家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

コリント書の背景

2022年9月4日

テキスト:使徒行伝18:1~17

讃美歌:181&284、

                                  コリント人への第一の手紙
                                            はじめに
 今回からコリント人への手紙を少しずつ読んで行きたい。この手紙は理論的なロマ書やヘブル書と違って、成立間もない、殆ど異邦人キリスト者からなる教会からの質問や相談に回答し、また教会の状況を指導する「実際的な」勧めである。そこには、イスラエルの信仰伝統の中で(律法による)生活様式を確立していたユダヤ人達とは違い、異教的環境や文化・社会の中から選び出された「教会」が、この世にありつつ、どのように世と一線を画し、信仰にふさわしい生活を為すべきかについて、福音による生活基準が示されている。またそれによって、福音が告知する十字架と復活の出来事の意味を、明確に描き出している。現在の私達も、当時のコリントと同様、異教的伝統文化や宗教、近代的思想や科学に取り囲まれている。この手紙から、福音が人間的思想や文化とは全く違った、「神の救いの御業」であることを、今一度、教えられたいと思う。
 本文に入る前に、まずコリント書の背景となる事柄を使徒行伝の記事を参考にして満でみたい。
(1)パウロの第二次伝道旅行
 パウロは回心後直ちに、単独でアラビア伝道をするが政治的情勢により失敗。ダマスコに戻り、その後タルソで活動していた。その評判を聞いたバルナバが、異邦人伝道を積極的に行っていたアンテオキア教会に彼を迎え入れ、大いに伝道の成果を上げた。またアンテオキア教会から派遣される形で、バルナバと共に第一次伝道旅行(南ガラテヤ地方とキプロス)を行った。
 だが、異邦人キリスト者が増加するにつれ、ユダヤキリスト者との間に律法の取扱について軋轢が生じた。異邦人改宗者の割礼問題については、エルサレム会議で一応の妥協を得たが、まだ異邦人との会食規定等の問題が残っていた。エルサレム教会の人々がアンテオキア教会を来訪した際、ペテロやバルナバがそれまで行ってきた異邦人との会食を取りやめた。おそらくアンテオキア・エルサレム両教会の団結の為の配慮であろう。だがこれは、イエスの十字架が各人の「業による義」からの解放であることに背くき、福音の本質に関わる問題であった。パウロは一切妥協せず、AD49年頃アンテオキア教会と袂を分かち、シラスと共に第二次伝道旅行(ギリシャ)を開始した。母教会の人的・金銭的支援のない独立伝道であったが、彼はもとより最初から「人々によってでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストによって」召された使徒であり、回心以来そのような者として働いてきたのである。
 この伝道旅行でテサロニケにかなりの期間滞在し、教会を設立。シナゴーグ側の騒乱によって脱出し、ペレア伝道をする。テサロニケのユダヤ人達がそこまでも追ってきたので、南のアカイア州に逃れ、古都アテネに入る。
 シナゴーグ側に追われ逃亡を続けながらも、パウロは残してきたテサロニケ教会を心配し、AD50年頃、手紙(テサロニケ書)を書き、シラスとテモテを派遣した。だから、古都アテネ伝道、およびそれに失敗してコリントに入った時には協力者なしの単独行動であった。
 コリントは(古代ギリシャアカイア同盟の盟主としてローマと戦ったが、BC146破れて廃墟となっていた。だがBC44、東西海上交通の要となるこの地は、ローマ植民都市として再建された。このような新興都市には、故郷を追われたり、故郷を持たない解放奴隷のような者達が、言わばアメリカンドリームのような夢を抱いて集まってきて、瞬く間に発展し、BC27にはアカイア州首都となった。パウロの時代には東洋と西洋の中継地として、経済・文化・宗教の点で当代随一の繁栄した新興都市となっていた。あらゆる民族が流入し、多くの宗教、多くの神殿があり、また哲学諸派教師が跋扈していた。行伝17章のアテネの状況はそのままコリントに当てはまる。だが知的伝統を誇るアテネと異なり、伝統を持たないコリントの人々は人々は宗教の溢れる中で、心の拠り所に迷うものがあったのではないだろうか。
 彼はまずシナゴーグから宣教を開始するが、幸いなことにそこでアキラとプリスキラ夫妻と出会う。彼らはラビとしてローマのシナゴーグで積極的にキリスト信仰を伝道し、そのためにユダヤ人達の騒動が起きた。治安維持上、クラウデオ帝がユダヤ人ローマ追放令を発令。アキラ夫妻は騒動の元凶として追放され、コリントに来ていた。パウロは彼らから、帝都ローマでのキリスト者達の状況について情報を得たであろう。
 ユダヤ教のラビは、神殿に頼らず聖書(律法)研究をするために手仕事を身につける習わしがあった。パウロはアキラ夫妻と同じテント職人(テント製作は当時貴重な技術であった)だったので、彼らの家に同居し、自ら生計を立てつつ宣教活動を行った。シラスとテモテがマケドニア州からの献金を携えてきてやっと、手仕事を止めて「御言葉を語ることに専心」できたのであった。
 コリントのシナゴーグでの活動は非常な成果を上げたが反発も激しかった。そこでシナゴーグと訣別し、「神を崇める異邦人」ティティオス・ユストの邸に活動の場を移し、そこで集会を行った。なお、ロマ書を執筆時点(AD56)で、パウロとコリント教会全体がガイオの家に世話になっているとある(ロマ16:23)。ユストがこのガイオと同一人物(Gaius Titius Justus=ガイオ・ティティオス・ユスト)の説もある。いずれにせよかなり広い邸宅で、信徒達全体を受け入れて集会を行う事ができたのであろう。その家はシナゴーグの隣にあったというから、シナゴーグにはひどく目障りだったに違いない。
 だが、会堂司クリスポはじめシナゴーグの有力者達が多く回心しこの集会に参加するようになり、コリントのユダヤ人及び異邦人社会に多大な影響を与えた。アキラ夫妻およびシラス・テモテらの協力も大きかった。パウロは、コリントに1年半滞在し、(異言などを語るような)霊的に非常に活発な、主に異邦人改宗者からなる教会が誕生した。
 この集会では、ユダヤ人・異邦人が同席し会食等を行った。これは明らかに律法違反であり、しかも影響が大きいとなると、シナゴーグ側の反発も激しくなる。パウロを捕らえ、アカイア州総督ガリオ(任期AD51~52)に、「律法に背いて神を拝むように唆している」と訴え出た。おそらくキリスト信仰を公認宗教ユダヤ教から外し、弾圧される非公認宗教と認定させる狙いがあったのだろう。しかし総督は、これをユダヤ教内部問題とみなし、取り合わなかった。憤激したユダヤ人達は、シナゴーグ側責任者の会堂司ソステネ(クリスポの後任?)を捕らえ、法廷の前で殴打する騒ぎとなった。だが総督はその騒動を放置した。各地で騒動を起こすユダヤ人達が、教養あるローマ人から軽蔑を含んだ冷ややかな目で見られていたことが伺える。
 なお、第一の手紙の共同発信者にソステネの名がある。コリント教会で知られていた人物であろう。(殴られた)会堂司ソステネと同一人物かどうか不明だが、もしそうなら彼も事件の後でキリスト者になったことになる。教会がコリントでかなりの勢力となったことが分かる。
 パウロがエペソを経由してアンテオキアへと去った後、アポロがコリント教会で活動している。
(2)書簡執筆の事情
 パウロとコリント教会の間に複数回手紙のやり取りがあったが、残されているのは現在の形の第一及び第二の手紙だけである。第一の手紙が執筆されたのは第三次伝道旅行でエペソ滞在中の53~55年頃(1コリント16:8)。第二の手紙はマケドニアから送られている。第一・第二の手紙の間には、大変不幸な結果に終わったコリント訪問(Ⅱコリント2:1~)と、所謂「涙の手紙」がある。パウロは、(主の来臨を待望しない)グノーシス的熱狂主義との戦いの中でこの手紙を書いたのである。
 以上、具体的には本文を学ぶ中で取り上げていきたい。
 なお、手紙の内容には現在の私達にはなじめない、古代的な家族制度や結婚問題・ファッションなどが含まれている。そこで、それらを回避し、「十字架の言葉」とか「復活について」とか項目別に取り上げることも検討した。だが、それでは現時点での恣意的価値判断が優先されてしまう。やはり従来通り、書かれているとおりの順番で読んでいくべきであろう。次回から、本文に入る。