家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

召された場で

2023年2月19日

テキスト:Ⅰコリント7:17~24

讃美歌:84&388

     (4)教会からの質問に対する回答(7:1~11:10)                                         
                                ①現世の絆(7:1~40)                    
  前回は、現世的絆の代表的なものとして男女関係、すなわち性欲への対応および結婚か独身かの選択、等を取り上げた。今回は、キリスト者の現世の過ごし方についての原則的考えを取り上げ、その原則から割礼問題や奴隷という身分的束縛にどう対応すべきかが語られる。
c.召された場で(7:17~24)
 前回の終りで取り上げたが、洗礼において唱えられた定式「キリストの中へのバプテスマされた人は皆キリストを着たから(神の子)である。ユダヤ人もギリシャ人もない。奴隷も自由人もない。男と女はない。あなたがたはみな一人だから」(ガラテヤ3:26~28)において、全てのキリスト者は、キリストにバプテスマされて「一つの身体」になり、神の前に何の差別もない事を実感したであろう。だが、現実の日常生活においては、相変わらず男や女、ユダヤ人や異邦人、奴隷や自由人などの区別or差別の中に生きねばならない。そうした違いが信仰によって霊的に克服された事を、外面的にどう表現して生きるべきであろうか。
 夫と妻の問題を論じ終えたパウロは、17節で総括的に「各々、主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい」と命じ、「これは、全ての教会でわたしが命じていることです」と付け加え、命令を強めている。これは文語(改訳)訳では「唯おのおの主の分かち賜うところ、神の召し給うところに循(したが)ひてあゆむべし」とあるから、社会制度的身分だけでなく、入信した時点で置かれて居た状況を変更せずそのまま維持しなさい、という意味に解釈できる。これは、差別に苦しんでいる被抑圧階級、すなわち女性や奴隷達などにとってかなり保守的で抑圧的に聞こえる。また、宗教を「民衆の(不満を抑える)阿片」とする(支配階層の)態度とどう違うか疑問となる。
 この命令の具体的内容としては、割礼を受けた者が召されたなら、その跡(割礼の跡)を無くそうとしないこと。(この背景には、当時のコスモポリタンヘレニズム世界で割礼のあるユダヤ人は、軽蔑と差別の対象であったことから、手術でその跡を消そうとする試みがあったのである)。逆に、無割礼の者は割礼を受けようとしないこと。奴隷の身分の者が召されたなら、奴隷であることについて思い煩わないこと。(解放される機会があった場合の対処は、翻訳によってA.むしろ奴隷に留まる(新共同訳)、B.機会を利用して自由になる(口語訳)、と全く異なる。後で検討する)。
 ①の割礼の有無については分かりやすい。19節「大切なのは(割礼の有無ではなく)神の掟を守ること」だからである。(ここに言う「神の掟」は、「己が義を建てんとするための」律法ではなく、主イエスが最も大切なことされた「神を愛し、隣人を愛する」という愛の掟である。)
 問題となるのはの奴隷についてである。これは割礼問題とはまったく異なる。奴隷のように屈辱的な人権制限を受ける状態から解放され、自由の身を望むのは当然であろう。だが、新共同訳のように解釈すれば「神に召されたときの身分のままで歩みなさい」ということは、人間性に反してまで奴隷の身分に留まれと言うことなのだろうか?21節の、自由となる機会について、解放されるべきか奴隷に留まるべきか、翻訳が分かれるからである(A.新共同訳「自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい」、これに対しB.口語訳「しかし、もし自由の身になりうるなら、むしろ自由になりなさい」、と全く反対に解釈している)。
 私達としては、パウロは解放されよとも奴隷に留まれともどちらか一方の態度を固定して命じているのではないと解釈したい。何故なら、まず最初に21節「召された時に奴隷であった人も、その事(奴隷であること)を思い煩ってはならない」とあり、これが原則であり、自由となる機会があることは特別な状況だからである。自由となる見込みがないか困難な場合、パウロが言っている原則は、奴隷状態を受け入れることである。22節「というは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた」からである。これは、現在の苦しみにおける慰めであり、励ましでもある。根源的束縛である「罪と死」から解き放たれた以上、今生においての肉体的身分的束縛が何程のものであろうか。人は皆、自分の限界(貧困・能力その他)や運命に苦しみつつ生きているのである。
 現在は奴隷制度は存在しないが、例えば身体障害や難病・虚弱体質など、自分の力ではどうすることもできない束縛や重荷は残っている。「何故、自分はこうなのか?」との問いと嘆きを発するのは、奴隷や身体障害者達だけではない。「主によって自由の身にされた」とは、肉におけるそのような苦しみや限界から解き放たれた事でもある。復活の主の栄光に与る約束を受けたからである。その希望を抱いて喜び、現世での身の上を、主に感謝しつつ受け入れるならば、ヨハネ伝の先天的盲人に語られたように、それらの束縛や重荷は「神の栄光を顕わさんが為」のものに変化するのである。召されたキリスト者にとって、何よりの関心事は自分の苦境ではなく、救いに与った感謝として、この「神の栄光を顕わ」す事でなければならない。
 さて、特別な状況である(自由になる)「機会」についてであるが、あえて奴隷に留まるか、その機会を利用して自由の身に成るかどうかは、その機会を「神の栄光を顕わさんが為」に用いること次第によって決まり、どちらか一方の態度を固定して勧告しているのではないと解釈したい。神の国の到来が、現世的ローマ帝国を廃して(ユダヤ民族主義者が期待したように)イスラエル神政帝国を樹立することではなかったように、「主によって自由の身とされた」ことは、決して奴隷制度に反対する革命や奴隷の叛乱を起こすことではない。即ち、キリスト信仰はそのまま現在のアイオーンの枠組内の現世的社会変革に結びつくのではなく、到来しつつある新しいアイオーンに属するのである。だが、キリスト者の持つ、神の前に「ユダヤ人もギリシャ人もない。奴隷も自由人もない。男と女はない。あなたがたはみな一人だ」という意識は、古代的奴隷制や、女性を男性に従属させる家父長制を崩壊させていく。
 しかし、ここではパウロの考え方の具体的実例として、コロサイ教会員ピレモンとその奴隷オネシモのケースを取り上げてみよう。
 オネシモは主人ピレモンから逃亡した奴隷であった。おそらく取引を任され出向いてそのまま行方をくらましたのであろう。脱獄犯のような逃亡は一文無しだが、金銭を託され取引を任された場合、誰かの奴隷としてではなく、名前を変えて自主の人間として商売することができる。映画「ベン・ハー」の家令シモニデスも、そうしてハー家の財産を別名の下で隠し通すことが可能だったのであろう。だから頭を使えば、人脈やコネを作り都会に紛れ込んで自由人として生きることも出来た。そんな彼がエペソの牢獄に収監されていたパウロの宣教に触れ、入信してキリスト者となった。彼は自分の偽りの身分を告白した。パウロは、彼を元の主人ピレモンに送り返し、新約聖書に残されている「ピレモンへの手紙」を託した。すなわちオネシモは(1)「自由となる機会」を、信仰に基づく信念(所有権の尊重)によって放棄し、処罰覚悟で主人の下に帰ったのである。彼は有能であったから、そのままパウロに仕えることも可能であっただろう。(オネシモという名は、「役立つ者」という意味があり、奴隷に多い名であった。後に、教会監督になったと言い伝えられているから、彼は知的にも優れた人物であったと思われる)。しかしピレモンは彼を赦しただけでなく、改めて彼を解放し自由とした。オネシモは今度は(2)「自由となる機会」を利用し、自由の身となってパウロの宣教に仕え献身した。従って彼は「自由となる機会」を一度は(1)信仰によって放棄し、また次の機会には、(2)信仰に仕えるために用いたと言う事ができる。
 このように、22節にある「キリストの奴隷」であることは、現世における束縛や環境から人間を解き放つ働きをする。23節「(キリストの贖罪という高価な)身代金を払って買い取られた」のだから「(自己追求する、罪に拘束された人間性という)人間の奴隷」になってはならないのである。
 24節「おのおの召された時の身分のまま、神の前にとどまっていなさい」とは、オネシモの例に見るように、「キリストの奴隷」らしく、あらゆる自分の状況を主に仕える為に用いなさいという事である。