家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

兄弟達と共に

2023年4月16日

テキスト:Ⅰコリント9:19~27

讃美歌:313&338

                    (4)教会からの質問に対する回答(7:1~11:1)
                          ②偶像に供えた肉の問題(8:1~11:1)
 前回パウロは、「働く者が報酬を受けるのは当然である」(マタイ10:10)と主が定められた権利を、「福音の妨げにならないため」に用い尽くさずにいることを語り、しかも無代価で福音を伝えることを、奪われたくない自分の大切な「誇り」であると語った。命じられた任務としてだけでなく、主の宣教の御業に自ら進んで参与する証しだからである。そう語る事の中に、キリストへの、また福音への、パウロの熱情が顕わにされた。彼はこの熱情を吐露せずにおれない。
                                 b.使徒の模範(9:1~27)
(4)使徒の熱情
 19節「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです」。これは、自分の行動を総括して述べた言葉である。前回少し取り上げたが、「キリスト賛歌」を想起させるこの言葉には、聖霊バプテスマされた者が自ずから「キリストの模倣(イミタチオ・クリスチ)」すなわち主の御跡を辿ることが示されている。だがそれは、その人自身の状況と個性においてであり、それぞれ少しずつ異なってくる。20節以下は、パウロにおける具体的な「キリストの模倣」である。
 「だれに対しても自由」なのは、万物の主であるキリストの奴隷とされた以上、主以外一切の者に従う必要がなく、霊的地上的すべての権威から解放されているからである。それがルターの第一の命題「すべての人の上に立つ主人」の意味である。まずこれを押さえないと、第二の命題である「すべての人の奴隷」となることが、義務を超えた「自由な愛」の発露である点がぼやけてしまう。
 具体的には、20~22節「ユダヤ人にはユダヤ人のように」から「弱い人には弱い人のように」まで、相手に合わせて自分を抑え、相手の状況や考え方に添うように人に接したという事であろう。しかし、こういう態度で人に近づくと、かえって警戒される虞がある。人間は相手とは違う自分の立場と考えから発言するのが当然なのに、相手の立場や考え方を推測してその視点から語ろうとすれば、相手は自分を引き込もうとする意図を感じて用心してしまう。ちょうど、子供と同じ「振り」をする先生や大人に、子供が不信感を抱くようなものである。
 しかしパウロの「~のように」は、相手に近づかせるためではなく、相手の目を福音に向けさせるためである。例えば、シナゴーグでは「わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなた方に福音を告げ知らせています」(行伝13;32)とユダヤ人の立場で語り、アテネのアレオパゴスでは「あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう」(17:16)とギリシャ人の立場から語っている(ただし、ルカの創作記事だが)。
 自分を抑え、相手の立場を推し量って話すというのは、心理的にかなり負担である。その上、かえって警戒される場合が多い。シナゴーグでは反発され、アレオパゴスでは嘲笑された。
 しかし「できるだけ多くの人を得るため」、あえてそのリスクを負う。その結果、やはりユダヤ人からも異邦人からも排斥され、影響力が大きいだけ「疫病のような」男とまで言われた(行伝24:5)。
 そこまで熱心に伝えようとせず、自分の霊的完成第一に精進していれば、迫害される事はなかっただろう。だがそれは内面的自己追求の道であり、「おのれをむなしうして僕のかたちをとり」自由な愛から人間となり、人間の立場に立たれた主の道ではない。パウロは主に倣って、自分を空しくして(自分を忘れて)、相手の立場に立とうとしたのである。子供の「振り」をした先生は、子供への愛からそうしたのだと、いつか分かって貰えるだろう。だが、使徒の奉仕を分かって下さるのは、相手ではなく、「神のかたち」でありながら「人間の姿になられた」主である。
 なお、21節で「…わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが」とあるのは、律法に支配されていないが、キリストの律法(キリストの霊に浸されて、力を与えられつつ行う愛の戒め)の中にいる、という意味である。
 19節~22節まで、これら宣教の相手に対する(基準を超過した)奉仕の直接の目的は、「なんとかして幾人かを<救う>ため」である。救いは神の召しと選びであり、宣教した相手が全て福音を受け入れる訳ではない。だが、受け入れた者に対し、宣教者は主御自身に代わって「汝の罪赦されたり」(マタイ9:2)と告げ、それによって実際に罪と死から相手を解放し<救う>ことができる。人は他のキリスト者(兄弟)の奉仕によってのみ、キリスト者となれる。パウロもアナニアの奉仕によって、キリスト者となった。主はその民に、御自分を代理して他者に仕える任務と権威をお与えになる。その民(キリスト者)が、主の身体として主と一つとなるためである。
 23節「福音のために、わたしはどんな事でもする」。要するに、他人からどう評価されようが構わず、自分を忘れて福音宣教に邁進したということである。話は違うが、「どんな事でもする」と聴けば、創世記に出てくる族長ヤコブイスラエル)を思い出す。彼は長子の特権である「神の祝福」を受ける資格がなかった。だが、「神の祝福」を熱望した彼は、一杯の羮(あつもの=温かいスープ)で兄から権利をかすめ取り、盲人の父イサクを騙して祝福を受けた。結局、怒った兄から逃れるため異郷に脱出する羽目になり、家族と財産を得るまで戻れなかった。帰郷の際、ヤボクの渡しで祝福を求めて神と格闘までした。その際に「イスラエル」の名を受けた。ヤコブは、「神の祝福」を受けるためには「どんな事でも」した。但し、彼が欲したのは霊的な「神の祝福」であり、兄エソウのように父イサクの財産が目当てではなかった。この点が彼の族長らしさである。ヤコブ同様、パウロも自分を省みず「福音のためにどんな事でもする」一途な人である。
 さて本題に戻ろう。福音に対するこれ程の献身の本来的な目的は、ほかでもない彼自身が「(宣教する相手と)共に福音にあずかるため」である。
 主が「神と等しくあることを固守すべき事とは思わず」人間に連帯されたように、使徒も(弱い兄弟達を含む)ユダヤ人やギリシャ人と連帯しその立場に立とうとする。それが、彼の「イミタチオ・クリスチ」即ちキリストの人間への連帯に倣うことであり、同時に、彼自身が「福音にあずかるため」である。
(5)目標を目指しての精進
 24~26節は、スポーツ選手の節制を例にとり、目的を達成するために節制(禁欲)が必要なことを言う。ダルビッシュ有は学生時代、日曜日も休日も夏冬の休みもなく、野球のトレーニングに熱中したという。また、ボクサーが過酷な節食に耐えることも知られている。たかがスポーツのためにさえこれ程の努力と節制が為されるのであれば、朽ちない冠(永遠の命)を受ける為には、それ以上の精進がなされてとうぜんであろう。パウロ自身も今まで述べてきたような(生活費を教会から受けない、他者の立場に立つ等の.)努力と節制を実行していることを示し、教会員を励ました。
 27節は少し角度を変え、ボクサーが狙いを定めて打ち込むように、節制(禁欲)の目的を明確にすべきことを述べる。例えばパウロの場合、上記したように<直接的目的>は、宣教する側の自分が「福音の妨げにならない」ことであり、そのために無代価で宣教したり、弱い兄弟を躓かせるないように節制している。このような節制(禁欲)は、理性を重んじ感覚を抑制するギリシャ哲学的禁欲や、魂の解放のために肉体的欲望を抑えるグノーシス派の禁欲とは全く違う。自己完成のための禁欲ではなく、キリストに倣って、他者(兄弟達)に仕える為の禁欲(節制)である。
 とはいえ、単に他者の為だけに「自分の体を打ちたたいて服従させ」るような節制と努力をしているといえば、それはあまりに上から目線の傲慢な態度であり、どこか真剣さに不足する。ところが実はそうではない。<本来的目的>は、自分自身の救いの達成である。使徒は自分の努力の例を示して、現在得ている霊的賜物や自由に有頂天になり、霊的知識と自由を誇る(強い)キリスト者達を間接的に戒める。現状に満足しそこに留まったら、捨てられて約束の地(救いの完成)に達することはできず、「荒野に屍を晒す」ことになる。
 次からは、そのことが語り出されるが、今日は、ここまでとしたい。