家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

死人の復活-6 終末時の変容

2023年11月26日

テキスト:Ⅰコリント15:45~52

讃美歌:355&361

                             (6)死人の復活(15:1~58)
 前回、「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」の問いを取り上げ、朽ちる「自然の命の体」から栄光ある朽ちない「霊の体」に復活する事を、蒔かれた種粒に命が発現し命ある植物に変容する自然の奇跡になぞらえて説明した。「つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです」。「霊の体」がどのようであるかは示されておらず、また自然的人間の理解を超えているが、復活者キリストに似た者とされる事だけは知らされている。
 次に、創世記2章の自然的人間の始祖アダムと復活者キリストを対比させ、アダムは限定的な命<=プシュケー>を受けて生き、それが尽きれば土塊に還る「地に属する者」であるが、キリストは、神の子が天から降り自然的人間イエスとして十字架に死に、神の<=プネウマ>によって復活し、また天に挙げられた「天に属する人」である事が語られた。
 私達自然的人間の命(=プシュケー)は尽きてしまう乾電池のようなものなら、復活者キリストの命(=プネウマ)は発電機のように命を創り出し供給する根源的命であり、信仰者にその命(聖霊)を注がれる。聖霊を注がれた自然的人間は、<蒔かれた>種粒のように、新しい命(=プネウマ)が発現し、キリストに似た姿(復活)を目指して現在の命(=プシュケー)を生きる。
 だが、45節~49節の段落には、また別の含みがある。今回は、それを取り上げる。
Ⅳ.復活の身体(15:35~58)
c.創造の完成としての復活
  「45『最初の人アダムは 命のある<生き物>となった』と書いてありますが、最後のアダムは命を与える<霊>となったのです。 46最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。 47最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。 48土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。 49わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです」。
  45節は前回取り上げた。46節「最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです」と、わざわざ霊的人間が先在したのではないと強調するのは何故か。これは、創世記1章にある「神の似姿」に創造された人間を、人間のイデア(原型)とする考えがあり、それによれば、救済は罪を浄められて原初に創造された人間の理想的原型に戻ることとする。だが、それは死者が復活し正義が回復さられるという要請に応えていない。単に、今生きている人間が内面的に浄められれば済む。つまり、普通の道徳哲学に似たものとなり、復活という人間理性を超える神の業をまともに受け取らず、神話のように解釈する。それは、世俗的理性にも抵抗が少なく受け入れ易い。コリントの復活否定論者もそれに似た考え方をしたのではないか。
 堕罪からの回復という点から考えれば、それでも理屈に合う。だが、現実に復活者に出会った体験を持つパウロは、これを否定した。創世記1章の「神の似姿」のアダムとは、2章にあるアダムであり、「土ででき、地に属する者」である。だから。自然的命の人間はすべて「土からできたその人の似姿」である。次いで、十字架に死んだ神の御子イエスの復活により、はじめて「霊の体」の人間が出現したとする。
 思えば、人間の「身体」は、金属を流し込んで金属器を製造する「鋳型」のようであり、粘土で製品の「模型」を作り、それによって「鋳型」を作成し、粘土を取り去って金属を流し込み最終の製品を形成する。そのように、この粘土模型から作成した鋳型=「身体」に、神の霊である<=プネウマ>が注ぎ込まれ、創造の完成である「霊の体」の人間としてイエスは復活されたのである。だから、復活者キリストは、<=プシュケー>で生きる自然的人間と、同じ「身体」を共有しておられる。だが、その身体を構成する物質は、もはや命ない物質ではなく、命<=プネウマ>に満たされた物質となっている。「ナルニア国物語」の、真のナルニアの大滝は、神を讃美して鳴り轟き、風や小川さえ神を讃える。そのように贖われた被造世界に霊が満ち溢れる。復活者の顕現を体験したパウロは、彼を「命を与える<霊>」と呼び、「命を与える<霊>」を持った「人間」とは言わない。「」と「身体」が別々にあるのではなく、「」の存在様式が「身体なるキリスト」であり、俗に考えるような実体のない「霊」ではあり給わないのである。
 神のご計画は、御自分を被造物に与え、被造物は全存在を神に献げる愛の交りであろう。受肉して被造物となられた御子イエスは、神的力をもって「死に至る迄の従順」により完全に御自分を捧げられた。この御方の(被造物性をもった)身体が「命を与える(神の)<霊>」に満たされ復活された。これは、創造の意図の完成であり、最初の(粘土模型のような身体の)創造を上回る、最終工程としての創造である。こうして神である御子が人の「身体」を持った「人の子=終末時のメシア」として天に居ますことになった。彼は天から来て天に帰る「天に属する」人間である。
 私達自然的人間は、<=プシュケー>で生きる「土からできたその人の似姿」である(現在)。だが、この身体に<=プネウマ>が注がれ「天に属するその人の似姿」になるであろう(将来)。これが神の御意志であり、それを実証するのが「イエス・キリストの復活」である。信仰者は全被造物と共に、神の御意志であり、かつ自分の救いである創造の完成(復活)を呻き求める
d.結び-終末の完成時の変容
50兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。 51わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。 52最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます」。
 ここでパウロは今までの議論を締めくくる。蒔かれた種粒という自然界の驚異や、土から創造された魂的人間から霊的人間へとの創造の完成とか、色々語ってきた。だが要するに「肉と血(現在の肉の身体)神の国を<受け継ぐ>ことはでき」ず、「朽ちるものが朽ちないものを<受け継ぐ>ことはでき」ない、と言い切る。つまり、復活を経ずに現在の魂的身体のまま、霊的内面的充実をもって「救済」とする復活否定論、または(肉体を切り捨てた)魂だけで「救済」に与るという復活否定論を切り捨てた。なお、<受け継ぐ>とは出エジプトしたイスラエルを「乳と蜜の流れる地」に定住させるという神の約束の実現の表現である。
 堕罪後の人間はどこまでも自分中心の世界観や秩序に固執する。創造者である神の主権を認めず、現在の世界秩序を不変の前提として「救済」を追求しようとする。<種粒>のままの、理想的状況を模索する。だが神は、<種粒>を<作物=麦>のために創造されたのであり、<作物=麦>が<種粒>の目的であり完成である。
 <種粒>と<作物=麦>に例えたが、<魂的>と<霊的>と、これら二つの身体の断絶を結ぶものは「神の創造の御業」であり、「死」ではない。51節で「神秘=奥義」として語れるのはその事である。神の<=プネウマ>が働くと、魂的体は生死に関わらず「霊の体」に変容する。死者なら<復活>、生者はなら<変容>である。つまり、死は救済の必要条件ではない。
 「わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます」。この自然的命にある限り、たとえ聖霊が宿り給うとも、いや聖霊の光に照らされるからなおさら「善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則」に支配された(現在の)状況が明らかになる。だが同じく聖霊が宿り給う以上、「キリスト・イエスを復活させた(過去形)」神が、「わたしたちの死ぬべき身体をも復活させてくださるだろう(未来形)」事をも確信できるのである。復活否定論者が考えるような人間の宗教心や霊的精進ではなく、「憐れもうと思う者を、憐れむ神の恩寵の御意志だけが、救いを達成し給うのである。
 パウロは、自分が生きているうちに終末時が到来すると想定している。これは、聖霊の御力をまざまざと体験し、来たるべき「永遠の世」が、過ぎ去るべき「現在の世」に既に入り込み、肉薄している事を実感するからである。永遠は時空を超える。まだ肉にあってもすでに永遠の命である霊に生きる者は、聖霊によって、神の御心にすでに備えられた「救い」を見るのである。幼子イエスを抱いたシメオンは、まだ十字架の救いが成し遂げられる前に、聖霊によって「神の救い」を見た

 神の前に、人間が自然的命にあるかないか、どの場所や時代かも問題ではない(千年は一日のごとく…)。だから「たちまち、一瞬のうちに」とは時間的短さではなく、(夢から覚める如く)永遠が時間に取って代わる有様を言うのであろう。