家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

地上の神殿であるエクレシア

2022年11月27日

テキスト:Ⅰコリント3:10~23

讃美歌:333&355

                (2)コリントにおける分派活動との戦い(1:10~4:21)
                      b.福音と世の智慧との衝突(1:18~3:23)
                                            
 前回、パウロはコリント教会に生じた分派争いが、彼らの霊的未熟さに起因する事を指摘した。人間的智慧や悟りによって救済を得ようとすることは、神との愛の交わりを拒否し、神を自己追求の手段とする肉の働きなのである。御霊の賜物である霊的論理(ロゴス)や知識(グノーシス)の優劣を競い、アポロ派やパウロ派などに分裂することは、集会(エクレシア)が神に属する存在(畑)であることを忘れている。(イザヤ書5:1に「葡萄畑についてのわが<愛>の歌」とあるように、イスラエルは神が慈しみ育てる葡萄畑に譬えられている)。すなわち、集会(エクレシア)は、自分自身のものではなく、神に愛され神を愛する相互の交わりための存在なのである。
 この畑を養い育てるために、神はパウロやアポロなどの人間を用い、彼らという僕達を通して働かれる。だが、土である人間から永遠の命に生きる神の民を創り出し成長させるのは神である。このように「あなたがた=コリント教会」は神の畑である、と述べた。また、続けて彼らを「神の建物」に譬えている。
 今回は、エクレシア(教会)が「神の建物」であることについてである。
⑤分派活動についての再度の反論(3:1~23)-2
 現在では、教会(church)という言葉は普通はそのまま教会という建築物(建物)を表現する。同時に、私達が知っているような「○○教会」という具体的な人間的組織であり、直ちに普遍的な「公同の教会(生者も死者も天使らも含む宇宙規模のエクレシア)」を思い浮かべる事はあまりない。だが本来、教会=エクレシアとは、建築物や個々の組織ではなくイスラエルのような全体としての「神の民=神の国」を意味するのである。
 一方、ユダヤ教において、地上において人間が神に出会う場所は「エルサレム神殿」に限られていた。捕囚の民に神が留まられたような神のシェキーナはあっても、エルサレム神殿こそは地上での神の住処であった。(だからこそ、散らされたディアスポラユダヤ人達はあんなにもエルサレムに憧れ、都詣での詩篇が多く残されているのである)。各地のシナゴーグは、基本的には宗教的教育の場であり、神の住処ではない。コリント教会でも安息日などの集会を、シナゴーグの延長のように考えた人々が多かったであろう。結局は人間的集りなのだから、信仰観が同じ者同士で集まって別々に礼拝しても差しつかえないという気持ちだったのではないだろうか。ところがパウロは言う「あなたがたは神の建物である」。神の建物とは、地上での神の住処「神殿」を意味する。神が、コリントのこの具体的な集会を、地上での神の住処、すなわち神殿とされている、と言うのである。(ユダヤ人達が「民と律法とこの場所(エルサレム神殿)を無視する」行伝21:28とパウロを非難したのは、あながち間違っていない。律法と神殿儀式を重んじた熱心なパリサイ人パウロは、ダマスコ体験により、イエス・キリストによる神からの義を知って、律法や神殿儀式から完全に解放されたのであった。)
 教会は、シナゴーグのように各人の自発的集会ではなく、キリストが御霊を注いで呼び集められた「集会」であり、主催者は主である。また集められる者達は、一つの御霊が形成するキリストの肢体達である。従って、人間のための組織ではなく、神が臨在するための組織(集会)として、「神殿」に譬えられる。個別教会および信徒は、神殿の石組みを構成する部分である。
 10節「わたしパウロは、神から戴いた恵みによって、熟練した建築家のように<土台>を据えた」。この神殿の土台は「イエス・キリスト」である。「熟練した建築家のように」というのは、細心の注意を払って、ユダヤ教イエス・キリストではなく、ユダヤ民族の枠を超越し、律法と神殿儀式から完全に解放された、新しい組織(民)として「キリストという土台」を据えたからである。実際、キリスト者となるためにはまず割礼を受け、ユダヤ人になる必要があると考えるユダヤキリスト者がいたし、またそのように考えなくても反ローマ民族主義者を刺激したくないエルサレム教団の思惑もあった。だからパウロは、このような「律法から解放され自由を得させる土台」イエス・キリストを据えるために、アンテオキア教会などの組織から援助や支援を受けず、同志シラスらと共に、完全に独立独行し、自ら生活費を稼いで伝道活動を行って来たのである。ユダヤ人・異邦人双方から激しい迫害を受けながら、教会を設立してきた。コリントでも、そのようにして「イエス・キリストという土台」を据え、教会を生み出したのである。だから、他の伝道者達より一段と高い創設者の立場にある。だが彼は、それを誇らず「神から戴いた恵みによって」の句を、謙遜に付け加えた。
 ところで、パウロが建てた教会に加わりキリスト者となった人々は、殆どが異邦人であり、聖書の専門教育どころかイスラエル信仰の伝統すらもっていなかった。熱心な中心的メンバーのほか、巡回伝道者達が多く訪問して彼らの指導に当たったのである。10節後半「そして、他の人(アポロや他の伝道者達)がその上に家を建てています」とは、この状況をいう。つまり、アポロや他の奉仕者(指導者達)が教会を育成することが、土台の上に家を建てる事に例えられている。
 「既に据えられた土台イエス・キリスト以外の土台はあり得ない。だから、その土台にふさわしい(教会)を形成する事が、奉仕者(指導者達)の任務である。教会は時代や文化環境に合わせた制度や教説で育成される。それらが、ただ世の状況に合わせただけのものなら、世と共に過ぎ去って残らない。だが、真に福音にふさわしい制度や教説は①終末の、また②歴史の試練に耐えて残る。(パウロは終末が切迫していると信じていたから、①の終末の意味合いが強い)。これが、「火によって試される」の意味である。
 このように、奉仕者(指導者達)はその任務に対し重い「責任」を負っている。彼らの仕事が試練に耐えるか否かが評価され、成果に応じて報酬または罰をも受けるのである。彼らの仕事を評価されるのは神である。だから、教会が彼らの働きを先走って評価し、特定の指導者の派閥を作るなど、神を無視し自分の判断を優先させる行為である。
 16・17節「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊すものがいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう」とは、コリント教会という「組織=集会」が「神の神殿(単数形)」であると言っているのであり、信仰者個人が聖霊の宿る宮だと言うこととは話が別である。アンダーラインした「自分」および「自分達」は、どちらもコリント教会という組織(集合体)を指している。キリストの御霊によって形成される交わりの場、それがエルサレム神殿に代わって神の霊が住み給う地上の「神殿」である。如何に少数で、かつ無力な人々の群れに見えても、地上でキリスト信仰による共同体が形成されるのは教会=エクレシアの外にはない。この個々の具体的なエクレシア(信仰共同体)が、神が世界に働きかける拠点であり、神の国の地上での出先機関である。その拠点を分派争いで分裂させることは、神殿破壊である。神は神殿破壊者を罰せられるであろう、とパウロは厳しく戒めている。
 18節「だれも自分を欺いてはなりません」以下は、悟りや人間的智慧によって自力救済し得るかのように思い違いしないように、神的智慧に立ち返って戒めているのだろう。引用聖句は、ヨブ記5:12/13および詩篇94:11から、用語を自由に変更して引用したものである。パウロが、旧約聖書を熟知し自由自在に用いる様子は、福音書の「神の国を学んだ学者」を思い起こさせる。
 最後に、エクレシアは神の経綸の目標であるという観点から、一切(指導者達も、世界も生も死も、今後生起する様々な事象も)すべてエクレシアの為のものという。だがエクレシアも、エクレシア自身のものではなく、キリストのものであり、全体が一つの身体としてキリストに属するのである。そして、キリストも神のものである。こうして、神と、キリストと、彼に属する全被造物が、愛の交わりに結ばれる神の国(神の支配)が形成される。神の国の完成は終りの日に到来する。だが、すでに今、この地上で、具体的な個々のエクレシアの形で、神の国(神の支配)が世に進入を開始しているのである。