家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

福音書の目的

2022年6月26日

テキスト:ヨハネ伝20:30~31

讃美歌:216&534

                      B.救済者の天への帰還(13:1~20:31) 
2.受難と復活(18~21章)
20章(イエスの復活と弟子達への顕現、福音書の目的)
(2)結びー本福音書の目的
 前回は、トマスへの顕現を取り上げた。彼のイエスの復活顕現に対する疑いは、地上のイエスを神から遣わされた<人間としての>メシアと見た為であった。神と人との仲立ちとして命を捧げられたからには、終りの日の全ての死人の復活までは死んだ状態でおられる筈だと思い込んだのである。だが、それでは各人がそれぞれその行いに応じて報いられるという原則に従い、自分は義人として永遠の命を受けても、自分以外の罪人達に永遠の命を与えることはできない。
 これに対し、イエスの十字架死は単なる個人的献身ではなかった。十字架上のイエスの死は、最後の審判における最後決定的な(人間全体の)罪の肉の断罪=死と滅びだったのである。被造物は御子において創造されたのだから、御子こそ神に対して全被造物を代理する資格を持っておられる。だから、イエスの肉における死は、彼を信じる者の肉における断罪=死を意味した。彼を信じる者は、イエスの死において既に最後の審判で断罪され死んだものとみなされるのである。
 イエスは肉において徹底的に裁きと死をお受けになった。モーセのような「神の人」の死は、終りの日の復活までのかりそめの死である。だが、イエスの死は最後の審判における最後決定的な裁きと死であり、彼を信じる者はイエスの十字架において既に最後決定的に裁きと死を受けたのである。しかし、肉において全く罪のない完全な義人が、永遠の命を勝ち得るという原則に従い、イエスは栄光の身体に復活された。この新しい命は、彼にあって死んだとみなされる「彼の兄弟たち」にイエスの霊(聖霊)として注がれる。だからイエスを信じる者は、肉にあって既に死に、注がれたイエスの命によって生きる事ができる。霊的な栄光の身体を形成する聖霊を付与できるのは、イエスが神と本質を同じくする神の御子(子なる神)でありつつ、同時に身体をもった<人間>だからである。
 イエスは、トマスが前提としていた神から派遣された<人間としての>メシアではなく、神御自身が肉にある一人の人間となり、神の御子として全ての人間を代理して裁きと死を受けられたのである。その復活も自分一人の為でなく、彼を信じる者に彼の命の御霊(聖霊)を注いで彼と共に永遠の命に生きる者とするためであった。
 大雑把にまとめた以上のような事を、トマスは顕現されたイエスを見た瞬間に(聖霊によって)悟った。神は、それ程までに人間を追い求めて下さったのである!トマスは感謝と感動に溢れて、ただ「私の主よ、私の神よ」と告白するばかりであった。
 さて今回は、トマスが悟らせて戴いた「エスが神の子キリスト」であることを、読者が信じることが本書の目的だとする結論部分である。
 30節「この書に書かれていない徴(しるし)を他にも多く弟子達の目の前でなされた」とあるのは、徴=奇跡をイエスの神性の証拠とする考え方からである。ヨハネ伝の資料となった奇跡集「しるし資料」には他にも多くの奇跡が記載されていたであろう。共観福音書にも、もっと多くの奇跡が伝えられている。だが、ヨハネ伝著者はその内から僅か七つの奇跡だけを取り上げ、そのそれぞれの奇跡の意義をめぐる長い対話を付して本書を構成した。
 福音書は、イエスの行われた奇跡を彼が神から遣わされた御方であると指し示す「しるし(徴)」と呼んでいる。ヨハネ伝はこれらの徴を通し、イエスが神から遣わされた<神の子>であると信じるように読者に呼びかけている。
 「そう信じて彼の名によって、永遠の命を持つようになるためである」31節。「彼の名」とは、イエスの本質を現す言葉である。すなわち、<人間と運命共同体となるために世に来たった神>である。この方を愛し、生に於いても死においても彼に身を委ねること、それこそが「永遠の命」である。ハイデルベルク信仰問答にあるように「生に於いても死においても、イエス・キリストのものであること」それが、私達の本当の慰めであり喜びなのである。永遠の命とはどういうものか、私達には分からない。だが、私達を創造し存在させ給う御方が、私達人間の一人となるまでに私達を愛し、ナザレのイエスとして生き永遠の命に復活して下さった事を知る時、私達の心は愛と喜びに満たされる。復活されたイエスと彼を信じる者との愛は「永久に絶えることがない」。この愛において、私達は永遠を感得し神を讃美することができるのである。
                          C.付加部分ーガリラヤでの復活顕現
(1)21章が付加部分であること
 本来のヨハネ福音書は20章で完結し締めくくられている。21章は後から付け加えられた部分と考えられている。その理由は次の通りである。
①本体部分では、復活者イエスの顕現はエルサレムに限られ、弟子達がガリラヤに戻ったことは全く触れられていない。ところが、21章では弟子達がガリラヤにいた事が前提となっている。
②本体部分には登場しないゼベダイ兄弟が居合わせた弟子の中に存在する。
③本体最後の締めくくりでは、もはや直接復活顕現に接して信じるのではなく、<聞いて信じる信仰>が宣言されている。にもかかわらず、再度復活顕現が繰り返されている。
④既に聖霊を受けて派遣された筈(20:21&22)の弟子達が、ここではガリラヤで漁師をしている。
⑤ 本体部分にない再臨(パルーシア)について明確に言及されている。
⑥ 本書の著者を愛弟子とした上で(21:24)、彼が再臨まで死なないという噂を否定する書き方をしている。これは、愛弟子=長老ヨハネの死後に書かれた事を示している。
(2)21章が付加された理由
 では、なぜこれを付加する必要があったのか正確なことはわからない。だが、ヨハネ第一の手紙を読むとヨハネ共同体内部に分派活動があり、共同体から分離して行ったことがわかる(1ヨハネ2:19)。
 もともとヨハネ共同体は位階制度を持たない緩やかで自由な信仰運動のような集まりであった。ところが中心人物であった長老ヨハネが亡くなると、その自由さが災いして、異端的な信仰を主張をする者達が出現し、組織から分離していったようだ。
 このような信仰的危機に対応し、正統的な信仰を異端から守るため、ヨハネ共同体も使徒の権威の下に組織された教会と一致団結する必要が生じたのである。形式としては使徒達を頂点とする位階制度をもった教会に吸収合併されることになった。だが、ヨハネ共同体のもつ豊富なイエス伝承とその優れた解釈が尊重された。実際、一連のヨハネ文書は正典として大切に受け継がれた。その経緯を明らかにするために、新しくガリラヤでの復活顕現が付加されたと考えられている。
 以上は、私が住谷眞著「激しく攻める者がこれを奪うーヨハネ教団の最終相」をざっと読んでまとめたものである。
 リーダーであった長老ヨハネは、最初期のエルサレム教会と関わりがあったはずである。だが、エルサレム神殿祭司としての身分上、職業を捨てず在家の信仰者として活動した。そして自然に同じ信仰を持つ在家信仰者達が集まりグループを形成したのがヨハネ共同体の核になったのではないか。そうした経緯から、使徒系教会とは対立するのではなく同じ信仰を持つ同志としての関係にあったようだ。使徒系教会は、貧困層の扶助といった社会的活動を組織的に行い、またそうした民衆の指導にあたるために位階制度を形成していったが、ヨハネ共同体は比較的教養の高い階層を中心に霊的内面的にお互いの信仰を高め合う信仰運動的な集まりだったようだ。
 現在の私達の問題として考えると、牧師を中心とする教会に所属し、日曜毎の礼拝を守り、洗礼や聖餐式といった儀式を行い冠婚葬祭もキリスト教的に行う等のことも確かにキリスト教的信仰生活ではある。だが一方、教会や儀式とは関係なく真剣に聖書の語る事を聞き、受け入れ、自分を変えていくことも同じく、あるいはそれ以上にキリスト教的信仰生活ではないだろうか。信仰は生活様式だけでなく、霊的内面的な問題である。
 私達が礼拝活動を開始したのも、既成の教会に所属することができなくなった人間的事情からであった。キリスト者の要件とはイエス・キリストに所属することであり、教会に所属し籍をおくことではない。それならば、教会に籍をおかないまま、私達なりに聖書を学び礼拝していこうというのが基本方針であった。相澤亡き後も、幸いに継続できている。だが、教会や集まりも人間的なものである。いつかは終る時があり、別の形で信仰を守って行く事になるであろう。ヨハネ共同体も教会組織とは別に自分達の集まりを維持し、それなりの成果をあげた。だが、自分達の組織を維持することを目的とせず、正統的信仰のために吸収合併される道を選んだ。

 現在も様々な群れが存在する。だが、聖霊に導かれるまま自分の選ぶべき道を歩みつつ、「遂に一つの群れ一人の牧者」となる事を信じて進んでいきたい。