家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

聖霊の宮としての身体

2023年1月22日

テキスト:Ⅰコリント6:12~20

讃美歌:2&508

                    (3)教会内での不品行との戦い(5:1~6:20)
                                            
 前回は、コリント教会信徒同士の訴訟問題を取り上げた。エクレシア=集会内部は、聖霊の交わりである愛によって結ばれていなければならない。各人に注がれた聖霊は一つであり、集会全体が被造物世界に神が宿り給う神殿となっているからである。コリントは繁栄した都市として現世的享楽追求で有名であった。そのような環境に慣れ、ユダヤ人のような信仰的文化をもたない異邦人キリスト者達を、「イエス・キリストの名と私達の神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされ」た聖徒達として自覚させ成長させる為に、使徒は一から教える教師のように労苦する。当時と生活習慣や文化が違うのでそのまま現代に適用できなくとも、パウロは信仰に基づいてどのように生活すべきかを具体的に語っており、福音のもたらす現実が如何なるものかを改めて私達に教えている。今回は、性的放縦の問題である。
                                            
                     聖霊の宮(住処)としての身体(6:12~20)
a.体は主のため(6:12~14)
 12節にある「『わたしには、すべてのことが許されている』」とは一種のスローガンであり、「霊的救済に達した者は一切の現世的拘束から免れ自由である」という意味でコリント教会の熱狂主義者達が用いていた。パウロの唱えた「律法からの解放」を曲解して捉え、ギリシャ的な霊肉分離思想の影響もあって、身体的次元の事柄は霊的次元に関わりないから身体的次元で何を行っても構わないと考えたようだ。そこから、性的放縦や、食物規定の無視(食物なら偶像への供物でも汚れた肉でも何でも構わない等)の傲慢で無節操な行動が生まれていた。パウロキリスト者であることが自由をもたらすことを否定しない。だが、その自由がどの方向への自由であるかが肝心である。欲望を解放する自由であるならば、それは直ちに欲望に縛られ奴隷状態に逆戻りすることになるから、「しかし、すべてのことが益となるわけではない」と言う。
 確かに、聖霊は人間を自由へと解き放ち、押しつけられたのではなく自発的な心の赴くままの行動を生じさせる。しかしそれは、必然的に神の御心に叶う(人間に益となる)方向の振る舞いであり、神に逆らい人を滅びに導く方向へは決して向かわない。
 もう一度「『わたしには、すべてのことが許されている。』」と繰り返し、「しかし、わたしは何事にも支配されはしない」という。聖霊によって与えられた自由は、欲望に従う自由ではない。欲望に従えば、それに隷属し支配される奴隷(情欲の奴隷、金銭欲の奴隷、名誉欲の奴隷etc.)になってしまう。キリスト者は罪から解放されたのであり、再び罪に支配されはしないのである。
 13節「食物は腹のため、腹は食物のため」も、同じくコリント教会の熱狂主義者達のスローガンであった。栄養器官である腹に滅ぶべき肉の身体を代表させ、身体も物質である食物同様に滅びてしまうのだから、身体の次元の事柄である性的規範や食物に関わる規範(ユダヤ教の食物規定や偶像の供物など)は一切無視して構わないという態度をとったのだろう。確かに、食物が人間を汚すのではない。だが「身体」は、例え素材が肉で構成されていようとも、人間存在の主体である。人間の行為はすべて「身体」で行う。だから、死ぬべき身体であっても、それを用いて主に仕えるべきであり、淫らな行為に用いてはならない。「体は淫らな行いのためでなく、主のため」にある。
 コリントのグノーシス主義者達は、身体は霊魂の牢獄であるというヘレニズム的考えに影響され、純粋に身体的快楽(具体的には性的快楽)を追求しても霊魂とは無関係であるとして、大して罪の意識もなく従来通り娼婦買いをしたのだろう。(残念なことに、それ以降も世界中で娼婦買いは軽く考えられがちである)。だが、例え素材が有限な肉であっても、身体はその命である霊が形作る人間存在そのものであり、身体の次元の行為は人格に関わるのである。
 主が人間として世に到来されたのは、身体を具した存在としての人間が、神と共に永遠の命を生きる為である。十字架の死によって人間の罪を贖い、その義によって霊の身体に復活し、人間として天に坐しておられる。そして、彼を信じる者に御自分の霊である聖霊を分け与えられる。聖霊キリスト者の霊と結ばれ<一つの霊>となって、その人の身体を生かす。従ってキリスト者の身体は、まだ肉にあって生きていても聖霊によって浄められ、主に属する貴ぶべきものとなる。また、終りの日には聖霊によって主と同じ霊の身体に復活する。だから、「主は体のためにおられる」。
 14節は、「神は、主を(霊の身体に)復活させ、また、その力をもって、私達聖霊を分け与えられたキリスト者をも(主に属する者として同じ霊の身体に)復活させて下さる」との確信を語っている。主の十字架と復活は、このように人間が身体を持った存在として、永遠の命を生きる為の神の御業である。復活信仰を曖昧にしてはならない。
b.キリストの体の肢体(6:15~20)
 コリント風といえば、快楽を追求する享楽的風習を指していた。そして娼婦と交わることを、一種の娯楽と考えていたようだ。パウロはこれを厳しく戒める。15節「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか」。
 「主と交わる者」は、「主と一つの霊になる」。キリスト者の霊は、主の霊である聖霊と結ばれて一つにされている。霊が身体を支配するのだから、聖霊の主権はその人の霊だけでなく身体を含めた人間全体に及ぶ。キリスト者の身体は、聖霊と結ばれて一つになった「霊」によって生かされ、キリストの身体の一部となる。その「キリストの体の一部」を、娼婦との性交で、快楽の目的で娼婦の身体と合体させてはならない。性交は「二人は一体となる(創世2:24)」行為、つまり二つの身体が合体する行為だからである。身体だけを切り離して娼婦に与えることはできない。「主と一つの霊」となる事は、「娼婦と合体した身体」になる事と両立できない。
c.聖霊が宿る神殿(6:18~20)
 「淫らな行い=娼婦との交わり」は、主が血をもって贖い浄めて下さった身体を、神に叛く偶像崇拝(肉的快楽崇拝)へと引き渡すものである。他の罪は、身体の外側で生じるが、「淫行」は自分の身体に対する罪である。キリスト者の身体は、神から賜った聖霊が宿る以上、「聖霊の神殿」である。キリスト者の身体も霊も、もはや自分自身のものではなく、主の死と復活という代価を払って買い取られ、神に属するのである。だから、自分の身体の言動によって、神の栄光を顕しなさいと、18~20節でパウロは勧告している。
 今日取り上げた箇所は、キリスト教的性道徳の勧告に留まらない。生まれ落ちてから死ぬ迄を自分の人生と考えている私達に、死を超えた将来への展望と希望を与える。まず、有限であるこの私達の身体が、「(永遠の命を持つ)キリストの体の一部」とされていること。老衰や病にあっても自分一人ではなく、主が共にいて私の身体を引き受け、永遠の命へと導いて下さる。次に、私の身体は、私自身の霊(命)だけでなく到来された聖霊が命を与え支えられているということ。だから、私は「露と生じ、露と消えゆく」存在ではない。私を創造された神が、私の存在に参与され、御自分に属するものとして存在させて下さるのである。神が私を愛することを知り、私も神を愛し、また神に結ばれた自分と世界を愛することができる。最後にこの肉の身体が滅びても、主に結ばれた私の霊は滅びないで主と共にあり、終りの日に霊の身体に復活するのを信じる。だから、肉の死は私の終りではない。詩73:26「わが身とわが心とは衰える。しかし神は永久に我が力である」、イザヤ40:31「…しかし主を待ち望む者は、新たなる力を得、鷲のように翼を伸ばして昇る」との預言の成就と言える。
 「身体の行いを以て主の栄光を顕すこと」は、単に立派な行いを際立たせることではない。立派な行いは、キリスト者でなくとも為す者が大勢いる。だが、福音が霊だけでなく身体を含めた人間全体を救いに至らせる神の力だということは、信仰者のみに知らされている。キリスト者の為すべきことは、その喜ばしい知識=福音を、まだ神を知らない世界に伝え、全生活で証する事である。