家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

愛の賛歌


2023年7月30日

テキスト:Ⅰコリント12:31~13:13

讃美歌:140&181

                         (5)集会のための指示(11:2~14:40)
                          ③聖霊の賜物について(12:1~14:40)
 前回は、身体の譬えによって、様々な賜物=カリスマが互いに働きを分担し、エクレシア全体がキリストの地上での身体として機能すべきことを学んだ。優れた賜物は他に奉仕するために与えられているのだから、「ほかよりも弱く見える部分がかえって必要」とされる。すなわち、「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられた」のである。
 「キリストの地上での体」であるエクレシアにおいて、「体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合い」、「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」愛の一致が実現するのは、人間ではな聖霊が成し遂げられる事である。だから、現実のコリント教会にいかに分派争いがあろうとも、また歴史的教会にいかに分裂や争いがあろうとも、パウロは信仰的確信と希望において「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」と、断言するのである。
 次に、エクレシア内部における職務の序列が語られた。「神の言葉」に仕える「使徒」「預言者」「教師」がまず優先され、次に奇跡や癒やしによってキリストを証する者、その下に各種の奉仕の務めをする者、最後に「異言」を語る者であった。各賜物=カリスマ(霊的能力)は、その職務に役立つために与えられる。
 しかし、賜物とは本来的には愛の贈り物であり、軍隊で支給される武器や装備品のように、任務遂行の道具として付与されるものではない。パウロは「もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」と励ました。ここで使徒は、神が人間に贈り給う最高の贈り物を思う。
愛の賛歌(12:31~13:13)
 そこで彼は、その賜物を思い、心が高揚して語り出す。12:31後半~13:3「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」。
 神が与え給う最高の賜物、それが「アガペー」である。
 13章1節は、コリント教会で重んじられた「異言」を取り上げている。「人々の異言」とは日本語や英語などの人間的言語で語られた異言であり、「天使たちの異言」は霊語の「異言」である。これは、天使が用いる言語として尊重された。つまり天上界の言語で語ろうとも、パウロがこれから語ろうとする、相手に自分を献げる「アガペー」が欠けているならば、異教神殿で霊の憑依を促すために打ち鳴らされるシンバルや銅鑼と同様にやかましいだけである。2節は、預言と霊的グノーシス(神秘的知識)、「山を動かすほどの」信仰も、「愛がなければ、無に等しい」。3節の財産の喜捨という自己否定も、信仰告白のために「わが身を死に引き渡す」殉教も、最高の敬虔の表現であるが、それらさえ「愛がなければ、わたしに何の益もない」。すなわち、「アガペー」だけが、すべての霊的能力や業を意味あるものとする根源であると、まず語り出した。
 最後決定的な愛の贈り物とは、何か。それは物品や便宜ではなく、自分自身を与える事であろう。神は、御自分の命である聖霊を、人間にお与えになった。命とは静止して観察の対象となるようなものではなく、風が物を動かしてその存在が知れるように、絶えず働きかける活動によって知られるものである。(神は、モーセに「我は在りて在るものなり」と語り、絶えず活動し働きかける者として御自分を啓示されている)。
 4~7節は、その働きによって「」を描写している。「愛は寛容にして慈悲あり。愛は妬まず、愛は誇らず、驕らず、非禮を行はず、己の利を求めず、憤ほらず、人の惡を念はず、不義を喜ばずして、眞理の喜ぶところを喜び、凡そ事忍び、おほよそ事信じ、おほよそ事望み、おほよそ事耐ふるなり(文語訳)」(ここは交読文にもあり、暗唱できるだろう)。
 「愛は寛容にして慈悲あり」とは、神が叛き離れ去る人間を見捨てずに追い、御子イエスによって救い給う事を思い起こせば、分かりやすい。次の「妬み、誇り、驕り、非禮、己の利を求める(自己追求)、憤り、人の惡を念い、不義を喜ぶ」は、人間的肉の働きである。聖霊は肉の働きを殺す力である。なお「眞理の喜ぶところ」とは、神との調和である。
 しかし、「寛容にして慈悲あり。妬まず、誇らず、驕らず、非禮を行はず、己の利を求めず、憤ほらず、人の惡を念はず、不義を喜ばずして、眞理の喜ぶところを喜ぶ」などの倫理的・道徳的行為の総計が「愛」なのではない。逆に「聖霊」がそれらすべてを実現させる根源なのである。
 パウロは最後に愛の働きを一文で要約する。7節「凡そ事忍び、おほよそ事信じ、おほよそ事望み、おほよそ事耐ふるなり」。ここの「おほよそ事」は、「全体=total」という意味ではなく、あらゆる(every)状況や相手を(反逆する敵も絶望的状況も)受け入れ、共に喜ぶ将来を信じ、希望し、苦難と罪を自分の側で担う、という意味である。主イエスの御生涯と復活は、全くそのような神の御業であった。
 だが、このような神の御性質「アガペー」が、賜物として人間に付与されるとは信じがたい事である。注がれる神の愛に対し、その僅かな反射として神や他者を愛しうるだけではないのか?

 しかし主は、スカルの井戸辺で「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネ4:14)と、サマリアの女に語られた。また同じくヨハネ7:38&39にも「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と「御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われた」とある。つまり、注がれる聖霊(神の愛)は、信仰者のうちに泉となって湧き上がり、神からの愛によって神と人を愛する者とされる、と予め約束されたのである。「あなたは、これを信じるか?」(ヨハネ11:26)。
 これぞ、信じる者すべてに与えられる最高の贈り物であり、「受けるよう熱心に努めなさい」とパウロが命ずる「もっと大きな賜物」である。
 8~10節「愛は長久までも絶ゆることなし。然れど預言は廢れ、異言は止み、知識もまた廢らん。それ我らの知るところ全からず、我らの預言も全からず。全き者の來らん時は全からぬもの廢らん」。「預言」や「異言」は、完成途上にあるエクレシアが用いるべき装備であり、知識=霊的グノーシスも「神の国=神の支配」が地に実現した時には、ちょうど実物を見れば、その映像をみる必要がないように不要となる。しかし、神との交わりである「愛」は永遠に継続する。肉の身体に蒔かれた種のような「愛」は、根を下ろし芽吹き、霊の身体に甦る時、その完全な姿を現すのである。
 10~12節の幼児や、鏡の映像の譬えは説明不要であろう。12節後半「今わが知るところ全からず、然れど、かの時には我が知られたる如く全く知るべし」と、「かの時=終りの日」には、神が私について<信じ、希望し、願って>下さった者(赦され贖われ浄められた神の民)として自分を知ることができるのである。
 13節「げに信仰と希望と愛と此の三つの者は限りなく存らん、而して其のうち最も大なるは愛なり」。ここで突然、いつまでも存続するものとして、今まで語られてこなかった「信仰」と「希望」が登場する。それは、「」が「その人のうちで泉となり」湧き上がるとしても、まず先に神からの愛がその人に注ぎ続けられることが必須の条件であり前提だからであり、その事を神に期待し堅く信頼するのが「信仰」であり、それを憧れ求めることが「希望」である。従って、まず神が主導し、人間を存在させ、御自分と共に生きることを求め給う「」が、最も根源的なものである。
 この段落は、昔から「愛の賛歌」と称される有名な箇所である。わざわざ文語訳で引用したのは、原文も祭儀文に用いる荘重で詩的な文章で綴られているからである。是非とも暗唱しておきたい。
 ところで、なぜエクレシア内に特別な霊的能力が与えられる人と、そうでない人が存在するのだろう。いくら「かえって必要」だと言われても、「ほかよりも弱い部分」であるのは残念である。だが、霊的能力はそれを用いる必要に応じて付与されるのであり、不公平なのではない。
 しかし「聖霊によらねば、誰も『イエスは主である』と告白することはできない」というその聖霊は、そうではなく、信じる者全てに与えられる神の最高の賜物である。この聖霊によって、イエスを主と信じる信仰を与えられ、神に愛される子供、エクレシアの一員とされるのである。聖霊が、神の本質である命を与える霊であり、「」である。すなわち、神は「愛=聖霊」において人間を創造され、その独り子を通し御自分の命である聖霊を与えて、もはや被造物以上である神の身内、愛される「子供=息子・娘」として下さった。この働いて止まない神の愛=聖霊こそ、信じる者全てに与えられ、霊的能力や業だけでなく善きものすべてを生じさせる根源なのである。
 これに気づいたある詩人は歌っている「もはや他の務めはなく、愛することだけが私の務め」(十字架のヨハネ「霊の賛歌」)。すなわち、神の喜び給うことの一切は、神から受けた「愛」から生じてくるということである。
 だから「わが魂よ、おまえの平安に帰れ。主は豊かにおまえをあしらい給えばなり」詩116:7。
 私達も、過去と現在の自分を顧みて嘆くのではなく、神が私達の為に備えて下さった将来を希望し信頼し、感謝と讃美を捧げ、その完成としての主の来臨を忍耐して待ち望んでいきたい。