家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

使徒に倣う

2023年5月7日

テキスト:Ⅰコリント10:23~11:1

讃美歌:234A&511

                    (4)教会からの質問に対する回答(7:1~11:1)
                          ②偶像に供えた肉の問題(8:1~11:1)
 4月30日は、第5週なので集まっての礼拝はなかった。10章1節から22節まではネットに掲載したもので読了済みとする。今日は、その続きから学んでいきたい。
 ネット掲載分で(1)イスラエルがエジプト脱出後40年間荒野を放浪したことが、エクレシア(教会)の此の世の旅路の予型であるとされた。エクソダスした「私達の先祖」は、洗礼や聖霊の導きにも比すべき海を渡り雲の柱に導かれるという驚くべき霊的体験をした。にもかかわらず、偶像崇拝という「悪をむさぼ」り、「彼らの大部分は神の御心に適わず、荒野で滅ぼされて」しまった。同じように、現在、キリスト者がどれほど霊的体験に恵まれていても、「悪をむさぼる」ならば道半ばで滅ぼされるのである。「(信仰に)立っていると思う者は、倒れないよう気をつけるがよい」。
 (2)偶像の神など存在しない」という霊的知識を持つキリスト者が、その知識に基づき平然と異教神殿の祭儀で飲食することは、単に食事を摂るだけに留まらない。物質である神像としての偶像や抽象的概念の裏には、神ではないが人間を超えた霊的存在(ダイモニオン)が潜んでいるのである。異教祭儀での飲食は、そうしたダイモニオン(悪霊)と交わりを結ぶ行為である。「主の晩餐」での飲食が、主と交わる霊的事柄であるように、異教祭儀での飲食も、そこに祀られる霊力=ダイモニオンと交わる霊的事柄だからである。神に仕える正しい霊は、黙示録の天使のように礼拝されることを拒む。そうでなく、礼拝をされようとする霊力は、神に叛く「悪霊」である。その事に気づかず、神ならぬ「悪霊」との交わり(偶像崇拝)に陥ってはならない。神はイエス・キリストにおいて人間に語りかけておられるのだから、イエス・キリストを唯一の主とする関係(交わり=コイノーニア)を堅く保持し続けなければならない。主の杯と悪霊の杯を両方を飲むことはできない。
 これは、飲食の交わりに限らない。内村鑑三不敬事件に見るように、相手を人間以上の存在として崇拝する行為(敬礼や、柏手を打つこと)は、同じく偶像崇拝とみなされるであろう。

            c.「偶像に供えた肉」を食べる危険と教会への指示(10:1~11:1)
 以上のように、霊的知識を誇り自由を駆使して異教祭儀で飲食する危険を警告したパウロは、改めて「偶像に供えた肉」問題を総括する。
(3)キリスト者の行動基準(10:23~11:1)
❶まず大前提として、「全てのことが許されている」と、繰り返し強調する。主の死によって、肉に死んだものとされ、因果応報の罪と死との法則(律法)から解放された事を堅く信じるべきである
 しかし、イスラエルがエジプト脱出後荒野を彷徨ったように、いまだ肉にあって生きている以上、まだ(救いの完成への)途上であり、肉の欲望や神に逆らう霊力からの誘惑や攻撃にさらされる試練の中にあり、不信仰な文化や社会に囲まれてエクレシア=キリスト者達は生活している。
❷だから、肉の誘惑や敵の妨害が存在しないかのように自由に振る舞うことは危険である。「しかし、全てのことが益となるわけではない」し、「全てのことが私達を造り上げるわけではない」。(「造り上げる」とは、信仰的進歩を遂げさせることと一応解釈する。)
❸では、どのように振る舞うべきか。それが24節「自分の利益ではなく、他人の利益を追い求める」ことである。パウロは、これをキリスト者の行動基準として示している。
 具体的には、単に食材として市場で販売されている肉は、いちいちそれが「偶像に供えた肉」かどうかを気にせず自由に食べて良い。物質である食物そのものが汚れているわけではないからである。パウロはそれを「地とそこに満ちているものは、主のもの」という詩篇24:1を引用して根拠づけている。上記❶を応用。
 また、異教徒から宗教的祭儀ではない宴会や食事会に招待されたら、そこで出されたる肉も同じく自由に食べてよい。
 だが、そこに食物規定を気にする人(ユダヤ人や霊的知識を持たないキリスト者)が同席していて、その人が「これは、偶像に供えた肉です」と、注意してくれた場合の対応が問題となる。(現在は、食物規定を守っている人とそうでない人が同席する食事は殆どないが、ヘレニズム社会では、それが日常だったのである)。パウロは、その場合、注意してくれた「その人のため、また良心のために食べてはいけない」と言う。「良心のため」というのは、自分の良心ではなく、注意してくれた人の(小心な)良心である。自分が感謝して食べている物につき、他人の良心で判断される必要はない。しかし、注意を断りあるいは無視して食べた場合、注意してくれた<食物規定にこだわる人の良心>が刺激され、混乱し、誘われて信仰的確信がないままに<汚れた>肉を食べてしまうかも知れない(肉は滅多に食べられない御馳走だから)。それでは、その弱い兄弟を躓かせる事になる。そうでなくとも、その人の良心に試練を与える事になる。そのくらいなら、肉を食べる自由を捨て、その人に付き合って食べないという霊的自由を行使すべきである。そうすることが「自分の利益ではなく、他人の利益を追い求める」態度である。
 31~32節「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。ユダヤ人にも、ギリシャ人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい」。
 これはなんと面倒なことだではないか!日常の飲食や生活において、いちいち「神の栄光を現す」にはどうすべきか考えてはいられない。また、異教徒にもユダヤ人にもキリスト者仲間にも(即ち、全ての人に対し)全方位で躓きとならない態度をとれと言われても非常に難しい。従って、いつも自分を無にして他者に仕えようとする生活態度を身につけ習慣としておかねばならない。結局、「だれに対しても自由な者」でありつつ「すべての人の奴隷」となる生活態度である。
 ここで「神の栄光を現す」とは何かを考えてみたい。キリストは「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」ことにより、神の栄光を現された。主の救いの御業である十字架と復活を、キリスト者達が模倣することは勿論できない。だが、一滴の水でさえ太陽を反映し輝くように、自分の置かれた場所と時間において自分なりに主の卑下と謙遜に倣い、主の御業を映し出すことはできる。キリストが「おのれを低く」され神と人に仕えられたように、キリスト者自分を低くして(無にして)神と人に仕える事が「神の栄光を現す」ことではないだろうか。これは、自己追求する人間性には困難である。だがパウロは、33節「わたしも、…、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから」と語って、キリスト者を励ましている。
 また、32節で「ユダヤ人にも、ギリシャ人にも、神の教会にも」と、「ユダヤ」、及び異邦人全体を表す「ギリシャ」と並び、第三の人類として「神の教会」を挙げている点に注目したい。キリスト教は、周辺社会からはユダヤ教と同じ神を崇め、ユダヤ教の一派と考えられていた。だが、キリスト者(エクレシア)自身の意識では、ユダヤ人と異邦人双方から区別される民族的宗教的区別を超越した一つの共同体神の教会」として自らを認識しているのである。キリストの中へとバプテスマされた者は、キリストの身体として一体であるという意識である。しかし現在においても、(教会の中でさえ)各種の対立や差別、争いや戦争が存在する。私達は、個人の救済を超えて全世界が主に結ばれて一つとなる神の国の到来を、切に待ち望み祈り求めねばならない。
 以上、「偶像に供えた肉」問題を締めくくるに当たり、パウロは再び自分を模範として示す。11:1「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」。これは単なる自負ではない。彼は自分の神への熱心が、キリストを知ることによって打ち砕かれた体験をしている。キリストにひれ伏し自分を明け渡した人間であるパウロに、聖霊が働き「キリストに倣う者」とされた事を深く自覚している。だから、自分を主に委ねきった人間としてのわたしパウロに倣う」ことを勧めるのである。そうしてこそ、ここで述べられたキリスト者の行動基準を満たす力が与えられるのである。
 だから私達も臆することなく大胆に主を信じ、神と人に仕える道を歩んでいきたい。