家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

「主の晩餐」について

2023年6月4日

テキスト:Ⅰコリント11:17~26

讃美歌:140&263

                        (5)集会のための指示(11:2~14:40)
 前回は、女性は「祈ったり、預言したりする際に」頭にかぶり物をせよ、という箇所を取り上げた。これは、キリスト教女性霊能者が聖霊による霊的高揚を異教の霊的憑依状態と区別できず、異教の霊的憑依状態の徴である「振り乱した髪」を模倣したことを戒めるためであった。異邦人伝道には、宗教的文化の違いからキリストの福音がイスラエル信仰伝統から外れて歪んで伝わる危険がある。「福音の土着化」を唱え、もし牧師が神社の神主や仏教の僧侶のスタイルで説教すれば、神社崇拝や仏教的精神の上にキリスト教を付け加えるような結果を招きかねない。たかが髪型や身なり、とはいえない。あくまでも「(旧約)聖書に証された」つまりイスラエル信仰伝統を踏まえた福音、として伝えられねばならない。しかし時代や文化は移り変わっていく。聖書もそれが記述された時の歴史的状況を踏まえ、示された内容を現在において読み取る努力が必要である。
 また、重要な段落である「主の晩餐」についての箇所に入った。現在は「聖餐式」として儀式化されているが、元来は食卓の席での復活顕現を想起する「食事会」であり、礼拝の中心だったこと、コリント教会の人々がそれをバラバラのグループで分裂して行っている現状を、パウロが「あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いている」と叱責したことを学んだ。今回はその続きである。

                          ②「主の晩餐」について(11:17~34)
コリント教会の集会の在り方についての叱責(11:17~22)-2
 コリント教会の仲間割れを、前回は22節「貧しい人々に恥をかかせようというのか」から、貧しい者や身分の低い者への上流市民階級の差別だったと推測した。それが一番ありそうな原因であるが、それだけではなく、今まで述べきたようなリベラルで(強い)キリスト者と、霊的知識に乏しく食物規定にこだわるような(弱い)キリスト者との分裂や、アポロ派やパウロ派といった指導者を旗印とした分派もありそうである。要するに、同じ場所に集まりながら、貧富の差やそうした様々の理由で、分裂して礼拝している有様が目に浮かぶ。
 パウロは、22節「あなた方には飲み食いする家がないのですか」と、気の合う同士の食事会なら礼拝とは別に自宅で行えと言い、「神の教会を見くびり」主にあって一体となるべき礼拝で、貧しい者や身分の低い者を差別し無視することを叱責した。
 そして、伝承された「主の晩餐」のあるべき姿を23節以下から語り出す。ここは聖餐式の度毎に朗読される箇所だから殆ど暗唱できるだろう。
「主の晩餐」の制定(11:23~26)
①「わたしがあなたがたに伝えたことは、私自身、主から受けたものです」。パウロが集会の中心として伝えた「主の晩餐」は、彼の独創ではなく伝承された事である。実際に誰から伝承されたかと言えば、おそらく洗礼を受けたダマスコ教会(アナニアから洗礼を受けた)か、永年働いてきたアンティオキア教会であろう。そこにはエルサレム教会から派遣されたバルナバらがおり、確実に最初の教会からの伝承である。しかし、パウロは「わたし自身、主から」と、主から直接受けたように表現する。ダマスコ体験で、顕現された主から直接受けたわけではない。しかし、主から宣教を委ねられた「使徒として、彼の伝える事は主が直接伝える事に等しい。だから、「聞くところによれば」のような伝聞としてではなく、明確に「主から受けた」と、伝承の権威を示す
②「すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしを記念してこのように行いなさい』といわれました」。主は、最後の晩餐の席において、御自分が死に引き渡されるのは、「あなたがた=弟子&信仰者」を死と滅びから解き放つためであることを思い、同席の弟子達(信仰者達)への愛によって御自分を励まされた。(ヨハネ13:1「己が時が来たれるを知り、世に在る己の者を愛して、極みまで之を愛したまえり」。)
③「これは、あなたがたのためのわたしの体である」とは、信仰者を罪と死から解き放ち、新しく神との交わりに入らせる為に、主のお身体が「裂かれ=暴力的な死を受ける」ことを意味する。エジプト脱出の際、羔羊の血によって死の天使がイスラエルを過越たように、神の断罪と裁きから信仰者を過ぎ越させる(免れさせる)、真の「過越の羔羊」としての自覚と覚悟が示されている。十字架刑は斬首のような流血の処刑ではない。だが25節に「わたしの血」とあるのも、喉を掻き切られる過越の羔羊を、御自分の死に当てはめておられるからである。 
 「わたしを記念してこのように行いなさい」とは、信仰者達が死と滅びを脱し、新しい神との交わりに入れられたのは、実に、主の死>によってである事を記念して行えと言う事であろう。「主の死」は、霊の身体に復活する前提であった。信仰者は、洗礼に象徴されるように過去の「主の死」に与る事により、肉に死んだとされ、罪と死から解放された。そして「主の復活」に与るという将来の「救いの完成」を目指し、この世を旅する途上にある。過越の食事が、エジプト脱出を記念し繰り返し行われたように、罪と死(神の裁き)を脱出した記念として「主の晩餐」を繰り返し行えと、命じられたのである。
 だから、過越の食事が神の救いを記念し信仰を新たにする行事であったように、「主の晩餐」も、このように大きな神の救い(主の死)を記念する信仰告白として、この世にある教会が繰り返し行うよう主が命じられた行事である。
④25節「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」とは、モーセ契約が動物の血によって締結されたように、イエスの血が神とエクレシア(新しい民)との間に、モーセ契約を超える(エレミアが預言した)新しい契約を締結させる、という意味である。(誓言が血で確証されることは、東洋においても同じであり、押印に用いられる朱肉も、元々は血から由来する)。
⑤26節「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、<主が来られるときまで>、主の死を告げ知らせるのです」は、伝承ではない。パウロが付け加えた「主の晩餐」の意義である。 過去である「主の死」の意義を現在において信仰告白する事は、将来の「主の再臨」を待ち望む忍耐と希望の信仰告白だからである。まだ肉にあるこの世で、教会は繰り返しこの信仰に立ち返り、救いの完成を目指す旅路の糧とし、同時に周囲の世界へ福音を「告げ知らせる」のである。
 だから「主の晩餐」は、「主の死」を救いの出来事として記念するキリスト=イエスへの信仰告白であり、礼拝の中心となる。パウロはすでに10:16&17「私達が神を讃美する讃美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。私達が裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、私達は大勢でも一つの体です。皆が、一つのパン(主の体)を分けてたべるからです」と語っている。「主の晩餐」は、仲間との交流を深める食事会ではなく、主の死と復活の効力を自分とエクレシアに体現する霊的象徴行為である。
 「主の晩餐」は、現在は聖餐式として儀式化されているが、その意義は、上述した「主の晩餐」にほかならない。主イエスは引き渡される夜、「あなたがたとこの過越の食事をすることを切に望んでいた」(ルカ22:15)と語られ、厳かに「わたしを記念するため、このように行いなさい」と命じられた。聖餐式は魔術的儀式ではないし、用いられる食材(パンと葡萄酒)も物質に過ぎない(化体説には同意できない)。だが、「主の晩餐」として飲食する事は、主の死と復活という救いを告白し、周囲の世界へ告知する霊的行為であり、主が命じられたことである。単なる儀式として軽視すべきではない。与る毎に、主の死による解放を感謝し、救いの完成を目指す決意を新たにしたい。
 なお、次の27節で「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります」とある「ふさわしくない」者とは、不道徳的で愛に欠けた罪人、という事ではない。もしそうであれば、良心的な人は誰も聖餐に与る事はできない。むしろ自分の罪を「この死の体より我を救わん者は誰そ」と嘆き、「我らの主イエス・キリストによりて神に感謝す」(ロマ7:24&25)とキリストによる救いを深く感謝し、主に自分を献げる信仰をもって、霊的行為としてパンと杯に与ることが、「ふさわしい」態度である。今日はここまでとする。