家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

罪を赦す権威の付与

2022年5月29日

テキスト:ヨハネ伝20:21~23

讃美歌:499&191

                        B.救済者の天への帰還(13:1~20:31)
                                           
2.受難と復活(18~21章)
20章(イエスの復活と弟子達への顕現、福音書の目的)
(1)イエスの復活と弟子達への顕現(20:1~29)
 b.弟子集団への顕現(20:19~29)
①閉じこもった弟子達への顕現(20:19~23)-2
 前回は、①ユダヤ人を恐れて閉じこもっていた弟子達にイエスが顕現されたこと、②弟子達が「主を見て喜んだ」こと、そして③イエスが「あなた達に平安があるように(シャローム」ともう一度言われ、「父が私を遣わされたように、わたしはあなた達を遣わす」と言ってから彼らに「」を吹きかけて「聖霊を受けなさい」言われたこと、迄を学んだ。
 今回は、ここをもう少し丁寧に取り上げてから先に進みたい。
 イエスが「」を吹きかけたことは、勿論、弟子達に「聖霊」を付与したことを意味する。だが、単に顕現された方の動作を示しているのではなく、聖霊付与一般を表現していると解釈したい。聖霊付与は、使徒行伝のペンテコステ記事のような激しい聖霊降臨もあれば、マグダラのマリアのように顕現された「主を見る」ことや、現在の私達のように話を聞いたり書物を読んで信仰に入ることまで、幅広く色々な形式がある。どのような形であれ、イエスを「」と認識し告白することは、聖霊がなさしめて下さるのである。例え微かな火花のような信仰(聖霊到来)であろうとも、主は「限りなく御霊を賜う」のであるから、大きく燃え上がる可能性を秘めている。悪魔は何としても信仰の火花を消そうとする。だが、主は絶えず油(聖霊)を注いで信仰の火を燃え立たせて下さるのである。だから、「主イエスよ、来たりませ」の祈りは、終末時の再臨だけでなく、現在ここに、聖霊の形での主の来臨を乞い求める祈りなのである。
 ヨハネ伝は、ペンテコステ聖霊降臨)をこのように一般的な形で表現した。その場で聖霊が付与された弟子達も、十二弟子に限られていない。おそらく、十字架の下にいた女達や愛弟子、その他の弟子達も居合わせていたであろう。十一使徒達に限らず、イエスを主と告白する信仰者全部が、「父が私を遣わされたように、わたしはあなた達を遣わす」との派遣命令を受けていることを強調するのである。
 共観福音書にもマタイ伝のように、派遣命令が記されているが、ユダを除く十一弟子(使徒)が主な対象であるようにも読める。これは、教会組織が貧困層を扶養し、かつ内部での論争や対立、外部からの迫害を克服し、組織の統一を保つため、使徒の権威を用いる必要があったからであろう。ヨハネ共同体は「信仰運動」のような緩やかな組織であったから、そのような必要はなく、派遣命令の対象を聖霊を受けた弟子達=キリスト者一同としている。また、それによって宣教の任務と権威を、使徒系教会だけではなく自分達も受け持っているとの主張をしているのである。現在の私達には、国家宗教の時代のような教職者と平信徒を峻別する考え方よりも、むしろこのようにキリスト者全てが派遣命令を受けているとする考え方がよりふさわしいように思える。
 では、主から派遣されたということは、どのような事であるかを考えて行きたい。
 「聖霊」はそれを受けた者に永遠の命をもたらすだけではない。「聖霊」が復活のイエスの霊である以上、それを受けた者はイエスの身体の一部、すなわち「肢体」や「」に例えられるような存在となる。すなわち、主の「肢体または枝として、地上でイエスが行われた業を行うことである。弟子達をガリラヤの村々に派遣された際、イエスが命じられたように「病めるを癒やし、死人を甦らせ、貧しい者に福音を伝える」等のことである。

 だから「聖霊を受ける」ということは、神が世にイエスを派遣され、イエスが働かれたように、信仰者が地上でイエスの業を継続することである。これを、単に狭い意味の「福音宣教」とだけ解釈する必要はないであろう。自分がいるその場所において、勿論、自分の能力の範囲であっても、主の御意志に従って働くことである。
 だが、主は既に復活し一切の権威をお持ちになっておられるのだから、もし、完全にイエスの霊(聖霊)に信頼し委ねきることができるならば、ペテロのように「タビタ、クミ」と叫ぶと(イエスの霊が叫ばせたのであるから)、死んでいたタビタが蘇生した(行伝9:36)ように、「死人を甦らせる」ことさえできる。自分を権威づけるのではなく、それを見た者達が神讃美するためである。
②罪を赦す権威の付与(20:23) 
 派遣命令に伴い、弟子達・キリスト者達に付与された権威は非常に大きい。23節「誰の罪でも,あなた方が赦せば,その罪は赦されたものとなる。誰の罪でも,あなた方が留めるならばその罪は留められたままになる」という罪を赦したり裁いたりする権威である。中風の者の癒し奇跡で、「あなたの罪は赦された」とイエスが言われると、律法学者が心の中で瀆神行為だと思った(マタイ9:3)ように、罪を赦しまた裁く権威は神御自身のものだからである。
 この権威付与は、マタイ伝(16&18章)とヨハネ伝にだけある。マタイ伝はユダヤキリスト者に語りかけているから、律法解釈用語である「解く」「つなぐ」(「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」マタイ16:19)を用い、ヨハネ伝は異邦人に語りかけているから一般的な用語「赦す」と「留める」を用いている。
 この権威を受けたのを、ペテロ(彼が代表する十二使徒や法王、または体制としての教会組織)と狭く解釈すべきではないだろう。マタイ伝がそのように使徒を権威づけているのは、教会の一致を保つためであることは、すでに述べた。ヨハネ共同体はある程度組織としての教会から自由であったから特にその必要はなく、キリスト者全部に与えられたとする。私達もそのように考えたい。
 だが、罪を赦しあるいは留める権威は、神つまり主御自身の権威である。それを地上において執行する<道具>として、キリスト者と教会に委託されたのである。譬話にある、主人の留守を託されたあの悪い僕のように、それを自分のもののように考え「自分の僕仲間を打ちたたき、酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりする」(マタイ24:49)ようなまねをしてはならない。特に、世俗の権力におもねってその悪を見逃すことをしてはならない。例えば、ドイツキリスト教会はナチスに迎合し、ユダヤ人教職者を教会から追放した。結果、戦後に激しく悔改めねばならなかった。同時に、これに反対して獄死したり激戦地に送られたりした多くのキリスト者がいたことも忘れてはならない。日本においても内村鑑三不敬事件がある。当時の教会やキリスト者達は、表だって内村を擁護するどころか、批判し、教会から閉め出したのであった。
 何よりも祈りつつ主の御意志を問い、御旨に従ってこの権威を執行すべきであろう。
 このような重い任務・権限に、誰が耐えられるだろうか。もしキリスト者・教会に宿り給う聖霊(イエスの御霊)が担って下さらなければ、不可能である。この権威を揮い給うのは、実際は聖霊(主イエス)御自身である。だが主は、御自分の「兄弟たち」を、御自分の協働者として用いようとされるほどに、彼らを愛し連帯される。キリスト者・教会は、聖霊によって、地上で主の業を行い、主の義で装いした花嫁として羔羊の婚礼(神の国の祝宴)へと導かれるのである。
 イエスは、地上で神の業を行い、そして辱めと苦しみをお受けになった。だから、主の業を為す者達は、彼らの主がそうであられたように、必ず世から憎まれ苦しみを受ける。パウロは「罵られては優しい言葉をかえし」塵芥のように見なされつつ働き、殉教の最後を遂げた。使徒達、伝道者達、多くのキリスト者達もそうであった。だが、聖霊はそれら苦難や不幸を遙かに上回る喜びを与え、慰めと力を与えて下さる。彼らは自分の痛みと苦しみを通して、主イエス御傷に触れ、そこから慰めと力を受ける。だから、パウロはこう言っている「キリストの苦しみが満ちあふれて私達に及んでいると同じように、私達の受ける慰めもキリストによって満ち溢れている」(Ⅱコリント1:5)。
 さて、弟子達は、イエスが復活してマグダラのマリアに顕現されたという報告を聞いも、喜ぶよりもむしろ彼らが主の弟子の名に値しないことを痛恨したであろう。イエスに出会ったペテロの「主よ、私から離れて下さい。私は罪深い者だからです」(ルカ5:8)という言葉が、彼らの心情を代弁している。主は、今や神の国を樹立されるだろう。しかし、まさか自分達が用いられるとは思えなかった。ただ主にひれ伏して赦しを乞いたいだけであっただろう。
 しかし、顕現された主は、彼らに「シャローム」と言われ、赦しと喜びを与え、そして御自分の御霊を分け与えて、改めて彼らを御自分の「肢体or枝」として世に派遣して下さった。イエスは、最初から彼らをそのような者と知って受け入れ、弟子そして使徒として召して下さったのである。こうして、ガリラヤの庶民であった彼らから教会は芽吹き、世界全体に広がっていったのである。

 今日はここまでにして、次回はイエス御傷に触れる事を願ったトマスへの顕現を取り上げたい。