家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

最初の弁明Ⅱ 主と同じ姿への変容

2024年2月11日

テキスト:Ⅱコリント3:7~18

讃美歌:333&355

                                  コリント人への第二の手紙
                                       A.最初の弁明
 前回は、書簡執筆の事情と執筆順序、そしてまず最初に執筆された「弁明」から読み始めた。(1)(良い)香り」では、パウロらの福音告知の働きは、世に対する「キリストの勝利の進軍」であり、救いを求める者達には命を、神に叛く者達には滅びをもたらす働きを為すことが語られた。このような重大で光栄ある任務を果たすに際し、自分達は「神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として語ってきました」と、語り始めた。宣教は単なる知識の伝達ではないから、語る者の信仰の火が他者の心に燃え移るように、必ず<人間を用いて>告知される。
 以上を述べたのは、パウロらの自己推薦ではない。コリントの人々がキリスト信仰を抱いている事自体、福音宣教者としてのパウロ一行の紹介状であり、同時にキリストが世に対し書かれた手紙である、と(2)推薦状」で語った。この「手紙」は、石の板に彫り込まれた律法とは違い、キリストが宣教者を筆のように用い、墨ではなく聖霊によって信仰者の心に書き付けた「新しい契約」である。この聖霊が、預言された終末時に付与される「新しい霊=主の霊」である。
 パウロらは、(自分達の宣教について)以上のように確信を持っている。しかし勿論、この重大な任務を遂行する資格は、自分達の人間的資質ではなく、神から付与されたもの(だから貶め得ない)、と(3)新しい契約の奉仕者」で強調し、「文字は殺しますが、霊は生かします」と、付け加えた。
 「文字は殺し、霊は生かす」ことにつき、身近な例として(関東学院で働かれた)コベル宣教師の娘さんの事を思い出そう。彼女の両親は占領地で日本兵に斬殺された。しかし戦後、彼女は日本兵捕虜収容所で献身的に奉仕された。両親が日本を愛し宣教した事を思うと、そうせざるを得なかったそうである。日本兵に恨みや憎しみを感じるのが当然であるのに、逆にこのような「敵への愛=アガペー」が、親を思う心から自然に湧き上がったのである。これが、生まれながらの人間性を変革する聖霊の働きであり、「霊は生かす」ことの一例である。今日はその続きである。
(4)「新しい契約」の栄光(3:7~11)
 「7ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、 8霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。 9人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています。 10そして、かつて栄光を与えられたものも、この場合、はるかに優れた栄光のために、栄光が失われています。 11なぜなら、消え去るべきものが栄光を帯びていたのなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです。
 モーセシナイ山十戒を与えられ、麓に降りてきた時、モーセの顔に神の栄光の残照が輝いており、民は恐ろしくて彼に近づけなかった。そこで、普段は「覆い=マスク」をかぶって隠し、神と語り、それを民に告げる時には外した。その故事を引いて、(違反して死をもたらす)律法でさえ、それに仕えるモーセの顔を栄光に輝かせたのなら、「人を義とする」福音を告知する(自分達の)務めは、それを上回る栄光がある筈だ、と言う。そして、モーセ契約にかつて与えられた栄光と権威は、福音(新しい契約)の「はるかに優れた栄光のために、栄光が失われています」と、律法が役目を終え、過去のものとされたと述べる。最終的なものに取って代わられる過渡的契約である律法が栄光を有するなら、永続する福音は「なおさら、栄光に包まれているはず」、と律法遵守派を論駁する。しかし、律法の栄光を否定していないことにも注意したい。
 だが、例えば詩篇で「魂を生き返らせる」と称えられる律法(詩篇でいう「戒め・御言葉」)を、「死に仕える務め」と断ずるとは、信仰深いユダヤ教徒には許しがたい暴言であろう。しかし実際、モーセが律法を与えられてシナイ山を下山すると、民は金の子牛を造り崇拝していた。モーセは怒って、直ちに偶像崇拝者達の殺害を命じ、それに応じて同胞を殺戮したレビ族は、以後祭儀に仕える名誉を与えられた。つまり律法は、付与された当初から裁きと死の効果を発揮したのである。モーセ以降の預言者達も、ほぼすべて審判と滅亡を預言した。エレミア書は、滅亡と裁きを預言せざるを得ない預言者の苦悩に満ちている。「新しい契約」待望は、そうしたイスラエルの歴史の中から生まれた。パウロ自身も「熱心においては教会の迫害者」だった程に律法に精進した。だからこそ、律法を満たすことの厳しさも理解していたろう。(例えば、収入の十分の一の神殿税納付の戒めを取り上げても、これを実行するのは、特に貧しい人にはとても厳しい。律法が「主の重荷」「主の軛」と言われた所以である)。
 しかし神が喜び給うのは、外に現れる「行い」ではなく、神に信頼し従う心=信仰である。「犠牲(捧げ物)ではなく、悔改め(の心)」である。だから、キリストを主と信じ、聖霊を注がれて内面から変革される「新しい契約=福音」は、パウロのようなユダヤ人にとって<律法からの解放>として受け止められた。(だが、もともと律法をもたない異邦人はそうではない)。結局、律法の命令(神と隣人への愛)は、聖霊が人間を内面から変革することによってのみ達成される。
 このように聖霊の働きによって人間を義(神との正しい関係)とする福音に仕える務めは、永続する契約の務めとして、過渡的な(罪過を明白にする)律法の務め以上の栄光に包まれている筈である。
(5)主と同じ姿への変容(3:12~18)
 「12このような<希望>を抱いているので、わたしたちは確信に満ちあふれてふるまっており、 13モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けたようなことはしません。 14しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、<古い契約>が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。 15このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。 16しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。 17ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。 18わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。
  パウロは、福音を宣教する任務が「栄光に満ちあふれている」という信念を、<希望>と表現する。まだその栄光が明らかになる「神の支配」が完成してはいない。だが、イエス・キリストが「初穂」として復活された以上、預言され待望された「終りの日」がすでに到来したのである。それを告げるこの喜ばしい告知(福音)の務め(宣教)を、堂々と確信に溢れて行っており、モーセが「消え去るべきものの最後を見られまいと」顔を覆ったようなことはしない。
 だがイスラエルの民の、神との関係についての「考え」は鈍磨しており、モーセ契約(律法)を介してのみ神との関係が成立すると思い込んでいる。現在でもシナゴーグで(過ぎ去った)「古い契約=律法」が朗読される時には、神と民との間に「この覆い」がかかったままである。それは、キリストにあって<神の無条件の救いの御意志>が明らかにされてはじめて、取り除かれる。
 従ってまだキリストの福音を受け入れない状況では、現在でもモーセの書(律法)が読まれる時には、いつでもユダヤ教徒の心に「この覆い」がかかっている。
 しかし、モーセが神に向き合うときは顔覆いを外したように、<主=イエス・キリスト>の方に向き直れば、「覆い」は取り去られ、神がキリストを信じる者を無条件に救いに至らせる事を、知ることができる。
 ここまでの記述は、パウロの霊的な瞑想から来る言い回しで、難解である。しかし、それに続く17節は更に神秘的霊的である。
  17節「ここでいう主とは、“霊”のことです」とは 、イエス・キリストがイコール聖霊だと言うのではない。神の霊(聖霊)によって生きる復活者主イエスは、創造し、命を与える神としての力=神性」を持っておられると言う事である。主であり、神であるこの御方の霊が在る処に、律法からの解放という「自由」がある。
 18節、イエス・キリストを主と信じるキリスト者は皆、神と人を隔てる「覆い」を取り除かれて、(モーセの顔にも神の栄光が映し出されたが)鏡のように主の栄光を映し出し、自分達自身も「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます」。(但し、「主と同じ姿」といっても、the sameではなくその写しの「似姿」である)。
 信仰者が<>を見上げる時、彼らは「主の栄光 」を映し出す。といっても、ただ反射するだけではなく、映し出した「主の栄光 」(の映像)がその人に留まる聖霊として働き、彼ら自身が「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられて」いく。これが、「主の霊(聖霊)の働き」である。
 これは、何という途方もない希望であろう。自分が「主と同じ姿に造りかえられる」など思いもよらない。だがここで、主の眼差しの力を思い出そう。「ああ主の瞳、眼差しよ」という讃美歌もある。イエスの裁きの庭で、焚き火にあたっていたペテロは三回も主を否認した。だが、主が振り返ってペテロを見つめられると、その眼差しがペテロを二度と主を裏切らない悔改めに導いたのであった。そのように、復活者の恵みの眼差しは、その対象に聖霊を与え信仰を起こさせる。そして主は「信仰の創始者であり、また完成者」であり給う。だから、私達は主を見上げつつ完成へと「希望を抱いて走る」ことができる。
 「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。25わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ロマ8:24)
  「このような希望」によって命に導いて下さる神に感謝し讃美しよう。