2024年8月25日
テキスト:Ⅱコリント13:1~13
讃美歌:529&547
コリント人への第二の手紙
涙の書簡(Ⅱコリント10:1~13:13)
前回まで、論敵らに唆されパウロの福音から離れようとするコリントの人々に対し、論敵にならって「愚かな誇り」の擬態をとってまで、自分が正当な福音の使徒であることを証しようとしてきた。しかしそれは、教会を自分に引き留めるためではなく、あくまでも人間的宗教ではなくて神からの救い(福音)に堅く立たせる為である。使徒は、自分の霊性の高さで他者を畏怖させる「聖者」ではなく、(王の命令を布告する使者として)神からの救いを告知する使徒である。だから命令に従わない者を反逆者として断罪する神の(王の)権威を付与されている。二度目のコリント訪問で反抗する者にこの権威を用いなかったのは、パウロが自分で生み育てた教会に対する愛情であり、親心である。
だが、涙の書簡を締めくくるに際し「愚かな誇り」の仮面を外し、いよいよ最後的処分をすべき三度目の訪問準備中であることを明らかにした。使者はメッセージを託した王(神・キリスト)の権威を受けてており、臣民(教会)に雇われた者ではない。だから(お前達から)費用負担は受けない、と断りを入れた。むしろ、教会に対しキリストの権威を揮う使者として処罰を予告した。とはいえ、愛する兄弟を処罰する事を思うと不安と悲しみに襲われる人間的心情を明らかにした。
とはいっても、処罰の手順を伝え、心構えさせねばならない。今回は、涙の書簡の結びである。
(4)処罰の予告と結びの言葉(13:1~13)
a.権威の提示(13:1~4)
「1わたしがあなたがたのところに行くのは、これで三度目です。すべてのことは、二人ないし三人の証人の口によって確定されるべきです。 2以前罪を犯した人と、他のすべての人々に、そちらでの二度目の滞在中に前もって言っておいたように、離れている今もあらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったら、容赦しません。 3なぜなら、あなたがたはキリストがわたしによって語っておられる証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対しては弱い方でなく、あなたがたの間で強い方です。 4キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」
1節。これまで一度ならず二度までも訪問し、諭したり説得したりしてきた。三度目になる訪問でついに最後的処分を行う。処罰対象者に対し、律法にあるとおり複数の証人の証言があう事を条件に有罪が確定される、と(律法を知らない異邦人だから)説明する。2節は、「以前罪を犯した人=前書で触れた姦淫その他の罪を犯した人」だけでなく、その他の信徒達も、もし罪を犯しているなら、もはや容赦はしないと予告する。
3~4節。このような厳しい処置を行うのは、コリント教会がパウロにキリストの権威の証拠を求めているからである。キリストは王者であり、あなたがたに縋る弱い方ではなく、あなた方がキリストに縋らねばならぬ強い立場におられる。キリストは人間としてはローマやユダヤ教の権力に支配された弱い者として十字架刑に処された。だが「神の力によって(人間の救主として)生きておられる」。そのように、「キリストに結ばれた」パウロ一行も人間的な権威をもたない弱い者であるが、コリント教会に対しては「神の力によってキリストと共に」主権的に行動する立場にある。
以上、パウロは、自分を一人の人間的宗教指導者として見るのではなく、宣教という「天国の鍵」の権威を授けられたキリストの使者として対応すべき事を言っている。
b.自省の勧告(13:5~9)
「5信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが……。 6わたしたちが失格者でないことを、あなたがたが知るようにと願っています。 7わたしたちは、あなたがたがどんな悪も行わないようにと、神に祈っています。それはわたしたちが、適格者と見なされたいからではなく、たとえ失格者と見えようとも、あなたがたが善を行うためなのです。 8わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます。 9わたしたちは自分が弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になることをも、わたしたちは祈っています。10遠くにいてこのようなことを書き送るのは、わたしがそちらに行ったとき、壊すためではなく造り上げるために主がお与えくださった権威によって、厳しい態度をとらなくても済むようにするためです。」
5節。福音の使者であるパウロに、使徒たる資格を疑ってその証拠を求めようとするなど、自分が信仰の主権者であるかのように思い上がったコリント教会に勧告する。「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい」。
信仰とはキリストに寄り縋り、自分を委ねて彼に所属する者となる事である。「福音」というキリストの呼び声を聞き、彼に召し出されて(受身で)キリスト者とされたのである。だから、キリストが自分の中に住み、主権者として振る舞って下さっているなら「信仰を持って生きて」いるが、そうでなく、今だに自分が主体となり数ある宗教の一つである「キリスト信仰」を選び取っていると考えるなら、信仰的「失格者」である。「信仰」の有無を吟味するとは、要するにキリストを主人と認め服従しようとしているかどうかである。キリストに服従するのであれば、彼の使者(パウロ)に従わねばならない。
6節、パウロは自分達一行が「失格者」ではなく、キリストが彼にあって働いておられる事を、コリント教会が知るようにと祈る。パウロのコリント教会に対するすべての言動は、パウロ個人ではなく、キリストに代理しての言動だからである。つまり、説得だけでなく処罰においてもキリストを代理して行動していることを知るように祈るのである。
7節。パウロの祈りの目的は、自分が正当に評価されることではなく、「たとえ失格者と見られようとも」、コリント教会が「善を行う=キリストに従順に行動すること」である。つまり、自ら反省して信仰の従順に立ち返り、パウロが三度目の訪問で処罰(破門・追放)をする必要がなくなるようにと祈っているのである。
8~9節は、処罰は、真理(キリストへの従順)に逆らう者に対して行う。だから、悔改て従順へと立ち返った者達に対して、パウロ一行は処罰の権威をもたない。あくまでも真理に従い、反抗する者に対してのみ処罰の権威を揮う。ちょうどニネベの民が悔い改めて、ヨナの預言した災害が起きず、ヨナは預言が外れて恥をかいたように、三度目の訪問でパウロが処罰対象者を発見できず恥をかかされ(弱く)ても、コリント教会が信仰に立って「強く」ある事を、パウロは願い希望している。パウロ一行の祈りは常に、コリント教会が信仰において「完全な者になること」である。10節、直接会う前に、あらかじめ遠隔地から(このような厳しい)手紙を送るのは、三度目の訪問で厳しい処置をとらずに済むようにとの思いからである。
c.叱責に対する慰めと、終りの祝福(13:10~13)
「11終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。 12聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。
13主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」
「涙の書簡」の終りは、処罰の予告として大変厳しいものとなった。叱責され処罰予告されて震え上がったであろう教会に対し、気を取り直すよう優しい言葉をかける。罪を犯した人も、そうでない人も(「あの人が悪い」などと非難し合うのでなく)互いに励まし慰め合い思いを一つにする信仰の交わりと兄弟愛を勧める。「すべての聖なる者」とは、パウロと一緒にいる他の異邦人教会の人々であろう。聖なる愛の三位一体(父、子、御霊)のなかに、コリント教会もあらんことを祈って手紙を結んでいる。