家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

主の杯とダイモニオンの杯

2023年5月7日

テキスト:Ⅰコリント10:1~22

 

                    (4)教会からの質問に対する回答(7:1~11:1)
                          ②偶像に供えた肉の問題(8:1~11:1)
 前回まで、パウロは「福音のためにどんな事でもする」自分の熱情を語り、それが直接的には「なんとかして幾人かを救うため」であり、本来的には彼自身が宣教相手と「共に福音にあずかるため」であると述べた。彼においては、キリストの配偶者とは「多くの人々と民族からなる」エクレシア=信仰共同体であり、異なる個性もった他の兄弟との結合のなかに自分を位置づけていることが分かる。そしてスポーツにおける節制を例に取り、朽ちない冠(永遠の命)を得るためには、それ以上にの努力と精進が必要であるとし、パウロ自身が今まで述べたような努力と節制を実行している模範を示した。それは、現在得ている霊的賜物に満足しそれを誇るコリントの(強い)キリスト者達を戒めるためである。
            c.「偶像に供えた肉」を食べる危険と教会への指示(10:1~11:1)
 ここまでは、主に他者(弱い兄弟達)への配慮のため、自分の得ている霊的自由を節制すべきことを語ってきた。だがそれは、決して他者の為ではなく自分自身のためであり、霊的自由を行使し欲しいままに「偶像に供えた肉」を食べる事の危険を、改めて警告する。
(1)先祖の前例(10:1~13)
 コリントの(強い)キリスト者達は、「偶像は存在しない」という知識に基づき異教神殿での祭儀(供え物の肉を食べる集まり)に参加していた。現在は全く失われた古代的風習であるが、現在に置き換えて考えると、「国家神道は習俗である」という<ハイレベルな>理解に基づき、堂々と天皇崇拝を行い、礼拝堂にまで神棚を飾った第二次大戦中の日本のキリスト者達と似たようなものである。彼ら自身は、天皇崇拝によってキリストを裏切ったつもりではなかっただろう。むしろ、そう解釈することにより、キリスト教が日本で定着し受け入れられると思い込んだのであろう。
 同じく、コリントの(強い)キリスト者達も、異教的環境にあって異教神殿の祭儀(日本で言えばお祭り)に参加し、地域的交流を深めるのは、むしろ周囲の社会にキリスト教を受け入れさせることになる、と考えたのかも知れない。なにしろ霊的自由を得て「すべてのことが許されている」のだから、至高の知識に達した自分達は欲するままに行動して構わないと考えた。こうした傲慢さは、超人(英雄)は人倫を超える自由がある、との考えに通じるものがある。
 パウロはこうした(強い)キリスト者達に警告する。1~4節「兄弟達、次の事はぜひ知っておいてほしい。私達の先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに賊する洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました」。
 キリストに結ばれている者は、ユダヤ人・異邦人の区別なく皆「アブラハムの子孫」であるから、イスラエルのエジプト脱出と約束の地を目指す荒野の旅は、「私達の先祖」の経験である。11節「それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです」。

 ここで、イスラエルを導いた「雲の柱」は聖霊の導きに、「海を通り抜け」たことは洗礼を授けられたことの予型とされている。つまりキリスト者達が洗礼による新生と聖霊による導きを味わうと同じ霊的体験を、エクソダス世代の先祖達は味わったと言う事である。それだけではなく、荒野の旅の最中にも、岩から奇跡的に迸り出た水や、空から降るマナという<霊的な>食物によって養われた。これは、聖餐においてキリストの血と肉によって養われる<霊的な>体験の予型である。このように高度な霊的体験をした先祖達であっても、5節「彼らの大部分は神の御心に適わず、荒野で滅ぼされて」しまった。同じように、現在、霊的賜物と自由を受けていても「悪をむさぼる」ならば、キリスト者達も先祖達のように滅ぼされる。
 「悪をむさぼる」とは、具体的には次のとおりである。
 ①偶像礼拝、金の子牛を作り「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」出エジプト32:1~6
 ②淫らなこと、これは性的放縦と考え易いが、実際には異教の女と親密になり、誘われて異教の祭りに参加し、犠牲の肉を飲食(信仰しないで祭儀に参加)したことである。民数25:1~9
 ③キリストを試みる事。これは信仰生活の苦難をキリストのせいにして文句をいうことであろう。火の蛇に噛まれて、キリストを象徴する青銅の蛇を見上げて救われる体験は、民数21:4~9
 ④神に不平を言うこと。荒野の旅の間中、民はモーセやアロンに神への文句を言い通しであった。これは不幸に襲われると、熱心に信仰しているのに何故こんな目に遭うと呟きがちな私達自身の経験でもある。なお、「滅ぼす者」とはエジブトの長子達を殺した「死の天使」。出エジ12:23
 以上のように、霊的体験を味わっていても、油断すれば(不注意にも)偶像礼拝をしかねないのであるから、気をつけなければならない。12節「(信仰に)立っていると思う者は、倒れないよう気をつけるがよい」。とはいえ、パウロは自ら生み出したコリント教会の人々を深く愛していたから、厳しいことだけを言おうとはしない。13節「神は真実な方です。あなた方を耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます」と慰め、神に信頼して立ち返ることを勧める。
 イスラエルが約束の地に入るまでの40年の荒野の旅のように、此の世における教会(エクレシア)も約束された栄光に至るまでは多くの試練を経ねばならない。エジプトから脱出し、約束の地カナンに入ることができたのは、民の力や意志ではなくひとえに神の力と導きによる。神は<信実な>方である。「この神によって、神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに入れて下さった」(1:9)からには、罪と死から脱出させたキリスト者達(エクレシア)を守り導き、救いの完成へと導いて下さる神に信頼しよう。イスラエルの荒野の旅は、神に寄り縋りつつ歩む(雅歌8:5)エクレシアの旅路の予型である。
(2)キリストとの交わりと、ダイモニオンとの交わり(10:14~22)
 以上のように語り、パウロは改めて14節「偶像礼拝を避けなさい」と勧告する。8:4「偶像の神など存在しない」と高をくくり、異教神殿で供される肉を平然と食べる「霊的知識をもった」(強い)キリスト者達に、その霊的知識で、これから語ることを「自分で判断しなさい」と語り出す。
①10:16~17「わたしたちが神を讃美する讃美の杯(聖餐の杯)は、キリストの血にあずかること(キリストの血のコイノーニア=交わり)ではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」。実際には一個のパンと一杯の葡萄酒を参加した全員が分けて飲食するということではなく、一つであるキリスト血と肉(キリストの命=肉に死に、霊の体に復活された命)にあずかる霊的>な事柄を、現実の飲食で体験するのである。
②10:18「肉によるイスラエルの人々のことを考えてみなさい。供え物を食べる人は、それが供えてあった祭壇とかかわる者(コイノーニアを持つ者)になるのではありませんか」。これはユダヤ教で祭儀にかかわる(執行する)祭司とレビ人が、祭壇の供物に与ることを言っている。
 キリスト教の「主の晩餐」およびユダヤ教の祭儀において、用いられる食物は単純に物質に過ぎないけれど、それを飲食する行為は、そこで祭られている霊的存在と関係を結ぶ(コイノーニアを持つ)行為だという事である。(日本や中国でも、例えば義兄弟の契りや婚姻の契りは杯を交わして行う)。そこから考えると、「偶像に供えた肉」を祭儀に参加して飲食することは、単に物質であるお肉を食べるだけでなく、偶像と関係を結ぶ(コイノーニアを持つ)ことを意味する。
 彼は8章4節で「偶像の神などない」と認めた。だから10:19「わたしは何を言おうとしてしているのか。偶像に供えられた肉が何か意味を持つと言うことでしょうか。それとも、偶像が何か意味を持つということでしょうか」と言い、その前言を覆そうとするのではなく「偶像に供えられた肉」は物質としての食物に過ぎず、「偶像」の神像も同じく物質である彫像に過ぎないことを確認する。だが、20節「いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊(ダイモニオン)に献げている、という点なのです」。つまり、「金の子牛」や(乳房の沢山ある)「エペソのアルテミス」などの彫像は物質に過ぎなくとも、それに象徴される霊力は存在する。異教は、神ではない霊的存在(ダイモニオン)を崇拝しているという理解である。
 「ダイモニオン」は「悪霊」と訳されているが、ソクラテスの中に働いた霊もそう呼ばれているように、悪い霊だけではなく、神と人間の中間にいる諸霊を広く意味するパウロは、異教は、神ではないが人間を超えた霊力を崇拝する宗教であり、その祭儀に参加することはその霊力(ダイモニオン)と関係を結ぶ(コイノーニアを持つ)こと、つまりその配下になることである、と言っているのである。これは他人事ではない。私達も日本という多神教的社会にあって、常に偶像礼拝の危機にさらされている。国家権力を象徴する皇帝礼拝を拒むならば、日本民族繁栄を象徴する天皇崇拝も同じく偶像礼拝として拒否すべきである。大地の恵みを象徴するバアル崇拝を拒むならば、人間の慈悲心を象徴する観音崇拝も拒否すべきである。頭の中で造り上げた「抽象的存在=偶像」の陰には、常にそれを仮面として人間を支配しようとする霊力が存在する。黙示録の天使は、偉大な霊的存在であったが、パトモス島のヨハネが礼拝しようとするとそれを押しとどめ「止めよ!わたしは、…この書物の言葉を守っている人達と共に、仕える者である。神を礼拝せよ」(黙示22:9)と語っている。万物の主イエス・キリスト服従するとは、それ以下の諸力には服従しないという事である。
 従って、主の杯(主との交わり)と、主以下の霊力(ダイモニオン)との杯(交わり)を同時に受けることはできない。22節「…それともわたしたちは主の妬みを起こそうとするのか」。主は妬む程に真剣に人間を愛し給う神である。抽象的に人間の頭の中で造り上げた存在ではなく、歴史上に生きたイエス・キリストにおいて、人間に向き合い給うた神である。信仰とは、この御方イエス・キリストと私達の関係(交わり=コイノーニア)に生きる事である。