家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

集会の秩序

2023年9月3日

テキスト:Ⅰコリント14:20~40
讃美歌:499&191

                        (5)集会のための指示(11:2~14:40)
                         ③聖霊の賜物について(12:1~14:40)
 前回は、コリント教会で盛んであった「異言」と「預言」を取り上げ、同じ霊感による賜物=カリスマであっても、「預言」は「教会を造り上げるためには」勝っていることが語られた。今回はその続きである。
❻預言と異言(14:1~25)-2
 ここでパウロは突然、20節「兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください」と言う。これはどう言う意味だろう。後に彼はロマ書で「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした」(ロマ15:1~3)と書いている。つまり、集会で子供のように「霊の人」である事を喜び、夢中に「異言」を語って自分の霊を満足させる事を戒め、自分のことよりも他者に配慮し、互いの向上に努める大人らしい態度を求めているのである。
 そして21節、イザヤ書『異国の言葉を語る人々によって、異国の人々の唇でわたしはこの民に語る(=異言)が、それでも、彼らはわたしに耳を傾けないだろう』と主は言われる」を引用し、(本来の文意とは違うが)「異言」は、それを聴く者を反発させ不信仰に追いやる「徴」とする。実際、全員が異言を語っている状況は、門外漢には狂騒状態としか思えない。
 22節「このように、異言は、信じる者のためではなく、信じていない者のためのしるし」であるが、預言は「信じる者のためのしるし」であり、未信者に自分の罪を悟らせ、悔改めと信仰に導くとする。では、具体的に礼拝をどう行えばよいのか。
❼集会の秩序(14:26~40)
 26~33節前半「兄弟たち、それではどうすればよいだろうか。あなたがたは集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです。異言を語る者がいれば、二人かせいぜい三人が順番に語り、一人に解釈させなさい。解釈する者がいなければ、教会では黙っていて、自分自身と神に対して語りなさい。預言する者の場合は、二人か三人が語り、他の者たちはそれを検討しなさい。座っている他の人に啓示が与えられたら、先に語りだしていた者は黙りなさい。皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい。預言者に働きかける霊は、預言者の意に服するはずです。神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです」。
 パウロは、コリントの無秩序な礼拝を整えようと、具体的な指示をする。礼拝は、シナゴーグの礼拝形式に倣い、①讃美→②「教え、啓示」→③異言とその解釈、の順番でおこなわれるが、「すべてはあなたがた(エクレシア)を造り上げるため」、つまり教会形成を目指すことが強調される。
 まず讃美部分、「詩編の歌をうたい」とあるが、エペソ5:19に「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」とあるから、必ずしも詩篇に限らない。「賛歌をうたい」とする方が適切であろう。教え、啓示」は、現在の説教や奨励に相当する。「教え」は、(旧約)聖書の福音的解き明かし、「啓示」は霊感を受けた「預言」であろう。また、は、語られた福音に応答する祈りに相当するだろう。それも、一斉に大勢が異言を語ってはならず「二人かせいぜい三人が順番に」語り、それを解釈する者は一人に限られる。解釈する者なしなら黙るべきである。の「預言」も一斉に大勢が語るのではなく、二人か三人が順番に語るとする。それは礼拝の混乱を避けるためである。少数でも複数者の預言を認めるのは、「皆が共に学び、皆が共に励まされる」趣旨からであろう。また、「イエスはアナテマ(呪われた者)」という誤った預言があったように、人間の霊が語る預言は、神から来たものとは限らない。だから、必ず検討されねばならない。座って預言を聞いていた人に啓示が与えられたら、先に預言していた者は黙して預言することを次の人に譲る。これは、一人で独走しないためである。
 私達にとって重要と思われるのは、教職だけが語り信徒は聞くだけの現在の礼拝とは違い、「皆が共に学び、皆が共に励まされるように」工夫している点である。霊感が与えられた者は、それを語る事を求める。異言現象を伴うペンテコステ運動が爆発的に広がったのは、自由な応答すら抑制されている一般信徒の、霊感を語る欲求を異言が満たしたから、という見解もある。
 語るべきことを持つ説教者にとっては、その欲求は更に切実である。語るべき場を求め、作り出そうとする。私達の集会もそのようにして始まった。礼拝は、神からの言葉が中心である。語る者の霊感が衰え語れなくなれば、代わって別の者が語る。神からの言葉が、互いに「励まし、慰め」合う信仰の交わりを形成するのである。そうして、人間的絆(血縁、社会的繋がり、etc.)を超えた、聖霊による結びつき(聖徒の交わり)が目に見えるものとなる。
 実際には、誰もが語り出す礼拝形式は混乱を招く。だが、ブルンナーの「嵐の中の教会」では、牧師が説教の中で教会に通う理由を信徒達に尋ね、「死を超えた永遠への思いからです」との回答を得、信仰が永遠の命に関わるものである以上、ナチスの推進するユダヤ人教会追放令やドイツ的キリスト教に抵抗することは、命がけで戦うべき信仰の戦いであると説いた。そして、教会は霊に燃えたのであった。そうした呼びかけと応答のある説教や礼拝形式が工夫されていいのではないか。
 また、私達一般信徒も「一人一人が皆、預言できるようにしなさい」と命じられていることを忘れてはならない。キリスト者は決して単独の存在ではなく、「キリストの体」の一部である。エクレシア全体が一つのものとして、救いに与るのである。「霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求め」ねばならないのは、だれ一人欠けずエクレシアが一体となるためである。
 では、どうすればよいか。預言は、気ままな霊感追求から生じない。それは、神の言葉から来る。だから、熱心に聖書を読み、代々の聖徒達の信仰に学び、聖書の言葉を心に蓄えておくことが重要である。そうすれは、思いがけない時に「御言葉は光を放ち」、必要な助けを与え、進むべき道を示して下さる。エクレシアは、「御言葉によって望みを抱く」(詩119:147)者達の群れである。相互に励まし合う事ができねばならない。その為には、聖書を解き明かす教職者を育成し大切にすることが非常に重要である。それが、今の日本の教会に不足している。祈らねばならない。
 異教的(悪霊の)憑依は、理性を麻痺させ人間を引き回す。だが聖霊は、理性を活かして用い、霊感を語ることは「預言者の意に服する」。「神は無秩序の神ではなく、平和の神だから」狂騒状態を回避するのである。
 異邦人教会は、「主の晩餐」という密儀を中心とする宗教とみられ、ヘレニズム末期に流行した密儀宗教の一つと間違われて発展したという見方がある。しかしその本流は、旧約時代から続くイスラエルの信仰的伝統、「預言」である。信仰は、<神の言葉>から来るのである。
 33節後半~36節「聖なる者たちのすべての教会でそうであるように、婦人たちは、教会では黙っていなさい」以下は、問題となる箇所である。ここを根拠にして女性が教職の立場を追われていった。だが、パウロは「婦人のかぶり物」問題で触れたように、女性が「祈ったり、預言したり」することを認めている。それと、この「黙っていなさい」の違いは何か。
 結論から言えば、35節「何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい」から分かるように、「それはどういう事?」とか「そんなら、これはどうなるの?」などの、霊感のない感想や質問が、礼拝の流れを阻害するから止めてくれ、という意味に解釈する。異邦人の家庭婦人は、シナゴーグでの宗教教育もなく、職業経験からの知識もなく、家庭では女主人として振る舞っても実際には無知な人が多かった。だから、当時のローマ社会の「女は夫をさしおき公の場で発言しない」というマナーに倣い「教会の中で発言するのは、恥ずべきこと」と、たしなめたのである。
 37~40節は、この段落の結びの勧告である。「自分は預言する者であるとか、霊の人である」と自負する者は、パウロの述べた事を簡単に無視するだろう。だから、主から宣教を託された使徒として、自分の語ることは「主の命令」であると権威を示した。「預言」を勧め、「異言」も決して禁じはていない。聖霊の自由な働きを尊重するからである。最後に、霊的エネルギーは健全な理性によって統御されるべき事が、40節「しかし、すべてを適切に、秩序正しく行いなさい」で言われている。これが、異教的熱狂との違いである。現在の「異言」等を伴うペンテコステ運動も、(いたずらに反発するのではなく)その霊的活力が「理性においても実を結び」、エクレシア全体を益する為に用いられるよう、祈ろう。