家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

使徒の誇り

2023年4月2日

テキスト:Ⅰコリント9:1~18

讃美歌:140&261

                    (4)教会からの質問に対する回答(7:1~11:1)
                          ②偶像に供えた肉の問題(8:1~11:1)
 前回、パウロは「偶像に供えた肉」を食べる自由をもっている(強い)キリスト者らに対し「あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい」と、勧告し、弱いキリスト者達を躓かせる事は、キリスト御自身への罪であると言い切った。
 しかし、自由に食べる権利を持っているのに、他人に配慮してそれを我慢すると言うのは大変な負担である。そこでパウロは、人に勧告するだけでなく自分も率先して実践している例を説明して、理解して貰おうとする。
                                 b.使徒の模範(9:1~27)
(1)使徒の身分
 彼はまず、(強い)他のキリスト者達と同様、自分もキリストによって自由である事、その上更に使徒でもあることを強調する。1~3節「わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは主のためにわたしが働いて得た成果ではないか」。使徒たるの根拠は、勿論、復活者キリストが彼に顕現されたからであり、コリント教会の存在は、彼の使徒職遂行の成果である。ここでパウロは、コリント教会の分派の中に彼の使徒職(資格)を疑う者がいたことを思い出し、2~3節「他の人達にとってわたしは使徒でないにしても、少なくともあなた方にとっては使徒なのです。あなたがたは主に結ばれており、わたしが使徒であることの生きた証拠だからです。これが、わたしを批判する人たちに対するわたしの弁明です」と付け加える。
(2)使徒の権利、およびその放棄
 次に、使徒および福音宣教者は、宣教によって生活の費を得る権利があることを述べる。
 ペテロ始め他の使徒や主の兄弟達は、同伴した妻の分も含めて、生活費その他必要な費用を滞在先の教会から受けている。(主の兄弟達は使徒ではないが、復活後エルサレム教会に加わり、主の身内として、他の教会の指導や奉仕に当たっていた)。そうであるなら、自分で働いて自活しているパウロバルナバも、教会から生活費を受ける権利を当然持っている。(人間的常識から言っても)、兵役は公費で負担される、農耕や牧畜をする者は収穫物や家畜の乳を飲食する。また、律法にも「脱穀している牛に口籠(クツコ)をはめてはならない」とあるのは、労働する者がその分け前に与るべき事を定めているのである。だとすれば、霊的な福音を伝えた宣教者が、物質的な生活費を伝えられた者達から受けるのは過分ではない。コリント教会を訪れた他の宣教者達が、生活費その他を教会から受けているなら、教会を創設した「わたしたちパウロ、および同労者であるシラス・テモテやアキラ夫妻)」は、なおさらそうされる権利がある。(6節を読むと、パウロだけでなくバルナバも、自活していたようだ。バルナバも、手仕事をしたのだろうか?)。
 12節「…しかし、わたしたちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます」。パウロらが、この権利を行使しないのは、彼らの宣教は<キリストの福音のためであって、決して宣教者の生活の為ではない>と言う事を、誤解の余地のなく明白にするためである。その為に、自活することに伴うすべての労苦を耐え忍んでいる。宗教的な事柄を例にすれば、ユダヤ教の神殿奉仕者は神殿奉仕によって生活の資を得ている。なにより、主御自身が「働く者が報酬を受けるのは当然である」(マタイ10:10ほか)と、定められたのである。だがパウロは、この権利を何一つ利用しなかった。使徒たる自分が、信徒達に勧告するだけでなく「福音の妨げにならないため」に自分の権利をこのように用い尽くさずにいる。
 15節。以上のように模範を示したが、それは決して教会から金銭を受けたいからではない。「それくらいなら、死んだ方が…」(15節後半のこのセンテンスは未完である)。パウロはこれを言いかけて止め、「だれも、わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない」と言い直す。そして無代価で宣教することが、パウロの大切な「誇り」であることを語り出す。
(3)権利放棄の理由
  宣教すること自体は、パウロの誇りにはならない。神の言葉(預言)が、それを託された預言者を駆り立て、預言させずにおかない強制力を持っていたように(エレミア1:7「わたしのつかわす人へ行き、あなたに命じることをみな語らなければならない」ほか)、福音も、それを託された使徒や宣教者達に宣教を強制する。ちょうど奴隷が仕事を命じられたように、しなければならない。(しなければ預言者ヨナのような目にあう)。進んで行えば報酬を受けるが、そうでなくても、宣教はパウロに命じられた仕事である。では、進んで行った場合の報酬とはなにか。宣教自体に対する報酬ではあり得ない(奴隷は主人から賃金を受ける権利はないから)。そうではなく、宣教した相手から生活費を受けるという当然の権利を放棄し、無償の愛の奉仕(ギフト)として福音を伝えること、それが彼の報酬である。この「誇」りは、高ぶりを伴う「神の前で誇る」(1;29)ような「誇り」ではない。命じられた仕事をただ義務として果たすだけでなく、キリストの福音宣教の熱意にパウロ自身も自発的に参与することの証として、無代価で宣教した喜びと満足である。
 パウロを駆り立てているのは、福音の強制力だけではない。彼を使徒として召したキリストの、(パウロにおいてはキリストへの)熱烈な愛に迫られて宣教しているのである。「聖霊による洗礼バプテスマ)」とは、キリストの霊に浸されることであり、イエスの御霊が彼にあって働いておられるのである。(聖霊はよく炎に例えられる)聖霊の愛の炎が人間に宿ると、その人自身も激しく燃え上がり、両者は同じ一つの炎となる。だが人間側の愛はまずキリストへと向かい、キリストにあって神と人間を愛する。パウロの中に燃える福音宣教への熱情は、キリストへの熱情でもある。
 自分の「誇り」に触れた以上、彼は自分のこの熱情について語らずにおられない。
(4)使徒の熱情
 19節「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです」。
 ルターはここから「キリスト者の自由」についての有名な二つの命題「1.キリスト者はすべての人の上にたつ自由な主人である。同時に、2.すべての人に仕える奴隷である」を導き出している。だがこれを、すべてのキリスト者が当然為すべき行いと考える事はできない。パウロが無代価で宣教した事が、「働く者が報酬を受けるのは当然である」事を超えた自発的で「自由な」行為であったように、「すべての人の奴隷」となることも、あくまでも自由な愛の剰余としての行為である。
 「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間で頭になりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない」(マルコ10:43~44)との主の言葉は、既に当時の教会に広く伝承されていただろうから、パウロはこの文章で、(食物規定からの)霊的自由を誇る(強い)キリスト者達に、間接的な戒めを与えた、とも言える。
  しかし、ここから直接的に思い出されるのは「キリスト賛歌」であろう。「キリストは神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」(ピリピ2:6~8)。聖霊バプテスマされた者は、自分の分やスケールにおいて「主の業」を行う。ちょうど、一粒の水滴が太陽を反映し映し出すように、パウロも彼の行動において、僕となられた主の御姿を映し出しているのである。
 今日は、教会暦で言う「棕櫚の聖日」、つまりイエスエルサレム入城を果たされた記念日である。今日から受難週になり、次の日曜日がイースターである。主は「おのれをむなしうして僕のかたちをとり」人間となり、滅ぶべき人間に代理して死に、人間が永遠の命に生きるために霊の身体に復活された。彼を信じる者達は、まだ肉にあっても、分け与えられた彼の命に生きる。彼の生と死そして復活は、悉く私達人間のためである。主は、このように自由な愛において、人間の僕となって御自分を献げて下さった。主の愛と献身に、深く感謝しつつイースターを迎えたい。
 この段落の続きは、次回以降取り上げることにして、今日はここまでとする。