家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

コリントにおける不品行者の追放

2022年12月25日

テキスト:Ⅰコリント5:1~13

讃美歌:115&499

                    (3)教会内での不品行との戦い(5:1~6:20)
                                            
 前回まで、コリント教会内部の分派争いが取り上げられてきた。その根底には、キリスト信仰を他の宗教と同様に、宗教的エクスタシーや悟りを得る「道」として捉える誤解があった。(これは古代に限らず、現在でも同様である。人間性はどこまでも自己追求する。神に信頼して身を委ねる信仰は、聖霊によってはじめて可能となる。)そうした悟りや宗教的陶酔に達するには、その道の先導者が必要であったから、師事する先導者としてアポロやパウロなどを選びそれぞれ分派を形成したのであろう。また、霊的賜物(ロゴスやグノーシス)を受けたり、忘我の境地で異言を語ったりすると、もう現世の凡俗を脱し究極の境地に達したと思い込んでしまう。その境地に至った者は、一切の規範から解放され、自由に振る舞えると思うのである。(ラスコーリニコフは「超人は善悪を超越する」と頭で考え、殺人に踏み切った。だが宗教的エクスタシーは、理性の箍を越え、社会的規範を超越した徴として主に性的放縦に陥ることは、カルト宗教を見れば分かる。)
 その霊的錯誤と思い上がりが、分派争いだけでなく生活面においても不品行(不道徳)として現れてくる。パウロは分派問題に続いて、教会内に生じた不品行を戒める。
                    ①コリントにおける著しい不品行の事実(5:1~13)
a.不品行者へ裁きと集会(エクレシア)からの追放宣言(5:1~5)
 1節「現に聞くところによると、あなたがたの間に<淫らな行い>があり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどの<淫らな行い>で、或る人が父の妻をわがものとしているとのことです」。
  <淫らな行い=ポルネイア(ポルノの語源)>とは、広く「社会規範に背く性行為一般」である。この場合、父親と性的関係のあった女と同棲している事を指す。これは近親相姦とみなされ、性的に潔癖なユダヤ教だけでなく、ローマ法にも禁じられた性的タブーであった。(玄宗皇帝とその息子の嫁であった楊貴妃も同じような関係であるが、社会的制裁は受けていない。タブーや性的規範は時代や社会により変化する)。
 コリント教会に属する「或る人」は、信仰によって律法から解放されたのだからと、平然と性的タブーを乗り越え、しかもその状態を維持していたのである。キリストが十字架に死なれたのは、彼を信じる者が「肉に死に、霊に(キリストの生きる復活の霊的命に)生きる」ため、つまり罪に対して死んだ者となるためである。それだのに、かえって肉欲を欲しいままに解放してしまった。当時のヘレニズム世界では、奴隷や被征服民らの下層階級は、現世の苦しみから逃れるため宗教的陶酔・熱狂を求めて、非公認の密議宗教に走りがちであった。そうした熱狂において、性的放縦を行い(宗教儀式における乱交、その他)社会的規範を乗り越える傾向があった。初期のキリスト教も、ローマの支配層からそのような宗教の一つと疑われていたのである。コリント教会の「或る人」の行いは、キリスト信仰をそうした「宗教」と同列に置く行為であった。
 こんな状態で、コリント教会が霊的に高ぶっているのはまことに転倒した恥ずべき状態である。むしろ自分達の間にこんな不品行が生じた事を悲しみ、そんなことをした者を断固として「交わり」から追放すべきであった、とパウロは難じている(2節)。
 これは当人の問題ではなく、集会(エクレシア)に「腐れ」や「癩」が発生し、その純潔を汚したのである。神の神殿であるエクレシアが汚されたならば、直ちに汚れを除去しなければならない。この緊急事態に対し、コリント教会はその人に対する処置を曖昧にし、集会から追放する処置を自発的には断行できなかった。だからパウロは、無能な彼らに代わって(彼らの司牧として)それを断行した。3節「わたしは身体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています」。霊は時空を超越するからである。4節「つまり、わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、あなた方と私の霊が集まり」(コリント教会員の霊とパウロの霊が時空を超えた次元で集い、公の会議を開催し)、主イエスの権威と力をもって、5節「このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡した」。つまり追放を宣言した。
 「その肉=サルクス」とは、身体だけでなく人間の霊(プネウマ)を含む。つまり、生まれながらの人間的状態で(注がれた聖霊から引き離されて)、使徒行伝のアナニア・サッピラ夫妻のように処罰されたのである。罪の肉への裁きなしに、罪の赦しはあり得ない。(その為に、主は十字架に死なれたのである)。ただ、その処置は集会の「交わり=食卓や礼拝を共にすること」からの追放に留まり、後世の異端裁判どころかユダヤ教の鞭打ちにも及ばない非暴力的制裁であった。
 5節後半に「それは主の日に彼の霊が救われるためです」とあるが、それがどのようにしてであるかは、私達には分からない。ただ、終末時の主の恵みの裁きを信じるのみである。新約聖書もまだ形成されておらず、幾世代ものキリスト者の行動による証もまだ蓄積されていない初期教会において、このように霊的力による福音の証明がなされたのである。
b.過越のパンに例えた聖化の戒め(5:6~8)
 不品行者の処断とは別に、コリント教会全体も自分達の間にこのような汚れが生じておきながら、なお霊的に高ぶっている事について叱責される。僅かな量の酵母パン種)が練り粉全体を膨らませるように、汚れは全体に及ぶのである。信じる者を罪と死から脱出(エクソダス)させるために、キリストは過越の羔羊として既に屠られ、血を流されたのである。キリストが贖いとって下さった「パン種を入れないパン」つまり罪から浄化された群れであるために、まだ肉にあって生きているキリスト者・エクレシアは、絡みつく罪と戦いつつ、この世の荒野を進んで行かねばならない。
 8節「純粋と<真理>とをもって<祭り>をしようではないか」とある。<祭り>とはキリスト者であると言う「罪と死からの過越祭」であり、<真理>とは正義と真実の結合であって、頭で知るだけでなくその真理を行う事である。預言者がいう「公義を行い、慈しみを愛し、へりくだって汝の神と共に歩む」ことが<真理>である。
c.不品行者との交際についての誤解の訂正(5:9~13)
 9節に「以前手紙で、淫らな者と交際してはいけないと書いた」とあるのは、Ⅰコリント書が複数の手紙の編集であることを示している。不品行者との交際を禁じた以前の手紙に対し、それは実行不可能だと教会からの返答があったのではないだろうか。パウロは以前の警告を、教会内の不品行者を同信のキリスト者として扱ってはならないという意味だ、と誤解を正している。教会外の不品行者と一切交際しないとなれば、現世で生活できないからである。
 とはいえ、これは言うは易く行うは難い事柄である。私達が通う教会で不品行が発見された場合、それを正すことはどんなに困難か考えれば分かる。だが、教会(エクレシア)は人間的集まりではなく、主が召し集められた群れである。主御自身がエクレシアの実体であり給う以上、人間的情に従うのではなく主の戒めに従うべきである。(ジェーン・エアも、そのように決断し、愛するロチェスターから離れ、荒野を彷徨ったのであった。少し長くなるが、ロチェスターに妻がいたことが判明した時のジェーンの心中を引用する。「わたしは、神によって与えられ、人間によって認められた法律を守ろう。わたしは、自分が正気で、今のように動顛していない時に受け入れた道徳を守ろう。法律や道徳は、誘惑のないときのためにあるのではない。肉体と魂が、法律や道徳の峻厳に反逆したとき、そのような時のためにある」。)だから、弱い私達は「試みに遭わせず、悪より救い出し給え」と、日々真剣に祈らねばならない。
 12節「(集会)外部の人々を裁くことは私の務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたがさばくべきである」は、主が審判者として出現される終末時に、主と共にある聖徒達は彼と共に世を裁く。だが、それがまだ実現していない現在は、まず自分達自身の内部を裁き浄化すべきことを言う。福音が、民族を超越した新しい「神の民」を形成した以上、民族的区別ではなく、「キリストの律法」に従うことを「神の民」の徴としなければならない。それを為す力は、主から来る。
 今日はクリスマスである。ただ浮かれ騒ぐだけでなく、「キリストが、私達の過越の羔羊として既に屠られた」ことを厳粛に受け止め、浄められた者として生き得ることができるよう祈りたい。