家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

真理の御霊

2021年11月21日

テキスト:ヨハネ伝16:4後半~16:15

讃美歌:181&66、献金 頌栄542

                        B.救済者の天への帰還(13:1~20:31)
                                           
1.弟子達への告別説教(13:1~17:26)
 前回は15章後半から、現在ヨハネ共同体が受けているユダヤ教からの迫害・弾圧は、既に予告されていたと語られていることを学んだ。ユダヤキリスト者達の苦難は、神がその愛する民イスラエルから背かれ、救主が救いの対象である者達から拒絶され殺されたことの、微かな反響である。神がその救いの業を実現しようとされた時、民イスラエルはそれに反抗し、自分達の考える宗教に固執した。それによって、彼らの不義を公然と示した。「恵みによって残されたイスラエルの残りの者」だけが、キリストを受け入れたのである。これは、以前に学んだイザヤの預言にあるとおりである。しかし、どちらの側が義であるか神の判決を示す為に、聖霊が到来される。そして、ユダヤ教法廷で異端とされたキリスト者の正当性(義)を弁論し、シナゴーグ側の不義を糾弾されると予告された。例えば、使徒行伝のステパノの演説が示すように、初期キリスト者達は弾圧と迫害の場でこそ、聖霊が力強く働かれることを体験した。パウロも、人間的苦境と弱さにおいて「神の力が完全に働く(宣教が行われる)」体験を語っている。
16章(世に勝つ信仰)
(1)真理の御霊(16:4後半~15)
 4節後半「これらの事」とは、イエスが地上を去り、代わりに別の同伴者が到来されること、また迫害(特にユダヤ当局から)を受けること、である。地上にイエスがおられる間は語る必要がなかったが、世を去るにあたってこの席で語られた、とされている。だが、次の5節6節は、最後の晩餐での弟子達の有様とは思えない。その席では、彼らは不安を覚えつつも、まさかイエスが十字架死を遂げるとは思いもよらなかったであろう。むしろエルサレム入城された以上、何らかの形でメシアとして権力を発揮されると信じていたに違いない。
 だから5節6節は、イエスの死後、弟子達がユダヤ当局を恐れて戸に鍵をかけ、隠れ家に閉じこもった、その状況を思わせる。彼らの一切の希望は崩壊し、イエスがどこに行かれたかを問う気力もなく(まして復活して神の御許に帰還されるなど思いもせず)、何も考えられない悲しみに満たされていた有様である。だが、そのような彼らに、復活のイエスが顕現され息を吹きかけ「聖霊を受けよ」と言って下さった。そして、立ち上がらることができた。原著者長老ヨハネは、繰り返しその体験を語ったことであろう。それが回想されている。
 イエスが身体を備えた人間として天に昇られたからこそ、まだ地上にある、身体を備えた(イエスに属する)人間達に聖霊(弁護者=パラクレートス)が派遣されたのである。聖霊は、父と御子を一つに結ぶ霊である。神の御心はそのまま聖霊を介してイエスの御心となる。そして、神と一つである人間イエスを通して、弟子達に聖霊が分け与えられ、聖霊が彼らを父と子なる神に結びつけるのである。遠回しの例であるが、音楽に感動する時、私達の身も心も揺り動かされる。そしてその感動が聴衆を一つする。音楽ですらこのような力がある。まして人間の霊に直接働かれる聖霊の力は、人間の心と体を感動させ、感動した者達を一つに結ぶ。そして、人間の理性や感覚を超えた深い認識を得させる。だから、律法文言の人間的解釈ではなく、その精神(神の真意)から理解できるようになる。だから、地上からイエスが去る事は、かえって弟子達の益となるのである。
 聖霊を弁護者(パラクレートス)と表現しているのは、キリスト者達を被告とするユダヤ教法廷においてキリスト者達の義を弁護し、かえって検察側(告訴側)の不義を糾弾されるからである。(不義=罪は、神に敵対すること、義とは神に喜ばれる在り方である)。ユダヤ教法廷の被告ステパノはその答弁でユダヤ教徒の不義を糾弾した。律法に忠実であったパウロは、聖霊によって自分の信じていた義が、実は不義であったことを悟り、自らを「罪人の頭」と告白した。
 神の判決は、神聖冒瀆者とされたイエスを復活させ、それによって彼の義を宣言公告された。それは同時に、イエスを裁いた者達(世=ユダヤ教支配者)への断罪である。それらを、聖霊は世に対して抗告弁論される。この場合の「世」は、もはやユダヤ教法廷の狭い意味を超え、宗教的世俗的支配者達と、彼らを操るこの世の君=サタンとしても拡大解釈できるであろう。神の裁きは、将来の終末時を待たず、イエスを信じるか否かにおいて現在既に開始しているのである。
 12節以下は、人間と世界に対する神の御心(意図)を悟るには、「真理の霊聖霊」が付与されねばならず、人間的認識からは不可能であることを言っている。実際、イエスの復活を、人間的理性や感覚は受け入れることができない。肉の目で、復活のイエスを目撃することはできない。顕現されたイエスを、ダマスコ途上のパウロは「見た」。だが居合わせた同行者には見えなかった。弟子達への復活者顕現も同様である。だが、それは確かに現実の出来事であり、その体験が打ちひしがれた弟子達を立ち上がらせ、力強く「真理=神の現実」を宣教する使徒としたのであった。
 13節の「これから起こること」とは、聖霊の到来によって開始した「神と人間が一つに結ばれる」事態を指すと考えられる。「将来の終わりの日」にではなく、既に現在、肉にあって生きている人間に聖霊(生命の御霊)が到来した。これは、神と共に生きる朽ちない身体が与えられる事、つまり復活という完成の保証金である。イエスは、死ぬべき身体において聖霊によって歩み、苦難を受け、栄光の身体に復活された。信仰者もまた、肉にある人生を聖霊に従って歩み、苦難を受け自己に死に、それによって主イエスにある復活の希望を抱いていることを、世に言い表すべきであろう。
(2)出産の苦しみと新しい命の喜び(16:16~22)
 16節の最初の「しばらくすると」とは、間もなくイエスを見なくなる迄の期間であり、①イエスが捕縛されて弟子達から引き離される迄の時間、および②当時多くのキリスト者が差し迫ったこととして期待した「主の来臨(パルーシア)」までの期間、を意味している。その期間にあっては、弟子達及び信仰者は肉眼でイエスを見ることができない。①において、弟子達は悲嘆に暮れ、②において、信仰者達は世から嘲笑される弱々しい存在である。
 しかし、次の「またしばらくすると」は、イエスが死んで葬られていた3日間の経過後、なわち弟子達に顕現されて以降を意味する。「わたし(イエスを見るようになる」の「見る」は最初の「見なくなる」の動詞とは異なる。イエス顕現を現す受身形「500人以上の兄弟達に見られ」(Ⅰコリント15:6)の動詞の能動形であり、視覚を超えた力強い体験である。つまり、直接肉眼でイエスを見ること以上の、生々しく力強い復活者イエス体験である。ダマスコ途上のパウロは、このようにして復活者イエスを「見た」。それはイエスの栄光の姿の体験であり、それにより、パウロは「生も死も、天使も支配者も、…その他どんな被造物も引き離すことのできない」キリスト・イエスにおける神の愛、を悟り得た。このような力強い体験と認識を得させるのが聖霊の力である。
 20節「あなた達は泣き、嘆くことになるが、世は喜ぶであろう」は、上記①と②における弟子達と信仰者の有様である。だが、復活者の顕現と聖霊の到来によって「あなた達の悲しみは喜びに変わる」。女は出産時、自分の身体が引き裂かれる苦痛を味わう。しかし子供が誕生すると、新しい命出現の喜びによって、出産の苦しみを忘れる。そのように、朽ちる死ぬべき人間から、永遠の命に生きる新しい人間が生み出される為には苦しみが伴う。しかし、その苦痛は、それによって出現する新しい命の喜びに取って代わるのである。
 22節「あなた方は心から喜び、その喜びを奪い去る者はいない」。聖霊によって、キリスト・イエスにおける神の愛に結ばれた者は、存在の奥底からの喜びに満たされるのであるから、迫害と貧困と病と、その他どんな人生の苦しみも、また他のどんな被造物も、その喜びを取り去る事はできない。これが、イエスが世を去り、天に昇られて派遣される聖霊の働きである。
 私達は、自分の人生において、弟子達やパウロのようなイエス顕現を体験しないであろう。だが、顕現を体験した使徒達の証言を信じる事ができる。「見ないで、信じる者は幸い」だからである。また、世から嘲られる弱々しい存在かも知れない。だが、聖霊はどんな末端の信仰者にも隔てなく与えられ、同じ喜びを満たして下さる。

 御子を人間にお与え下さった神を讃美したい。