家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

死人の復活-1


2023年9月17日

テキスト:Ⅰコリント15:1~5

讃美歌:527&525

                              (6)死人の復活(15:1~58)
 前回まで、パウロはコリント教会に生じた様々な具体的な問題(分派争い、家庭内不道徳、信徒間の訴訟、偶像に供えた肉の問題、主の晩餐での無秩序、礼拝の混乱など)を、教会からの相談に応じ一つ一つ取り上げ懇切に指導してきた。しかし全般的にみて、コリント教会は霊に燃え信仰に熱心な教会であり、また異邦人中心のキリスト教会の拠点としてパウロが重要視した教会であった。事実、多くの非ユダヤ人達がそれまでの偶像崇拝を捨て、「イエス・キリストによる以外に救いはない」と信じて洗礼を受け、キリスト者となった。だが、そこには非ユダヤ人だからこそ、イスラエルの信仰伝統から外れて福音を理解しやすい隙があった。それが、これから取り上げられる「終末時における普遍的死人の復活」問題である。
 パウロは、教会のある者達が「死人(達=複数形)の復活はない」と言っていると、聞き及んだ。彼らは、決してイエス・キリストの復活を否定しているのではなく(それならキリスト信仰に入らなかったろう)、自分達キリスト者が死後に復活することを否定していたのである。しかし、キリストの復活を普遍的死人の復活と切り離して受け止める「福音」は、もはや福音ではない。
 重大な事は、彼ら(キリスト者達の復活を否定する人々)も、自分達をキリスト者と意識している事である。もしかしたら分派争いや不道徳から無縁で、秩序ある礼拝を願う真面目な信徒達であったかも知れない。その上で、「死人達の復活」なしでも立派にキリスト信仰が成り立つと考えていた。だがパウロが伝えたのは、死人の復活なしの新宗教ではなく、イエスの復活によって死が打ち破られ、「神の支配=神の支配」が地に到来した、という「福音=good news」である。それはつまり、イスラエルに約束された救済が成就したという事を意味する。
 勿論、イエスの復活を(ラザロのような蘇生ではなく)、朽ちない身体での復活と認めることは、イエスの直弟子達にさえ容易ではなく、顕現されたイエスに出会っても夢を見ているようで現実とは思えなかった、と福音書は報告している。約束された聖霊が降臨されてはじめて、イエスの十字架死と復活を、神の救済の実現と悟ることができたのである。だがその前提に、ユダヤ人達の復活信仰があった。少数のサドカイ派を除く殆どのユダヤ人は、最後の審判時に全死人が復活し、裁きを受け、義人は永遠の命に入る、と信じていた。これは庶民に過ぎないマルタでさえ、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言ったこと(ヨハネ11:23)からも分かる。だからいったんイエスの復活を認めれば、それをそのまま、預言された普遍的復活の開始と認めることは比較的容易だった。(この場合、重点は、律法による義か、キリスト信仰による義か、の問題となる)。
 これに対し異邦人は、人間の身体を持った復活を救済に結びつける思想的土台はなかった。人間を超えた霊的存在を崇拝するか、あるいは霊が肉体から解放され光明の世界に入ることを救済と考えるギリシャ思想に影響されていた。救済方法として密儀に与るとか、生前の修練により死後に魂が霊的世界に帰還するとか様々だったが、身体的復活を救済とは考えなかった。だから、イエスの復活は「神の子」としての特例であり、天使のような霊的存在に「復活」したと解釈し、人間としての「身体の甦り」を否定したのではないだろうか。
 思えば、伝えられた福音「エスは主である」を堅く信じつつ、その内容を少しずつ自分の考えに近づけて変質させることは、ありがちである。また、そうすることが自分の信仰を確立することだと考えやすい。私達も礼拝毎に「我は、…身体の甦り、永遠の命を信ず」と使徒信条を唱えているが、その内容を曖昧にしていないだろうか。或る人は、浄土教のようにキリストの十字架に済度?され死後に天国に「転生」することを「復活」と考えたり、また或る人は、「実存的変革(愛に生きる等)」を「復活」に置き換えて考えたりしやすい。それらは他の宗教の「救済」や「悟り」とそっくりである。知らず知らずのうちに、なじんできた宗教や思想を、現実に生起した神の救済の出来事(イエスの十字架と復活)に当てはめて、福音を曖昧にしているのである。
 しかし、聖霊の照明によって「エスは主である」と認識し、キリスト者とされたのであるから、パウロも「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます」(1:8)という信頼と希望において、復活を否定する彼らをも「召された聖徒達」とし、「兄弟達」と呼びかける。その上で、彼らを、自分が伝え彼らが信じた正しい福音に立ち返らそうとする。
Ⅰ.キリストの復活(15:1~11)
パウロが伝えた福音(15:1~3)
 1~3節前半「①兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたは救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」(節毎に丸数字を付した)。
 1節。パウロは、自分が伝えた福音を改めて「もう一度知らせます」という。それは、現に「あなたがた」コリント教会の人々が受け入れ「生活のよりどころとしている福音」にほかならない。だが、それをもう一度繰り返し念を押さねばならない点に、そこから外れているという苛立ちが籠められている。死人の復活を否定する「福音」は、もはや福音ではないからである。
 2節「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば」とある、その言葉は、3節後半~5節迄の簡潔な「宣教の言葉=ケリュグマ」である。この「ケリュグマ」(「使徒信条」などの「信条」)を「しっかり覚えていれば」とは、暗記し唱えられれば、という意味ではない。それを心から信じて<身をもって生きる事>である。そうすれば「この福音によって救われ」る。だが、口で唱えるだけで、実際には自分で勝手に解釈した「教説」を福音として信じるなら、「あなたがたが信じたこと自体が、無駄」なのである。
 3節。では、それはどんな内容なのか。まず、「わたしがあなたがたに伝えた」信仰は「受けたものです」。つまり、自分が発見したり考え出したのではなく、他者から受けた(知らされた)ものである。勿論、パウロに伝えた人物は、顕現されたキリスト御自身である。「わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされた」(ガラテヤ1:12)とある。そして、ダマスコ体験のあと直ちに「血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず」アラビア伝道に赴いたのだから、復活者キリストに出会っただけでなく、宣教の内容もキリストご自身から受けたのである。(余談だが、「キリスト教パウロが創設した宗教だ」と言う俗説があるが、それはこの通りパウロ自身が否定している。)
 復活者イエス・キリスト御自身が福音を啓示されたことは、パウロだけではなく、ペテロら他の使徒達も同じである。パウロは回心から三年後「ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在し」たが、それは、福音をペテロから受ける為ではなく、彼が既に宣べ伝えている福音と、ペテロらが伝えている福音が同じであることを綿密に確認するためである。両者の内容は、一致した。だから、パウロが「あなたがたに伝えた」のは、エルサレムの原始教団で成立した「宣教の言葉=ケリュグマ」である。
 「最も大切なこと」つまり、福音の骨子は、「イエスの死と復活、及び弟子達への顕現」という<事実(ファクト)>である。その事実を伝えるステパノの演説は、イエスを殺害したユダヤ人らへの弾劾となったが、異邦人らにはまた別様に創造信仰から説き起こして語られたであろう。次が、その「宣教の言葉」である。
❷「宣教の言葉=ケリュグマ」(3節後半~5節)
 3節後半~5節「すなわち、キリストが、<聖書に書いてあるとおり>わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、<聖書に書いてあるとおり>三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」。
 これは用語からみて、ユダヤキリスト者集団で成立したことが理解される。イエス復活後かなり早い時期にエルサレム教団で成立したと考えられる。
 内容は、時系列順に、イエス・キリストが「死んだ」→「葬られた」→「復活した」→「現れた」の、四つであるが、「葬られた」は「死んだ」の確認であり、「現れた」は「復活した」の確証であるから、「死んだ」と「復活した」、つまりイエスの死と復活が要点である。この、エスの死と復活という出来事に、それぞれ<聖書に書いてあるとおり>という重要な修飾語が付されている。
 「死んだ」や「葬られた」は、誰でも分かる客観的事実であるが、「三日目に復活した」ことは、単純な客観的事実とは言えない。イエスの復活は、十字架の死から足かけ三日目という歴史的時間とエルサレム郊外の墓という限定された空間において起きた出来事であり、同時に、時間と空間を超越する出来事である。従って、復活者が出現(顕現)してその事実を身をもって示すほかに、伝える事はできない。だから、復活者の顕現を体験した者とその証言を信じる者にとって、イエスの復活は現実となるが、それ以外の者には、ただの不可解な事象にすぎない。復活者が顕現し福音を啓示された事が、福音宣教の源泉である
 私達異邦人キリスト者には分かりにくいが、冒頭で述べたように、普遍的復活を信じるユダヤ人にとって、霊的身体をもった「復活者」の出現は、「終わりの日=終末」の到来と受け取られる。即ち、イエスの復活は、神が約束された救済の「成就」である。それが<聖書に書いてあるとおり>の意味である。この「聖書」とは、勿論、旧約聖書であり、イスラエル民族の歴史に啓示された神の約束が、「遂に成就した(実現した)」ことを言う。決定的なことは、これを地上のイエスが繰り返し語られ、また復活後もエマオで弟子達に解き明かされておられる事である。エスの死と復活をイスラエルに啓示された救済の成就として解釈すべき事、を、主が自ら示されている。
 また、イエスの復活が普遍的復活の開始と分かって始めて、イエスが「わたしたちの罪のために死んだこと」が分かる。つまり福音の告知としては、神がイエスを復活させた事が、イエスの死を「わたしたちの罪の」贖いと(神が)認めたことを、遡って公示するのである。
 イエスの死を「わたしたちの罪のため」の贖罪死と認めても、彼が死んだだけで復活しなければ、ヘブル書にあるように、その死は犠牲獣の死と同じである。その死の時点までの罪は贖えても、それ以降の罪には適用されず、人間は相変わらず罪を犯し続けるのだから、究極の救済にはなりえない。生まれながらの人間本性は、神に相対する存在として創造されながらも神との関係を憎み独自に存在しようとする。その罪ある人間本性を、イエスが人間を代表して死んだ。イエスの十字架死を、生まれながらの人間本性の消滅点(バニシング・ポイント)と神が認めた。そして(生まれながらの人間を代表して死んだ)イエスを、神と調和して生きる人間として復活させた
 従って、イエス・キリストを信じる者は、生まれながらの肉である本性をイエスによって死んだものとみなされ、彼が現在生きておられる復活の命に生きることを許される。
 これは感謝してもしきれない恵みであるが、ここでは、復活の光によってしか十字架の救いを理解できない点を、しっかり押さえておきたい。