家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

最初の弁明Ⅵ キリストの愛に迫られて

2024年4月7日

テキスト:Ⅱコリント5:11~17

讃美歌:261&361

                                 コリント人への第二の手紙
                                      A.最初の弁明
                                            
 前回パウロは、自分を含めた信仰者達が復活に与るに「ふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです」と語った。弱い「土の器」である自分が、「絶えず死につきまとわれ」る危険の中で、かくも力強く宣教の業を為し得たのは、キリストの御霊である聖霊が彼の中にあって働かれるからである。
 キリストは、まだ肉にあるこの現世においてかくも彼と堅く結びついておられる。だからいつも心強くはある。だが、「体を離れて」復活前の裸の霊魂として(パラダイスで)「主のもとに住む」ことがむしろ望ましい。しかし生死を問わず、「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」と自分の内面を吐露した。そして、人生の真の姿は終りの日と裁きで明らかになると述べた。
 ここからは、コリントの人々に自分の宣教を受け入れるよう迫っていく。
(12)キリストの愛に迫られて(5:11~15)
 「11主に対する畏れを知っているわたしたちは、人々の説得に努めます。わたしたちは、神にはありのままに知られています。わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います。 12わたしたちは、あなたがたにもう一度自己推薦をしようというのではありません。ただ、内面ではなく、外面を誇っている人々に応じられるように、わたしたちのことを誇る機会をあなたがたに提供しているのです。 13わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。 14なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。 15その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。
 キリストの裁きの座で一切が明白になる事を思い、使徒は宣教対象者達が今、自分達の説得を受け入れ信じてくれるように努力する。神は私達が真実を語っている事を知っておられるけれど、コリント教会のあなたたちも、私達が語る事をありのまま素直に受け入れて欲しい。
 これは、自己推薦ではない。使徒たるの資格は外面的な徴や人を驚嘆させる能力ではなく、内面的なキリストへの献身と服従である。外面的資格を誇るような人達に対し、パウロ達がしてきた、誰の援助もなく、すべての人に逆らって自活してまで独立伝道するというような、自分を顧みないキリストへの献身をこそ、コリントの人々は評価し誇りとすべきである。
 13節の「正気でない」という言葉は「エクスタシー」の語源になった言葉で、本来は「(自分自身の)外に出た」とか「(自分を)脱した」とか、通常の意識や理性のコントロールが外れた忘我状態(我を忘れた状態)をいう。マルコ伝3:21にイエスが悪霊追放をされていると、身内の人達がイエスが「気が狂った」と思って取り押さえに来たという記事がある。この「気が狂った」と訳されている言葉である。だから、13節でパウロは、自分が「気が狂った」忘我状態であるとすれば、神によるのであり(14節で「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立ているから」といっている)、また「正気なら」、理性的論理や常識を用いて何とかしてあなた方を説得しようとするからだ、と言っているのである。
 すべての人間の具体的な罪(神への反逆)の責任の一切を、一人のイエス・キリストが代理して担ったと言う事は、落ち着いて冷静に受け入れられる事ではない。担われた者の自我は吹っ飛び、そこまで徹底的に自分を捉えた神の権威と愛に畏怖し従う以外なくなってしまう。これがパウロの云う「気が狂っているなら、それは神」という言葉の意味である。そして、この事態を何とかして他の人間に伝えようと情理を尽くして説得しようとしている。「正気であるなら、それはあなたがたのためです」。パウロを、こうした我を忘れ自分を顧みない行動に駆り立てるのは、14節「キリストの愛がわたしたちを駆り立てているから」そうせざるを得ないのである。
 生まれながらの人間は、自分の存在が何に所属し支えられているか知らない。虚空に浮かぶような不確かさと不安から、自分を支える支点を追求しようとする。健康や他者からの肯定、夢中になれる仕事や理想・自然的宗教など。だが、根底は自己追求であり、それらを求めるのは自分の為である。ちょうど自分の襟首を掴んで持ち上げようとしても駄目なように、自分で自分を支えることは不可能なのである。人間を愛において創造された神に支えられて、人間は自分と世界を肯定し受け入れることができる。原罪とは、神を無視し独立した自分であろうとする人間の自己中心さではなかろうか。
 とはいえ、私達自身そのような自己本位の存在でしかあり得ない。肉にある限り神に叛くアダムの末裔であり、死に定められた者として生まれついている。「罪を犯した魂は必ず死ぬ」(エゼキエル18:3)。
 だから、14節「一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだ」とは、恐るべき言葉である。神と一致した一人の人間イエスが、すべての自然的人間(土のアダムの末裔)に代理して、肉の身体と霊魂を死に渡された。これは神が御自分のものである人間を御自分に取り返すための自己献身であり、独り子イサクを屠ろうとしたアブラハムの犠牲によって、僅かにたとえられる大御業である。神は、神に叛く自然的人間が当然受けるべき罰と呪いである死を、イエスに代理させ、彼の死をもってすべての人間の罪の死とされたのである。
  15節。「その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」。イエスの死を、自分自身の死と受け入れた者は、それ以後はイエス・キリストの復活の命に生きる。彼と共に死に、彼の復活の力に巻き込まれ、彼の命である聖霊が現在の肉の身体に注がれ、霊魂はその命によって新しく生き始める。もはや自己追求の必要はない。神がその人を捉え、キリストに属する神の子供として受け入れ存在を支えて下さる。パリサイ人パウロ神への熱心ではなく、神の人間への熱心がキリスト・イエスにあって彼を捉えたのであった。これを知った時、パウロは自分自身の「外に出た」または自分を「脱した」。すなわち「キリストの愛」に迫られ駆り立てられて「気が狂った」ように、「自分たちのために死んで復活してくださった方のために」宣教の業を開始したのであった。
 私達は使徒でも伝道者でもない。信仰共同体(エクレシア)各員には、それぞれ賜物=カリスマや任務が分けて与えられるのであるから、全員が教職や伝道者に召されるわけではない。だが、「もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きること」には、全員が与っているのである。それは何という幸いだろうか。自分の為に生きるのは本当に辛い。自分で自分を評価しようとしても、「何の為に生まれてきたのか!」と嘆くほかない。だが、私達を愛し「その独り子をさえ惜しまなかった」神に支えられ、私達を愛し「死んで復活してくださった方」に喜ばれるように生きることは、感謝し尽くせない幸いである。まことに、「生においても死においても、私達の情け深い主イエス・キリストのものである事」は、キリスト者の「唯一の慰め」である。
 しかし一方、パウロが「正気であるなら、それはあなたがたのため」と言っている事にも留意したい。異教徒や政治的文化的環境の違う人々にイスラエル信仰伝統から発した福音を伝える為に、パウロは当時のヘレニズム的文化に応じた用語や常識を用いて説得しようとした。できる限り、「すべての人にはすべての人のように」なって、「何とかして一人でも」得ようとしたのである。私達も、他の宗教者や主義主張の違う人々と共に生きている。異質な他者との社会生活の中で、福音を証する「主に喜ばれる事」が何かを、常に追求していかねばならない。ここに社会的常識や論理的理性をよく用いる必要がある。
(13)新しい創造(5:16~17)
 「16それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。 17だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。
 12節で(イエスがすべての人の為に死んだ以上)「すべての人も死んだ」と述べた。従って、今生きている人はすべて肉において死んだとみなし、「今後だれをも肉に従って知ろうとはしません」と言う。「肉に従って知る」とは、性別や身分、家庭環境や交友関係、職業や能力などで人間を判断することである。具体的には、ユダヤ人かギリシャ人か、奴隷か自由人か、男か女かの区別である。主にあっては、もはやそのような事で人を判断しない。また、たとえそうした基準(ユダヤのナザレ出身の宗教家で、罪人や律法を守り得ない民衆に人気があったなど)でイエスを知っていたとしても、現在はそんな事でキリストを知ろうとはしない。勿論パウロは、同時代人としてかつてイエスをそのように知っていた。だがダマスコ体験後、もはやそのような見方はできない。自分と無関係な第三者としてではなく、自分とすべての人間との救主キリストでいます事を知ったからである。彼の死は罪の肉における自分の死であり、彼が復活し生きておられるのはこの自分が神の前に生きる為である、と知ったからである。(ここの箇所で、パウロがイエス伝承に無関心かのように解釈するのは間違いである。彼が出会った復活者キリストは、神話でも抽象的イデアでもない。具体的にまさに地上で活動し十字架刑に処されたナザレのイエスその人なのである)。
 そのように述べて、暗にパウロ一行をも人間的基準でみるのではなく、キリストからの使者として受け入れるように言っている。
 17節は、以上述べてきたことの結論である。誰でもイエス・キリストを主と信じ受け入れた者は、(ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、男も女もなく)新しく創造された人間(新しいアダム)である。もはや、自己追求せざるを得ない古い人間(古いアダム)は過ぎ去った。今は(主にあって)神と調和した新しい自分と世界がその人に開始したのである。具体的には、(身体はまだ肉にあり、生老病死に苦しんでいても)人格の本質である霊魂は新しい世界に生き始めている。
 子供が生まれ成長し、やがて老い衰えて去って行く盛者必滅の「目に見える」世界は過ぎ去った。「わが身とわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である」詩73:25/26。主はすでに復活された。主にあって、キリスト者はこの新しい現実に支えられた希望に生きる。