家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

預言と異言

2023年8月20日

テキスト:Ⅰコリント14:1~19

讃美歌:309&344

                          (5)集会のための指示(11:2~14:40)
                           ③聖霊の賜物について(12:1~14:40)
 前回は、霊的能力や業などの賜物=カリスマを価値あるものとする根源的賜物「愛=アガペー」について語られた。これは、土に蒔かれた種のように、肉の身体に蒔かれ、その存在は目に見えないが、その働きと成長は始まっている。その最初の働きが「『イエスは主である』と告白」させ、自分を主イエス・キリストに委ねさせる信仰である。即ち、信仰者すべてに与えられる「聖霊」が、人間において「愛=アガペー」を発動させる。
 この聖霊の働きによって霊的能力や「預言」や「異言」など種々の賜物=カリスマが分けて付与され、全エクレシアを一つの身体として形成し機能させる。しかし、エクレシアに完成途上で用いる装備として付与される賜物=カリスマは、完成される「かの時=終りの日」には不要となる。「預言は廢れ、異言は止み、知識もまた廢らん」。即ち、これらは「全からぬ」賜物であり、救済が完成される時には、本来的賜物である「愛」と「信仰」「希望」だけが存続する事が説かれた。
 12章から、聖霊の賜物=カリスマが各人に分けて与えられるのは、異なる賜物が互いに補い合い、協働して「キリストの体」なるエクレシアを造り上げる為であることを語ってきたパウロは、13章で、種々の霊的能力を超えた根源的賜物「愛」を語り、福音の終末論的地平を示したのである。
 だが再び、いまだこの世を歩む教会に、装備のように付与される部分的賜物(霊的能力)について話を戻していく。
❻預言と異言(14:1~25)-1
 14章1節「愛を追い求めなさい。 霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。 それはだれにも分かりません。 彼は霊によって神秘を語っているのです。しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが、それ以上に、預言できればと思います。異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっています」。
  1節前半は、13章「愛の賛歌」の締めくくりであり、後半「霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」が、14章全体の論旨の要約である。
 2節以下25節までは、「異言」よりも「預言」の賜物が、集会においては「教会を造り上げる」点で勝っていると語っている。(「造り上げる」と訳されている「オイコドメオー」という動詞は、もともと建築物を「造り上げる=建てる」という意味から、交わりや共同体を「形成する」とか、更に広く「益する、強める、確立する」などの意味を持つようになった言葉である。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」8:1など)。
 12章で聖霊の種々の賜物を重要な順にグループ分けしていた。第一が知恵と知識の言葉、第二が奇跡や癒やし等を行う力、そして第三がここで取り上げられる、霊感による「異言」と「預言」、及びそれらを解釈したり見分ける力、である。異邦人を中心とするコリント教会は、特に第三の「預言」や「異言」の賜物=カリスマに恵まれていた。その理由の一つは、霊感を受ける事は、イスラエルの信仰伝統や聖書の知識を必要としないからであろう。コリントのようなヘレニズム末期の行き詰まった社会には、現世を脱却し霊の世界に没入させる、いわゆるアヘン的密儀宗教が盛んであった。当時の人々は、現代のような合理主義的社会と違い、異教的な霊力の発現(憑依状態のエクスタシーや予言など)に日常的に接していたのである。
 だから、コリント教会の人々は霊感を受ける事を違和感なく受け入れ、「異言」や「預言」を語る「霊の人」とされたことを誇りとした。その場合、異教的密儀宗教と福音の区別が曖昧になる危険がある。そして集会では、異教の祭儀のように霊感を受けた者が、秩序なく自由に「預言」や「異言」を語った。それは、霊的活気に溢れた礼拝と評価できる反面、混乱と狂騒状態を生じさせる。また、そのような礼拝では、教会が信仰に導くべきき未信者や、信仰生活を配慮すべき入信まもない信徒を疎外し、置いてきぼりにてしまう。このような事情から、パウロは集会における「異言」や「預言」の取り扱いについて、細心の注意を払って指導しようとする。
 ところで現在の私達は、霊感により語り出される「異言」や「預言」を殆ど知らない。ここで本文を少し離れ、「異言」について考えてみよう。聖霊が最初に降臨されたペンテコステにおいて、その場にいた全員が「あらゆる国の言語」つまり「異言」(語っている当人にも意味不明の言説)を語り出した事が報告されている。また、異邦人のコルネリオらが「異言」を語り出し、異邦人にも聖霊が注がれて神の民とされる事が明らかになった(行伝10:46)。つまり、教会初期において「異言」は、聖霊付与の徴として用いられた。だが、ローマ帝国末期のアウグスチヌスの時代には、正統派教会では廃れてしまった。その状態は、20世紀初頭アメリカでペンテコステ運動で復活するまで続いた。現在、ペンテコステ運動(異言や癒やし、悪霊追放など)は超教派的に広がっているが、他方で根強い反発もあり、キリスト教全体に広まるまでには至っていない。
 人には理性の働く意識の領域だけでなく、広大な無意識の領域があり、生命活動一切を支配していることは(ユング心理学などで)良く知られている。それは愛や情欲、音楽への感動が、どこから起こるか考えてみれば分かる。愛や情欲が起きるとき、意識を通さずに体が反応する。音楽に乗って思わず手足が動く。人間の霊が存在し、聖霊が働きかけるのもこの無意識の領域である。人間の霊が、聖霊によって神を認識し感動する時、霊は言葉にならない声を上げる。それが意識を通さず発声されるのが異言であると考えられる。コルネリオらが異言を語り出した事は、ユダヤ人以外にも聖霊が与えられる事を示す重要な出来事であり、異言はたしかに「徴」としての役目を果たした。その後「異言」が廃れたのは、「徴」として用いられる必要がなくなったから、とも考えられる。
 一方、「異言」ではなくとも、心の中で言葉では表しきれない思いを神に向ける事は、いつの時代でもある。アウグスチヌスも回心直後、出世欲や情欲から解き放たれ、神に向かって「子供っぽい片言で話しかけていました」と告白している。赤ちゃんが親に「あぶ、あぶ」と言葉にならない片言で語りかける事にも似て、人間の霊も「どう祈ったらいいかわからない」思いを神に向けると、聖霊がとりなして下さる、とロマ8:26にある。なにも未熟な思いに限らず、成熟した信仰にも「言葉では表現しきれない思い」がある。そうした心中の「どう祈ったらいいかわからない」思いと「異言」は、当人も含めて内容が「だれにも分か」らない点は同じである。
 だが異言は、当人の知らない外国語の場合もあるということは、なにか他の霊(天使?)が関与して語らせているのかも知れない。しかし、ペテロが合図すると黙ったと報告されている以上、当人の意志が関与していることも明らかである。
 以上、不明な点は多いが、人間の霊が、独り言ではなく明確に神に向かって語りかけるのであるから、霊は非常に豊かにされ整えられる。つまり「自分を造り上げる」。但し、それは霊的領域である無意識においてであり、理性の働く意識の領域には「実を結ばない」。つまり直接は働かない。
 これに対し「預言」は、同じく聖霊に感動した人間の霊が、神ではなく他の人間に語りかける。「異言」は心中でのみの場合もあり得るが、「預言」は他人に向けて語るのだから当然表出されて、聴く者を「造り上げ、励まし、慰め」、「教会を造り上げ」ようと働きかける。教職制度や新約聖書がまだなかった時代、霊感された「預言」が、現在の説教や奨励のように、信仰を励まし、兄弟達を慰める働きをしたようである。
 「異言」も、聖霊が人間の霊を感動させて下さるのであるから、非常な恵みであるが、「教会を造り上げるため」には、「預言」の賜物の方が勝っている。パウロは、誰もが「異言」を語れることを願うが、それ以上に「預言」によってコリント教会が「造り上げ(オイコドメオー)」られる事を望むのである。
 6節~12節までは、理解できるように「啓示か知識か預言か教えかによって語らなければ」集会にとっては意味がない事を言う。意味不明の言葉は、語り手と聞き手を疎外させる。霊的賜物は「教会を造り上げるため」なのだから、13節「異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい」と勧告される。異言が解き明かされれば、何を語っているか分からない当人も含め、異言で語られた祈りを皆が理解し「アーメン」と唱えて参与できる。そうなれば、「預言」と同じになる。
 なお、異言を解釈する力は学習可能な語学力ではなく、預言と同じ霊的賜物である。
 15節は霊で祈ったり讃美するだけでなく、同じ事を理性によっても行うよう勧める。そうすれば、当人の意識の領域でも「自分を造り上げる」ことができるだけでなく、他者にもその成果を伝えることができるからである。(アウグスチヌスの「告白録」は、そのような自分の魂の神への語りかけを、言語と理性で表して兄弟達に示した書物である)。
 パウロは、自分が誰よりも多く異言を語れることを神に感謝する(18節)。だが、集会においては、「異言で一万の言葉を語るより」も「他の人を教えるために、理性によって五つの言葉を語る方」をとる(19節)。こうして使徒は、福音が示す目標は、他の宗教が目指すような個人の霊的完成や解脱ではないことを、コリント教会の人々に教えようとしている。これは現在の私達に対するメッセージでもある。この書簡から、福音の示す目標と希望は何かを学んでいきたい。さもないと、神への熱心がいつの間にかパリサイ人のような「自分の義」の追求に変質する虞があるからである。段落の途中であるが、今日はここまでとし、続きは次回取り上げる。
 8月は夏休みで礼拝は今回のみだが、9月からまた隔週に戻って続けて行こう。