家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

コリント教会員同士の訴訟

2023年1月8日

テキスト:Ⅰコリント6:1~11

讃美歌:2&508

                    (3)教会内での不品行との戦い(5:1~6:20)                                           
 前回パウロは、集会がその交わりの中に<淫らな者>を抱え込み除名しないでいること、つまり自浄能力を持たないことについてコリント教会を叱責した。「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい」(申命記17:2~7)とあるように、神の民は自らを浄く保つべきだからである。だから集会は、外部ではなく内部の悪い行いや悪い者を裁き正すべき責任を負う。その観点から、話題は自然にコリント教会信徒相互間での紛争に移っていく。
                        ②コリント教会の兄弟間の訴訟(6:1~11)
a.聖徒は世を裁く者である事(6:1~6)
 1節「あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者達に訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです」。
 コリント教会信徒同士で、おそらく財産の帰属問題があり、裁判沙汰になっていた。今の日本の教会でも、同じ教会の会員同士が裁判で争う等と言う事が起きたら、教会の交わりと信用を損ねる。また、大変に外聞が悪い。信仰があろうとなかろうと、通常は公権力に訴え出る前に、まず信頼できる第三者を交えて調停を図るのが当然であろう。このケースでも、まず紛争を「聖なる者達」である集会に持ち出し、集会全体で協議し、ステファナなど長老格の人物が協議と裁定を主導して解決を図るべきだったと、パウロは考えている。ところがその手続きもなく、いきなり「正しくない人々」つまり教会でじゃ軽蔑されている世俗的公権力に訴え出たのである。集会が調停者として信用されなかったのか、それとも集会自体が紛争に関わる事を避けたのだろうか。いずれにしても、コリント教会の人々の関心は個人の内面的救済に限られ、群れ全体がキリストの身体として一つであるという意識が欠如していた。
 だが、訴訟を起こすこと自体は、「淫らな行い=ポルネイア」と違って不道徳なことではない。裁判制度は、公権力の強制力を利用して強者が弱者を強奪するという不正義を阻む役割を果たし、社会的に不可欠なものである。だが、現世から召し集められた「聖なる者達=エクレシア」内部では、一般的な正義を更に上回る基準がある。
 2節「あなた方は知らないのですか、聖なる者達が世をさばくのです。世があなた方によって裁かれる筈なのに、あなたがたはささいな事件する裁く力がないのですか。わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活に関わる事は言うまでもありません」。終末時に、この世から召し集められた神の民(聖徒達)は、神に所属する群れとして神の裁きに参与する、との考えはユダヤ教黙示思想に由来する。また、当時のキリスト者の基本的考えであったようだ。マタイ19:28「人の子が栄光の座に座る時、あなた方も私に従ってきたのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治める(裁く)」や、Ⅰテサロニケ3:13「主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者達と共に来られるとき」など、新約聖書にその痕跡が残っている。
 終末時審判者は主イエスのみである。だが、モーセが一人で荒野を放浪するイスラエルの民を裁いているのを目撃した舅のエテロが、些細な事件は民の中から選び出した裁定者に委ねる事を勧めたように、聖徒達が終末時の主の審判を手伝うということであろう。その時、聖徒達は堕落天使達をすら裁く資格と権威を持つ。それだのに「聖なる者達」である筈のコリント教会が、現世的財産の帰属などという些細な日常問題すら解決できないのである。無能なだけでなく、自分達がキリストに結ばれて一体であるという意識や、世界全体の救いの見通しさえ欠けているのである。これでは、霊的賜物に恵まれ、個人として現世を超越したと「誇り=思い上がり」ながら、実生活では現世的人間と全く変わりのない有様である。最初に取り上げた分派争いも、<淫らな者>を排除できない無能さも、この訴訟の件も、根源は、救いを自分個人のものとする自己追求と「誇り=思い上がり」から来るのである。これでは、アヘン的宗教とどこが違うのか。
 パウロは、不品行に陥らないように勧告するだけではない。問題を自分達内部で処理できないコリント教会の人々を「恥じ入らせ」、既に解脱の境地にあるという人間的「誇り」を打ち砕こうとする。5~7節「あなた方を恥じ入らせるために、わたしは言っています。あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような智慧のある者が、一人もいないのですか。兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも、信仰のない人々の前で!そもそも、あなたがたの間に裁判沙汰があること自体、既にあなたがたの負けです」。つまり、裁判に訴えることは、コリント教会の誇る「智慧」が俗世の裁判官らの「智慧や判断力」に劣ることを、自ら認めることである。それで、どうして現世を超越した境地にいると「誇って=思い上がって」いられるのか。
 このように現実には現世の智慧にすら負けるコリント教会の人々を、パウロがなおも忍耐強く「聖徒達」と呼びかけるのは何故か。それは、信仰へと召され、聖霊の注ぎを受けた以上、「肉に死に、霊に生きる」途が開かれているからである。キリスト者の現状がどんなに情けないものであっても、「信仰の導き手であり、完成者である」キリストが彼らの主・牧者であり給う以上、彼らは「聖徒達」である。バラムも呪うことができなかった「神の民」として、約束の地である神の国を目指して進む希望が残されているからである。
b.キリスト者の為すべき決断とそれを可能とする力(6:7~11)
 だが問題はこの先である。争われた財産がどちらに帰属しようと、財産を得た者はそれを当然の権利と思い、失う者はそれを奪われたと感じるだろう。パウロは、奪われたと感じる者に言う、7節「…なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです」。これは、復讐を神に委ね、敵に対し善をもって悪に報いる精神であり、また「上着を奪おうとする者に下着をも与え」、「1マイルを強いられたら、2マイルを行く」精神である。人間的には不可能に見えるが、例えばミリエル司教がジャンバルジャンに銀器を与えたようなことが、実際に生じるのである。律法に強いられてではなく、自由に動かれる聖霊が、「寛容にして慈悲あり、…己の利を求めず、いきどおらず、人の悪を思わない」愛において働き、人間的に不可能な事をも喜んで行わせるからである(「人にはできなくとも、神にはできる」マタイ19:26)。主が備え給うた「パン種を入れないパン=聖徒達」は、そのように振る舞う。
 一方、財産を得る者に対し、8~9節「…あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。正しくない者が神の国を受け継げないことを知らないのですか」と言う。自分に正当な権利があるとしても、兄弟を押しのけてまでそれを主張し、利益を求めることは、聖霊の働きである「」に背き、正しくないのである。そのような者は「神の国を受け継げない」。
 パウロが語っているのは、キリスト者が遵守すべき律法ではない。人間の自由を殺す「文字」としての律法ではなく、人を活かし自由へと解放する「霊=聖霊」に従うべき事を教えているのである。聖霊が働かれるところには、律法学者やパリサイ人の義を遙かに上回る「」がある。
 9節後半~10節に悪徳の一覧表がある。その中に男色者や男娼が含まれているが、現在では同性婚が認められているのだから、全ての同性愛が悪いと画一的に考えるのではなく、愛において働く「」に従って個別に判断すべきであろう。性的関係は慎重かつ丁寧に考えるべきである。また、「人を悪く言う者」が強奪者や淫らな者と同列に置かれることに留意したい。悪口は愛を損ねるからである。
 11節「あなたがたの中にはそのような者(悪徳の一覧表に該当する者)もいました。しかし、主イエス・キリストの名と私達の神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています」。財産を争い、分派を形成し、欲望に負ける、現在まではそのような者であっても、それはキリストの贖いにより、既にエクソダスした過去のものとされている。パウロは「肉に死に、霊に生きる」希望を励ましている。キリスト者は「後ろのものを忘れ、前に向かって身体を伸ばしつつ」進むことを許されている。与えられた恵みに相応しく歩むことができるよう、祈りつつ進んで行きたい。