家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

コリント人への第二の手紙、執筆の事情と最初の弁明

2024年1月28日

テキスト:Ⅱコリント2:14~3:6

讃美歌:388&298

                                  コリント人への第二の手紙
                                        書簡執筆の状況
 Ⅰコリント16章で、パウロは五旬節以降にコリント教会を再訪する予定であると述べていた。ところがコリントに派遣していたテモテが戻り、コリントが大変悪い状況にある事がわかった。最近外部から来た伝道者達(以後、論敵という)が、パウロ使徒としての資格を問題視させ、その上、エルサレムへの献金と称して実は私腹を肥やしているのではと疑わせているとのこと。
 この論敵の素性は不明である。しかし、おそらくガラテヤの「偽兄弟」同様、キリスト信仰内のユダヤ化主義者いわゆる律法遵守派キリスト者だったのではなかろうか。彼らは、律法を絶対的神の命令と考えていたから、パウロの徹底した信仰のみの福音(以後、「無割礼の福音」という)を見逃すことができなかったのだろう。そして、パウロの「無割礼の福音」を阻止するためには、パウロの個人的資質(イエス在世中からの弟子でもなく、かつキリスト信仰迫害者)を攻撃し貶める事さえ躊躇しなかった。彼に使徒としての資格はなく、彼が伝えた福音は異端的で純正の信仰ではないと説得したと思われる。内村鑑三は、不敬事件で日本社会からも教会の仲間からも見捨てられたが(「キリスト信徒の慰め」参照)、パウロはそれ以上に、政治支配者・同胞・同信のキリスト者からさえ命を狙われる程に迫害されたのであった。
 ともかく、このままでは教会全体がパウロが伝えた福音から離反する危険があった。パウロは大変驚き、まず「最初の弁明」の手紙を書く。場所はエペソ、時期はデミトリオの騒動の前おそらく54年春頃。
 しかし、この手紙は期待した成果を上げられず、コリントの状況に改善の兆候はみられなかった。心配したパウロは、自ら直接コリントに乗り込み説得しようとした。だが、行伝に記載がないこの短期的中間訪問は惨めな失敗に終わった。落胆しエペソに戻ったパウロは自分の使徒職性について激しい論調の手紙を書く。これがいわゆる「涙の手紙」である。また、手紙だけでなく、事態収拾のため信頼する同労者テトスを派遣した。
 テトスの報告を期待と不安を抱えて待つ間に、デミトリオの騒動とパウロの入獄があったようだ。これは大きな治安事件だったから、パウロだけでなくパウロの協力者達もかなり多く拘束され、パウロ自身、死を覚悟した事がピリピ書の記載などから窺える。なお、入牢中にピレモン書も執筆されている。アキラ・プリスキラ夫妻は命がけでパウロ救出を図り、結局脱出することができた。もし仮にそれが非合法の脱獄だったとしら、使徒行伝に記載がない訳も分かる。
 エペソ脱出後、トロアスに赴き伝道してかなりの成果を挙げたが、パウロはコリントの状況が心配でたまらず、トロアス伝道を早めに切り上げ、陸路伝いで帰還する筈のテトスに一刻も早く会えるよう、対岸のマケドニアに渡り、彼の到着を待った。その時のパウロ一行の心境は「マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです」と記されている。
 しかし、テトスは吉報をもたらした。コリント教会は今やパウロへの信頼を取り戻し、これまでの態度を悔い改めているとのこと。心配し悲しんだだけに喜びは大きかった。パウロはコリント教会との和解を喜ぶ「和解の手紙」を執筆。執筆地は、おそらくマケドニア州。時期的には55年頃。そして、当初の予定通りエルサレム教団への献金を届けるため、改めて献金を募る手紙「募金の手紙」を書いている。
 現在の第二コリント書は、この「和解の手紙」を基にして、その他の手紙の主要部分を差し込んだ形になっている。執筆の順番に分解して並べると、次に通りになる。
A「最初の弁明」    2章14節~6章13節、7章2節~4節
B「涙の手紙」      10章から13章
C「和解の手紙」    1章1節~2章13節、7章5節~16節
D「募金の手紙Ⅰ」  8章
E「募金の手紙Ⅱ」  9章
 ※6章14節~7章1節は、第二書簡以前執筆の別の手紙。おそらくⅠコリント5:9「わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが」とある、その「以前の手紙」が間違って挿入されたものとされている。
 私達も、時系列に従ってこの順番で読んでいきたい。
                                  A.最初の弁明
(1)救いの「香り」(2:14~17)
 「14神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。15救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。16滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。17わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。
 書簡執筆に当たり、パウロはまず救いを告知し給う神の御業を讃美する。神はいつも<わたしたち>福音宣教者を(この書簡で主語は常に<わたしたち>であり、パウロ個人ではなくシラスら同労者達と合同の働きであることを強調している)、罪と死の支配から世を解放されるキリストの<勝利の行進(行軍)>に連ならせ、彼らの働きを<通じて>、「キリストを知るという知識」つまり命を得させる新鮮な風「香り」を周囲に吹き込んで下さる。それは、神に叛く滅ぶべき者達(悪魔的諸力)にとっては、「死から死に至らせる」ものであるが、救いを必要とし、またその対象たる者達にとっては「命から命に至らせる」風である。つまり、宣教者の働きによって救いを世に至らせようとされる。その重大な光栄ある任務に、(神の助けなくして)人間の誰が耐えられようか!
 こうして宣教の主体としての神を讃美した上で、福音を最初にコリントに伝えたパウロ一行は、<多くの人々=論敵>のように「神の言葉を売り物にせず献金にたよらず自活して)、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています」と、まず言う。(だがそれは、自己推薦するためではない)。
(2)推薦状(3:1~3)
 「1わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか。 2わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。 3あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。
  コリントに最初に福音を伝えた自分達がいまさら「ある人々=論敵」のように「あなたがたへの推薦状」、あるいはコリント教会からの推薦状を必要とするだろうか?コリント人々が現在キリスト者である事、それがパウロらが福音宣教者である何よりの紹介状あるいは推薦状ではないか。
 当時、世界各地に散らばったていたディアスポラユダヤ人達は、他の地域のユダヤ人共同体を訪問する際は、元いた共同体からの推薦状または紹介状を持参する習慣があった。アキラ・プリスキラ夫妻も、コリントを訪問しようとするアポロに紹介状を書いている。パウロの論敵は、おそらくエルサレム系の(律法を重んじる)共同体からの推薦状を持参したのであろう。
 コリントの人々がキリスト信仰に立っているという事実は、「すべての人々から知られ、読まれて」いる。要するに、コリント教会の存在自体が「キリストがわたしたちを用いてお書きになった(世に対する)手紙」であり、しかも「墨ではなく生ける神の霊によってモーセ律法のように)石の板ではなく人の心の板に、書きつけられ」ているのである。
 ここに、2枚の石の板に刻み込まれたモーセ律法=契約と、エゼキエルが預言した「わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。」(エゼ36:26)という、終末時における「新しい契約」の対比がなされている。パウロ達が伝えた「無割礼の福音」、それこそが預言された終末時の「新しい契約」である。事実、預言されたとおり、福音を聴いて信じたコリントの人々は、聖霊を授けられて預言や異言の賜物を受けている。否定しようもないこの事実が、パウロらの伝えた福音が真正の「新しい契約」であることを証拠立てている。
(3)「新しい契約」の奉仕者(3:4~6)
 「4わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。 5もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。文字は殺しますが、霊は生かします。
 このように、パウロは自分が伝えた福音は終末時の「新しい契約」であると確信している。だがそのような光栄ある任務の資格は、宣教者自身の人間的資質ではなく、徹底して神の恩寵の選びにより与えられたものである事も充分自覚している。神御自身の権威と御意志が、福音すなわち「新しい契約」を告知し給うのである。
 そう言って、石の板に刻み込まれたモーセ契約の律法を超越する、「墨ではなく生ける神の霊によって、…人の心の板に、書きつけられた聖霊による「新しい契約」について語り出そうとする。 モーセ契約は双務契約であるから、契約違反は罰としての死を招く。しかし、律法を完全に満たす事は人間には不可能である。このことは、エレミアはじめ預言者達も深く自覚していた。つまり律法は、生まれながらの人間にとって破滅と死を意味する。それを短く「文字は殺します」、と言う。だが、聖霊によって肉の心に書き付けられた「命の御霊の法則」は、人間的働きを殺し霊に従って人を動かし(「御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない」ガラテヤ5:16)、「罪と死の法則」から人間を解放する。つまり、「霊は生かします」。
 今日は、ここまでとし、続きは次回。