家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

教会への使徒の熱愛

2022年12月11日

テキスト:Ⅰコリント4:1~21

讃美歌:39&388

                (2)コリントにおける分派活動との戦い(1:10~4:21)
                               c.コリント教会と使徒(4:1~21)                                            
 手紙の冒頭から取り上げてきたコリント教会の分派問題は、根本において霊的賜物(ロゴスやグノーシス)を誇る肉の働きであり、十字架の言葉である福音と鋭く対立する事が今まで述べられて来た。当時ヘレニズム世界に流行していた哲学や宗教は、個人が凡俗を超えた特別な知識(グノーシス)を得、それによって得た智慧(ロゴス)により生老病死を超越する境地に至るというものであった。入信してきた異邦人の中には、キリスト教の真理をこうした知識(グノーシス)として間違って理解した者もいたであろう。注がれた御霊に熱狂し、忘我的境地に入り異言まで語ったとなると、我こそは悟りの境地に達した人間だ、と思い上がってしまう。おまけに、パウロは律法からの解放を強調したから、霊的に未熟な異邦人キリスト者は「(悟りに入った)自分達にはなんの束縛もなく、一切が自由だ」と思い違いする者がいた。だから、自分を信仰に導いたパウロや指導者達まで、一段上の境地からあれこれ批評したりするのである。分派争いの根底には、この思い上がりと、反抗期の子供が親に感じるようなパウロへの反発があったのだろう。だがそれだけでなく、Ⅱコリント書に出てくるパウロに批判的なユダヤキリスト教指導者達の策動があったようだ。
 パウロは3章で、個々の使徒や指導者を引き合いに出すことの愚かさを指摘し、神の畑の譬えで「しかし、成長させて下さるのは神である」と、指導者達は神の畑で働く僕達に過ぎないとした。では、指導を受ける立場の教会(エクレシア)は、使徒や指導者をどのように見、どのように接するべきであろうか。今回は、それについてである。
パウロに対する批判(4:1~5)
 1節~2節「このようなわけで、私達をキリストの奉仕者、また神の奥義の管理人とみなすべきである。ところでこの場合、管理人に要求されているのは、忠実であるということである」。
神の奥義の管理人>とは、主人の財政(この場合、神の奥義)を一手に管理する家令のことである。例えば、(ベン・ハーの)「ハー家の家令シモニデス」等を思い浮かべると良いであろう。主人に対しては奴隷であっても、主人の財産を任され、その家の使用人達を一手に差配する。配下の者達から批判を受けないのは当然として、主人以外の権威には、ユダヤ人であれ、ローマ人であれ(例え皇帝でも)、一切従おうとはしない。そのように、キリストのみを主と仰ぐパウロは、コリント教会からの批判は勿論、ローマ官憲やユダヤ教権威、他のキリスト者達からの糾弾をも、全く意に介さない。それどころか3節後半「自分自身をも決して裁かない」。3章後半で述べたように、奉仕者(指導者達)の仕事を評価されるのは主であり、その権威と資格を持つのは主以外ないからである。だから自分にやましい事はないからといって、それで神から義と認められる訳ではないことも知っている。パウロら神の僕達を評価されるは神であり、人間ではない。
 5節「だから、主が来られる時に先立って、何事についても判決を下してはならない。主は闇の中に隠れていることを明るみに出し、心の中の企てを露わにされるだろう。そしてその時、めいめいが神から賞をうけるであろう」。<心の中の企て>とあるが、心の動きは他人から分からないだけでなく、自分でも意識しない動機が潜んでいる場合がある。主は、それすらも把握しておられる。
主は、神を代理する審判者として僕達に判決を下される。そしてその判決どうりに、最後の審判者である神御自身が、パウロら<神の奥義の管理人>達を賞としての救いに入れてくださるであろう。
②コリントの人々の思い上がりと使徒の患難の対比(4:6~13)
 6節「あなたがたのためを思い、私自身とアポロとに当てはめて、このように述べてきた」とあるのは、一人の指導者を担いで他を貶めるコリント教会の人々の間違いを指摘するためである。神の奉仕者としてパウロもアポロも(一人は植え、一人は水を注いだ)一体であり、それぞれ別々に評価されるべきではない。畑(教会)は、耕作を受ける側としての自らを弁え、思い上がって畑で働く者(指導者)の仕事をあれこれ評価すべきではない。7節以下で述べているように、コリントの人々が誇るロゴスやグノーシスの賜物は、そもそも神から受けたものである。それなのに、最初から自分が持っていたかのように思い上がって、神の奉仕者パウロやアポロ)を上から目線で評価するとは何事であろうか。
 8節以下は、コリント教会の思い上がりへの痛切な批判である。「お前達は、既に完成し、世界を超越した境地に入っているとでも思っているのか!」。聖霊によって恍惚となり、ロゴスやグノーシスという賜物を受けたからと言って、既に「メシアと共に支配する」神の国に入ったのではない。最後の完成である「成就した神の国」に、他人を差し置いて先に入ったかのように勘違いするな。ああ、それ(神の国の完成)が既に到来しているならどんなに良いだろう。それなら、お前達コリント教会の人々と共に、(宣教した)この私も神の国に入ることができただろうに!
 だが9節以下、それとは対称的な使徒の苦難が語られる。コリント教会の人々は、法悦の境地を得て満ち足り、尊敬を受け自由に振る舞っている。一方(彼らに福音を伝えた)パウロ達は、人々の批判に曝され、飢え渇き、虐待され(殴られ、石打ちや鞭打ちを受け、暴力的に追われつつ)、伝道の旅を続け、苦労して自分の手で稼ぎ(おそらく、午前中は日雇いテント職人として働き、暑さで休憩すべき午後から会堂などで教えたのであろう)、侮辱されては優しい言葉で福音を語っている。誇り高い古代人の目から見れば、全くの卑屈、最下層の人間のようである。
 だが、キリストの使徒としての姿は、このような苦難と卑賤さのなかに現されている。主の御生涯が、その働き人らの生涯に繰り返されるのである。地上のイエスが、枕するところなく旅し宣教されたように、伝道者も宿無しである。主が飢え渇かれたように、彼らも貧窮のなかに暮らす。智慧と力と栄光ではなく、十字架の苦難と愚かさと労苦の中に、アガペー(愛)としての御霊が力強く働くのである。「わたしが弱いときにこそ、わたし(に働く主の力)は強い」。
③教会に対するパウロの愛(4:14~21)
 これを聞かされたコリントの人々は恥じ入った事であろう。だが、パウロは愛児を諭すようにこれらの事を語ったのである。アポロやその他の養育係が例え一万人いたところで、父親は唯一人である。(普通、古代の養育係は、敗戦国の捕虜などであり、教養があっても身分は奴隷であった。)福音を通し、キリスト・イエスにあってコリント教会を生み出した父親は、パウロである。親が子を叱るのは、それだけ愛し期待するからである。実際、まだ知り合っていないローマ教会宛の手紙(ロマ書)よりも、手こずらされて嘆きつつ記されたコリント書のほうが、教会への使徒の熱愛が深く伝わってくる。生み出しただけでなく、育てる為にも使徒は心を砕くのである。
 パウロは、主の僕としての労苦と苦難の道を歩んでいるのだから、次の驚くべき言葉も決して傲慢ではない。16節「わたしに倣う者になれ」。福音を世に伝えるために労苦し苦難するパウロに倣えとは、決して道徳的な行いの手本ではなく、キリストに結ばれて一体となる「愛の交わり」の見本を示したのである。主が、律法を守り得ない貧者、病人、罪人に近づき、彼らを愛し命を捧げられたのであるから、キリスト者も、主の御心に従って(主の為に)、物質的霊的に貧しい人々に福音を伝え、また、その為に労する人々(使徒・伝道者達)を支え仕えるのである。
 17節は、テモテを派遣することを伝える。それは、「至る所の全ての教会でわたしが教えているとおり」の「キリスト・イエスに結ばれたわたしの道(生き方)」をコリント教会に思い起こさせる為である。それは、コリントの人々が思い違いしたような、霊的に解放され他者から独立した自由な生き方ではなく、御霊によって肉の欲を抑え、愛をもって他者に仕える道である。
 最後に、教会を生んだ父親・使徒としての権威を持って「あなたがたが望むのは、どちらか。わたしが(処罰の)鞭を持って行くことか、それとも愛と柔和な心で行くことか」と戒める。使徒がその為に労苦し願うことは、信徒各人が法悦の境地に達することではなく、エクレシア(教会)が一つ心に結ばれ、従順な「身体」として首である主に仕える事だからである。

 「霊に燃え、主に仕える」境地とは、心が喜びに溢れた状態をいうのではない。更に進んで、パウロのように苦しみ悩みつつ激しく戦う生き様なのである。パウロが「神の国の奥義」を託された使徒であったように、私達が出会う伝道者・牧師・その他の奉仕者達も、それぞれ福音の任務を託された者として、主から十字架の苦難と重荷を与えられている。彼らを支え、その働きの為に祈り、そのようにして微力なりとも主の戦いに加わるキリスト者でありたい。