2023年3月19日
テキスト:Ⅰコリント8:1~13
讃美歌:234A&321
(4)教会からの質問に対する回答(7:1~11:1)
前回まで、現世の絆の代表的なものである男女の結びつきや結婚問題、および奴隷の身分などの問題を取り上げてきた。結婚は子孫を残す為の義務であるというユダヤやローマの常識に反し、パウロが独身を強く勧めたのは、終末が間近に迫っているという意識からであった。世界の終末であろうと自分の死であろうと、神の前に立つ日は近い。永遠の御国を仰ぎ見つつ生きねばならない。
今回から、「偶像に供えた肉」即ち食物規定と信仰との関わりを取り上げる。
②偶像に供えた肉の問題(8:1~11:1)
最近、時折ハラール食品を売っている店を見かける。現在でも食物規定を守って暮らしている人々が大勢いる。近代的合理主義が浸透した現代でもそうであるから、宗教が生活と深く結びいていた聖書の時代では、なお食生活と信仰の関わりは深かった。特にユダヤ教徒は、豚肉を食べることを強いられ殉教した律法学者がいたほどであり、厳格に食物規定を守る生活をしていた。
異教神殿が沢山あったこの時代、市場で流通している肉は殆どが神殿に供えた犠牲動物の肉であった。一部は犠牲として焼却し、祭司の取り分を除いた残りの大部分が市場に流通した。また神殿大祭では、犠牲の肉が無料で供された。肉は高価だったから、このような機会は歓迎された。パレスチナ以外の地では、ユダヤ人達が食物規定に叶った肉を入手するのは大変だったであろう。
一方、キリスト者はどうだったかと言えば、イエスは食物規定から自由な立場をとられたし(マルコ7:15「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もない」)、パウロも「それ自体で汚れたもの(食物)は何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています」(ロマ14:14)と書いている。しかし、パウロ以降に成立した使徒行伝15章20節いわゆる「使徒教令」に「偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血を避けるように」とあるように、この時点でもなお、食物規定にこだわるキリスト者が多かったのである。
しかし、「それ自体で汚れたもの(食物)は何もない」と確信した(信仰的に強いリベラルな)キリスト者の一部は、その霊的知識(グノーシス)を誇り、これ見よがしに堂々と市販された「偶像に供えた肉」を買い、また、「食物は食物に過ぎない」という信念から異教神殿で供される肉を食べる事もあったようだ。当時、ある神殿の祭儀で供される肉を食べることは、その神(偶像)を崇拝することであると考えられていたから、こうした態度は、なお先祖伝来の食物規定を守っているユダヤ人キリスト者、および最近異教から改宗したばかりの異邦人キリスト者に衝撃を与えた。
こうして、「偶像に供えた肉」を廻り、コリント教会の中に戸惑いと混乱が生じ、パウロに相談してきた。相談してきたのはおそらく教会のリーダーである(強い)キリスト者達だったのだろう。「それ自体で汚れたものは何もない」と言う知識を、他の信徒達に理解させ、混乱を収めるにはどうしたらよいか尋ねてきたのではないか。
食生活は信仰に深く関わっている。パウロは既にアンティオキア教会で、「異邦人と同席の食事」問題で、エルサレム教会の政治状況に配慮せざるを得なかったペテロやバルナバと、別れなければならなかった辛い経験がある。だが、それは「(神の前に)ユダヤ人も異邦人もない」という福音の本質に関わる事であったから、パウロはどうしても妥協ができなかった。教会は、キリストの民として「ユダヤ人も異邦人もない」一つの群れであるべきである。
異邦人とユダヤ人からなる教会の一致を守る為に(一定の食物規定を条件に割礼は不要とする)「使徒教令」が出されたのである。だがパウロは、ここでそれを持ち出していない。エルサレム会議といっても、エルサレム教会側数名とパウロらアンティオキア教会側数名の打ち合わせ程度のものであり、後代の教会会議のような権威はなかったのである。各自、それぞれの教会で信徒達を指導しなければならなかった。パウロはまず、行動の基準から語り出す。
a.行動の基準。知識と愛(8:1~13)
1~3節「偶像に供えられた肉について言えば、『我々は皆、知識を持っている』ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです」。(ここでいう<知識>は、「それ自体で汚れたものは何もない」という霊的知識である。)
パウロは『我々は皆、知識を持っている』という強いキリスト者らの主張に同意する。それは前提である。だが、単なる霊的知識は、人を高ぶらせ(神と人間仲間から孤立させる)。これに対し、愛は(霊的な成長や徳を)造り上げる。
霊的知識を、自分が獲得した一般的知識のように誇ることは、神からの賜物であることを忘れた思い上がりであり「高ぶり」である。即ち、<自分>が何か知っていると思うことは、(知識は神の賜物だという)知らねばならない事をまだ知らないのである。
一方、諸々の霊力や律法から自分を解放し、霊的知識を与えて下さった神に感謝する人は、賜物よりも、恵み深い神御自身を愛する。これが3節の「神を愛する人」である。そのような人は、ヨブが神を愛する者として神に知られていたように「神に知られている」。また、神を愛する人は、神が愛し給う者達(兄弟達)をも愛するから、その人は教会の一致を「造り上げる」。
こう言ってパウロは、行動の基準は何よりもまず神と兄弟たちへの愛であり、単なる霊的知識ではないと、知識の限界を示す。その上で、次に霊的知識の内容を明確にする。
4節「…世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外に如何なる神もいないことを、わたしたちは知っています」。これは、八百万の神々や霊力に縋るヘレニズム世界、および現代世界に対する大きな解放である。ここまでは、イスラエルの唯一神信仰と共通している。キリスト教信仰に特徴的なのは、6節後半「また唯一の<主>、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです」である。
この<主=キュリオス>は「神」と殆ど同義であるが、ある専門分野を司る「神」としての名称であり、多少一般的神概念より狭い意味のようである(例えば、ある民族や職種の「主」など)。パウロは、この主=キュリオス概念を用いて、異教世界とはまったく異なる「万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在している」との深い霊的認識を示す。御子が、唯一の<主=キュリオス>であり、万物の存在を保ち司っておられる。「わたしたち」キリスト者も、この<主>イエス・キリストによって、彼を頭とする「神の民」として存在している。魚のマークが表す「イエス・キリストは主である」は、この「キリスト唯一主」信仰の告白を象徴している。
7節「しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません」以下は、「偶像の神などはない」という知識を持たないまま「偶像に供えた肉」を食べれば、自分の良心に反する事を行うことだから罪を犯すことになる、という意味である。同じ行為が、信仰的知識の有無により違ってくる。
8~9節「わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい」と、パウロは(霊的知識を持つ)強いキリスト者に勧告する。彼らの霊的自由は、弱い兄弟達に配慮し、その行使を制限する愛において、発揮されねばならない。
だが、自由に肉を食べられるのに、他人の事を考えてそれを制限するのは大変なストレスである。そこでパウロは、「あなたがたのこの自由な態度が」重大な結果となる例を持ち出して説明する。10節以下、強いキリスト者が偶像神殿で食事するのを見た弱いキリスト者が、それに誘われて信仰的知識なしに同じ事をしたら「偶像崇拝」の罪を犯すことになる。キリストは、この弱い兄弟に代理して死なれたのではないか。これはキリストへの裏切りであり、罪である。「これら小さな者の一人を躓かせる者は、石臼を首に懸けられて海に投げ込まれる方がはるかによい」(マルコ9:42)。
13節「それだから、食物の事がわたしの兄弟を躓かせるくらいなら、兄弟を躓かせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」とまでパウロは言って、勧告を強めている。
勧告するだけではない。パウロが自分の自由をどのように行使しているかが、次に語り出される。