言葉に籠められている。そうであれば、現在「死んでいる状態」は、復活によって覚醒する前の「眠りの状態」と言える。だから、死は「眠り」と言われる。時間的生の終りである死が、永遠の生に目覚める前の眠りであるなら、死は永遠の生への待機状態または入り口である。永遠の生とは、神と調和する生であり、その生に覚醒し活動を開始することが復活である。
 21節。創世記のアダムが死ぬべき人間の始祖となった(過去形)ように、キリストは復活する死者達の始祖となられる(未来形)。この過去形と未来形の使い分けは、キリスト復活がまず起きたが、それに続くキリスト以外の死者達の復活は将来であって<まだない>ことを示している。
 22節の、「アダムによってすべての人が死ぬことになった」という過去形と、「キリストによってすべての人が生かされることになる」の未来形の対比も、同じ事を意味する。だが、キリストが神よって復活させられた以上、それ以外の人間達が将来復活すべき事は既に決定済みの事柄である。
 要するに死人の復活は、現在キリストにおいて「すでに」であるが、それ以外の人間達には「いまだない」過渡的状態であり、しかも、事態はその確定した将来に向かって進行中ということである。それが、キリストの復活を<初穂>と呼ぶ意味である。
 だが、それは自動的に進行するのではない。その事が次に語られる。
❷キリストの支配(15:23~24)
 「23ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、 24次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます」。
 <順序>と訳されている用語は、<軍団>という意味にも使われ、同じ機能・性質を持った集団や塊を表す言葉である。だから23節は、単に時間的順番を言っているのではない。最初に出現したキリストの復活を、それに続く「キリストに属している人たち」の復活とは区別し、特別な機能・性質を持つ事を表現している。確かに、復活者キリストだけが、その他の復活者を作り出す機能を持っている。地上のイエスがこの世の支配者・権力に対立されたように、今や復活者キリストは虚無の力に対する勝利者として、神から自立する勢力と戦い、人間を奪い返し、聖霊を与えて<時間的生の中で既に永遠の命に生きる>者として復活に備えさせ、神の支配を到来させようと働いておられる。現在、信仰者達の永遠の命は「キリストと共に神の内に隠されている」コロサイ3:3が、将来、キリストの栄光が顕わになる来臨と同時に、(身体の甦りとして)現れ出る事になっている。
 従って<時間的生の中で既に永遠の命に生きる>こと、つまり人生を信仰をもって生きる事は、キリストに従って「この世の君=虚無の力」と対立する事を意味する。それは、地上の主がそうであられたように、苦しみを受ける道であろう。そのようなキリストに属している人たち」を作り出すことはキリストの御業である。パウロは、その僕として苦難つつ宣教しているのである。
  キリストは全人類の罪を贖われた。従って、全人類は名目上キリストのものであり、人類は全被造物を代表するから、万物はキリストのものである。キリストの支配は、全人類が名目上だけでなく実質上彼に属する信仰者となって復活するまで継続する。キリストが来臨し、その栄光が顕わになると共に、全死人が復活する。それが、死が完全に滅ぼされる「世の終わり」である。
 ところで、死とは時間的生を終えることである。キリストの復活は、人間は死んで消滅せず時間の外で存在すると実証した。つまり、死者は時間の外で(身体なく)存在すると言うことである。イエスは死後そのような者として黄泉に降り、時間の外で宣教され、そして死に対する勝利者としても宣教される。だから、キリストを信じないで死んだ者も、死の中で信仰し、復活の希望を抱くことが可能である、と信じる。これは、生者にとっても大きな慰めではないだろうか。
 24節は「キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます」と、キリストの支配(キリストの国)が完成すると、それは父なる神の支配(神の国)に引き渡されて終わることが述べられている。つまり、キリストの支配の目標は「神の支配(国)」である。
❸神の支配(神の国)(15:25~28)
 25節から28節前半までは、上記の「最後の敵である死が滅ぼされると、キリストは支配を父なる神に引き渡される」ことの、詩篇110篇「わが主に賜った主の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう』」による聖書的根拠づけである。私達にとっては、キリストが復活された以上、キリストが「すべての権威や勢力を滅ぼ」し、神の支配(国)を到来させる、と知るだけで充分であろう。これは、見通せないほど遠い将来の事柄に見える。
 だが、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」ヨハネ17:3、とあるように、永遠の命に復活された「キリストを知る事」は、時間の中で既に永遠に結合し終末に触れる事である。つまり信仰は、8節後半「神がすべてにおいてすべてとなられる」という「まだ見ていない事実を確認する」ヘブル11:1。
 だからイエス=キリストを信じる者は、肉の弱さや罪に悩み、瞬く間に過ぎ去るこの人生においても、神の国の完成を「はるかに望み見て喜び」、キリストに従って歩く勇気と力を、今「すでに」、聖霊によって与えられているのである。
 「生においても死においても」主のものである事を、今一度、深く神に感謝しよう。