家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

奴隷問題続き、および終末時の生活

2023年3月5日

テキスト:Ⅰコリント7:25~40

讃美歌:280&294

                    (4)教会からの質問に対する回答(7:1~11:1)
                                   ①現世の絆(7:1~40)
 前回は、永遠を見据えた現世的生活態度の原則として「おのおの召された時の身分のまま、神の前にとどまっていなさい」と命じ、その原則から(1)大切なのは「神の掟を守ること」であり、割礼の有無(ユダヤ人か異邦人か)ではないから、召された時の状態のまま変更せずにいるべきこと事、(2)召された奴隷は「主によって自由の身にされた」のであるから、奴隷である事を悩まず受け入れ、同様に、自由人であっても「キリストの奴隷」であると自覚すべき事、を教えた。
c.召された場で-2
 奴隷が自由になる機会について翻訳が別れる(新共同訳「自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい」、口語訳「しかし、もし自由の身になりうるなら、むしろ自由になりなさい」と反対に解釈している)。前回は、どちらか一方に固定せず、オネシモの例に見るように、信仰に相応しい態度でその(自由になる)機会を用いなさいと言う意味にとった。
 だが、これは奴隷であることを信仰上問題に感じて相談してきた相手に対し、どっちつかずの曖昧な返答になってしまう。パウロは相手がどう対応すべきかすべきかハッキリ分かるように答えたはずである。そこでもう少し考えを深めて見た。
 奴隷はその主人が異教徒で信仰に理解がなければ、礼拝活動に参加することさえ困難である。場合によっては異教の祭儀に参加や奉仕することを強いられる事もあっただろう。一方、ローマの奴隷は近代の黒人奴隷とは異なり、終身を奴隷として過ごすことは稀であった。永年の忠勤に対する褒賞として30才前後で解放される事が殆どだったそうである。裕福な家の奴隷は、日雇い労働者のような下層自由人より生活は上であり、また「○○の家の者」として家長の保護下に置かれたたから、解放されてもそのまま主人の家に留まって仕えるのが普通であった。異民族がローマ社会に溶け込むに役立つシステムである。主人が高官なら、その解放奴隷は側近として立身出世もできた。パウロの裁判に関わった「総督フェリクス」(行伝24章)も皇帝の母の解放奴隷だったそうだ。
 従って信仰上から奴隷であることを悩んで主人に逆らうよりも、むしろ奴隷として従順に仕え、思い煩わないでいるよう、パウロは指示したと考えられる。旧約聖書に登場するシリアのナアマン将軍は、イスラエルの神を受け入れたが、主君が偶像にひれ伏す時、その配下として自分もひれ伏す身分上の義務があり、エリシャから許可を受けている。それと同様に、解放されるまでは辛抱して主人に従い、解放の機会が来たら「むしろ自由になりなさい」と口語訳のように解釈する方が、後の23節「あなたがたは代価を払って買い取られたのだ。人の奴隷となってはいけない」とも合うし、相談者への回答としても適切である。新共同訳のように、解放される機会がきても「むしろそのままでいなさい」というのは筋が通らないように感じる。以上、前回の補足まで。


d.終末の時に生きる(7:25~40)
 今回は、再び結婚問題である。結婚については、7章1節~16節で既に取り上げたが、それは自分で結婚か独身かを選べる成人に対してのものである。ここで取り上げるのは、自分で結婚するかどうかを選べない「未成年的未婚の乙女達(パルテノス=処女の複数形)」の扱いである。当時の市民階級の婚姻は、家長または家同士で取り決めるものであった。乙女マリアがヨセフと婚約していたように、通常は娘達がまだ子供のうちに婚約が取り決められた。封建制時代の中国や、日本でも身分の高い武家や公家階級にあったような制度である。但し、婚約を履行し、結婚するかどうかは婚約相手の男または親権者次第である。パウロは、このような乙女達の扱いについて、親や婚約相手の男性から相談を受けたのであろう。結婚しない限り親から独立できないのだから、娘の独立と幸せを願う親や、相手の人生に責任がある男にとって、判断に迷う事柄であった。回答は、乙女達本人へではなく、その婚約者である男性または親権者に対するものである。
 パウロは、彼女らについて主の命令を受けていないことを告白する。だが、聖霊に満たされた使徒たる者の権威をもって、彼自身の考えを述べる。読者も想像がつくように「おのおの召された時の身分のまま」の原則に従い、そのまま(パルテノス=処女のまま)が望ましい。ちなみに既婚者も独身者も、今あるそのままの状態に留まる事が望ましいのである。
 その理由は、終りの時の危機が切迫しているからである。当時、最後の審判が行われる終末時には、世界が崩壊する大災害が起きると信じられていた。現在の私達には、「終末時の危機(カタストロフィ)」といってもピンと来ないが、実際には戦争や災害などで「この世の終わり」を体験する人々がいる。だが、自分自身に迫ってこない限り、日常は相変わらず続いていくと暢気に信じ「娶ったり、嫁いだり」して生活し続けているのである。
 しかし、福音を告げる使徒としての目は、現在の日常的生活の中に、既に神の裁きが進入していることを直視している。イエスの死と復活が、神の裁きと救いの成就である以上、それを知らせる福音の告知(宣教)は、そのまま神の裁きと救いをもたらす事だからである。イエスの死を自分の為の代理的死として受け入れる者は、赦しと救いに与り、イエスを拒む者は裁きを受けて永遠の滅びへと渡される。だから使徒は、その宣教において(福音に接する)人間に対する裁きが行われる様を、ありありと見る。肉において生きる生活は瞬く間に過ぎ去り、全ての人が神に直面しなければならない。例えカタストロフィのような一斉に来る「この世の終わり」でなくとも、肉における人生の終わりは確実に到来する。私達はそれぞれ個別に、「終りの日」に生きているのである。
 29節~31節、有名な「今からは、妻を持つ者は持たない者のように、泣く者は泣かない者のように、喜ぶ者は喜ばない者のように、買う者は持たない者のように、世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである。なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからである」との言葉は、現世での生活を軽視するのではなく、神の前にそれらを相対視するのである。仕事や愛情に恵まれ、充実した人生を送ろうとも、挫折を味わい焦燥と孤独の中に人生を終えようとも、どちらにせよ、自己評価ではなく神の裁きと評価に、身を委ねるのである。32節、パウロは(信徒らが神からの評価を忘れて、瞬く間に過ぎゆく現世にのめり込み)現世の絆を思い煩わない事を願う。
 だが、32節後半からの、「未婚者は主の事柄に気を配り、どうにかして主を喜ばせようとする」とか、配偶者のある者はどうにかして配偶者を喜ばせようとする、とかの言葉は、実感とはかけ離れている。若い未婚者も恋に悩んだり、将来の生活について思い煩うし、既婚者も配偶者を喜ばせようとするかどうか怪しい。だがパウロは、経験からではなく「あらゆるものを見通す」聖霊によって、愛欲(異性との関係)が人の心を捉え支配する力を知っており「その為に(主のことと、現世の事とで)心が割れる」事を心配するのである。
 しかし彼は、信徒達を拘束しようしてではなく、ただ、現世の絆に妨げられずに、主の許に堅く留まることを願って、そう言うのである。その上で、(男は)許嫁を娶らずおき、(親は)娘を嫁がせず置くことを勧める。だが、結婚したり嫁がせたりしても、罪を犯すことにはならないと認める。
 36節「相手の娘に対して、情熱が強くなり、<その誓い>にふさわしくない振る舞いをしかねない」とある<その誓い>とは、婚約の誓いではなく、信仰的熱心から貞潔を誓った場合の「独身or貞潔の誓い」と解釈すると分かりやすい。アウグスティヌスも回心後そのように信仰的貞潔を誓い、婚約していた乙女にその旨を伝えている。現世的栄達や愛欲を捨て、信仰に集中する生き方を選択したのである。現在では難しいが当時はそれを許容する社会的環境があった。信仰的貞潔は望ましい。だが、無理にその誓いにこだわらず結婚しても36節「罪を犯すこと」ではない。
 夫に死別した「寡婦」は、一度結婚し親から独立した以上、身の振り方を自分で決められる。独身が望ましいが、経済力がないなど独身を貫くのが困難であれば、再婚しても構わない。但し、相手は信仰を同じくするキリスト者を選ぶべきである、とする。以上の彼の意見が「神の霊に従うものであると信じる」と、わざわざ付け加えるのは、禁欲主義的グノーシス派を意識するからであろう。
 現在の私達には、7章で語られている問題はやや縁遠い。だが、ここで表明されている永遠である神との関わりにおいて、人生を考える視点は重要である。私の存在の意味を知り評価し給うのは、私をこのような存在として創造された神である。神の望み給うまま、召し給うままに、自分の場において神を讃美し感謝すべきである。「目標に向かって身体を伸ばしつつ走り」、だが最後は神に信頼して身を委ねること、これが幼子のような素直な信仰ではないだろうか。