家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

聖霊の賜物について

2023年7月2日 

テキスト:Ⅰコリント12:1~11

讃美歌:257&66

                        (5)集会のための指示(11:2~14:40)
 前回まで、非常に重要な「主の晩餐」について学んできた。現在は聖餐式として行われているが、これは「主の晩餐」の簡素化であり、一度限りの主の死によって締結された「新しい契約」の現在での実現であり、(主にあって一つである)エクレシアを形成する大切な行為である。偶像の祭儀での飲食が「悪霊との交わり」であるなら、「主の晩餐聖餐式」での飲食は「主との交わり」である。イエスと食を共にした取税人ザアカイが、感謝と喜びに溢れた以上の感謝と喜びをもって、聖餐に与り、代々の聖徒に連なるエクレシアとして主の再臨を待ち望む者でありたい。
 さて今回から、コリント教会で盛んであった霊の賜物(預言や異言、霊的知識など)とその評価についての指示に入る。現在の教会は、というか特に私自身は、異言や病の癒やしといった霊的賜物に不案内である。また、唯物的な現代人は、このような現象を否定したがる傾向にあり、否定できなくとも、無理にも合理的説明をつけたがる。だが、異言や病の癒やしなどの奇跡は現在も実際に存在するのであり、私の父は祈りの中で突然異言が語り出される出来事を体験したと語っていた。ペンテコステの出来事や、使徒達による数々の奇跡を否定することができないように、私達自身が体験してないからといってこれら霊的現象を否定することはできない。霊の次元は確かに存在する。
 しかしコリント教会の霊的高揚や熱狂は、一方で教会に混乱を生じさせていた。パウロは、霊の賜物を秩序立て「エクレシアを建てる」方向に用いられるよう指導しようとする。
                       聖霊の賜物について(12:1~14:40)
聖霊の働き(12:1~3)
1~3節「…霊的な賜物(霊的人々)については、次のことはぜひ知っておいてほしい。あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう。ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも『イエスは<神から見捨てられよ(アナテマ)>』とは言わないし、また聖霊によらなければ、だれも『イエスは主(キュリオス)である』とは言えないのです」。
 おそらくコリント教会に、ヘレニズム期特有の忘我的熱狂があり、そのような状態で語られた預言に、解釈に苦しむような内容があり、その事について問い合わせがあったようだ。だがパウロは、それに直接答えず、まず霊を見分けることについて語り出す。なお「霊的賜物」と訳すほか、「霊的人々」と翻訳も可能であり、また「神から見捨てられよ」と訳された言葉「アナテマ」は、「神から見捨てられた者」or「呪われた者」を意味する激しい言葉である。
 2節の「偶像のもとに連れて行かれた」とは、身体が異教神殿に連れて行かれたという意味ではない。偶像を崇拝させる霊(ダイモニオン=悪霊)に憑依されて忘我の状態に陥った、という意味である。霊にも色々ある。エリアの前でバアルの預言者達が踊り狂ったような現象は、ヘレニズム期には日常的に体験されていた。そして憑依状態で語り出すことも多々あったのである。
 それにしても、教会の中で「エスはアナテマだ」等と言うことは、およそ考えられない事態に思える。だが、当時の支配的思想であったギリシャ宗教思想は、地上的物質世界を絶対悪とし、ただ霊的世界のみに価値を見出す二元論であった。霊的世界や知識のみを重視するギリシャ系の人の中に、地上の(十字架に死なれた)イエスを否定し、神と人間を仲介するダイモニオンとしての<霊のキリスト>のみを信仰しようとする傾向があり、そこから出てきた発言と考えられている。どういう理由にせよ、霊的高揚状態でこのような言葉が語られた事に、教会はひどく動揺させられたであろう。パウロは、彼らが異教徒時代に経験したであろう、偶像神殿での憑依状態を例にとって、すべての霊的熱狂が聖霊によってもたらされるものではないことを指し示す。
 神の霊(聖霊)によって高揚させられた者は、「だれも『イエスは神から見捨てられよ=アナテマ』とは言わない」。また「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主(キュリオス)である』とは言えない」。つまり、マリアの子として生まれ、十字架に死んだ人間イエスこそが、復活して天に挙げられた万物の支配者<キュリオス>だと告白させる霊が、「神の霊=聖霊」なのである。
 ギリシャ的思想の代表として、ソクラテスの死を題材としたプラトンの「パイドン」を読んでみよう。肉体は魂の牢獄だとし、何とかして物質である肉体から逃れ、魂だけの状態で天的な神々やイデアの世界に帰還し、そこに永遠に留まれるよう努力してきた、とソクラテスは語る。自殺は、人間の支配者(主)である神々への反逆であるから避け、肉体との関わり(欲望など)をできるだけ絶って魂を純粋に保とうとしてきたのだから、死後天上界に迎え入れられることを確信して、喜んで毒杯を呷り死んでいく。そのようなソクラテスの死は「恐れなき高貴なご最後」と、弟子達を感動させた。これが、人間性が予測しうる霊性であろう。従って、十字架刑で死んだ一介の人間、ナザレのイエスが、復活し、霊的身体とはいえ身体を備えた人間のまま、天に挙げられた万物の主<キュリオス>だ、などということは、人間が予想もできずまた信じがたい事である。(神のなさることは、人間の目には不思議と見える、と聖書にある通りである)。
 しかし、その(人間性には不条理である)事を認識させ、告白させる霊が、神の霊=聖霊なのである。これが、聖霊の最も基本的な働きである。
 次に、聖霊がエクレシアにおいてどのように働かれるか、が語られていく。
様々の賜物(12:4~11)-1
4~7節「賜物《カリスマ》にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ御霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に御霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです」。まず、8~10節に数え上げられている様々な霊的能力が、賜物=カリスマと呼ばれていることに注目したい。それを持つ人の資格や能力と無関係に、恩恵(カリス)として与えられる能力であり、当人が誇りえないものである。聖霊がエクレシア各人に様々の賜物を分け与えられるのは、「全体(エクレシア)の益となるため」であり、その人個人を益する為ではない。パウロは、数々の偉大な賜物を受けた使徒であったが、それは彼個人の為ではなく、(彼の主イエス・キリストの)教会=エクレシアを建てる為に付与された事は、代々の教会の信仰が彼の書簡(ロマ書など)を読むことにより絶えず更新・改革され続けている事からも明らかであろう。
 次に、<務め>とあるのは、エクレシア内の使徒や教師や奉仕者など様々の職務である。仕事は違っても、同じ<=キリスト>に仕える業である。賜物や務めや働きは様々であっても、何事においても一切を成し遂げられるのは「天地万物の創造者にして保持者である」神である。エクレシアは、神・キリスト・御霊が具体的に一体として働かれる場であり、(父・子・御霊の)三位一体の神とは、神学理論ではなく信仰共同体=エクレシアが実際に体験する事実なのである。
 8~10節「ある人には御霊によって知恵の言葉、ある人には同じ御霊によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ御霊によって信仰、ある人にはこの唯一の御霊によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています」。
 これらの霊的能力(賜物)は、霊的に高揚したコリント教会では日常的体験であっても、現代の私達にはそうではなく分かりにくい。説明が必要である。
 まず「知恵《ソフィア》の言葉」と「知識《グノーシス》の言葉」がある。これらを厳密に区別することは困難である。「知恵《ソフィア》」とは①「隠されていた神の奥義《ミスティリオン》」と②「神から賜っている恩恵の事態」の両方を理解する能力である。①神の奥義は、イスラエルの歴史に隠されていた「神の救済計画」の理解であり、具体的には旧約聖書をその面から解釈する能力である。ステパノの説教などを思い出そう。②恩恵の事態は、イエス・キリストの地上での働き、および十字架と復活の出来事によって最終的に与えられた神の恩寵の救いを的確に理解する能力である。このような知恵《ソフィア》の内容を語るには、「人間の知恵に教えられた言葉ではなく、御霊に教えられた言葉によって」語るしかありえない。そのような言葉が、「知恵《ソフィア》の言葉」と「知識《グノーシス》の言葉」であり、エクレシアの信仰内容を指導する最も重要な賜物である。パウロは、優れた聖書の知識だけでなく、第三の天に引き上げられるという霊的啓示体験を含め、このような知恵《ソフィア》に満たされた典型的人物である。
 次の「信仰」と「病気を癒やす力」と「奇跡を行う力」は、ほぼ同じ内容の賜物=カリスマである。ここに挙げられている「信仰」は「信仰による義」と言われる場合の一般的信仰概念ではなく、「山を移すほどの信仰」と呼ばれる「力ある業を行う特別の霊的能力」としての「信仰」である。その多くは「病を癒やす力」として現れ、現在でも多くの「癒やし」奇跡(按手すると病が癒やされるなど)が行われている。
 最後のグループが「預言」と「霊を見分ける力」、及び「異言」と「異言を解釈する力」である。祈りの中で、本人の意識を超えた、いわば何かの霊に憑依されて語り出される言葉が、「預言」と「異言」である。語る人が理解し使用できる言語で語られるのが「預言である。また「預言」がどんな霊から出た言葉かを見分ける力が「霊を見分ける力である。先にパウロが、「エスはアナテマだ」という「預言」を「神の霊」から出た言葉ではない、と判断したのが「霊を見分ける力」である。また、語る人自身が理解不能な言語で語られるのが「異言である。「異言」の意味内容を理解し、集会参加者が理解できる言語で語り出すのが、「異言を解釈する力」である。

 ペンテコステでは、あらゆる国の言語が語り出されたと使徒行伝記事にある。日本語しか知らない人がフランス語や中国語で語り出したようなものである。しかし、当人は理解不能でも聞いた人が理解できる言語の場合もあるが、人間的言語ではない「霊語」の場合もある。私の父が体験したのも人間的言語ではない霊語の「異言」であった。
 コリント教会は、これらの賜物、特に「預言」と「異言」の賜物を豊かに受けた集会であった。私達と同じ日常生活を送っていた人々がこのような霊的事象を体験したのである。驚嘆と喜びを覚えると同時に、ある種の畏怖と戸惑いもあったに違いない。パウロは、御霊の働きという未知の世界に直面する彼らに、霊の働きを抑えつけることなく、かつそれらの賜物が協働して「エクレシアを建てる」方向に用いられるよう、細心の注意を払って勧告している。
 前回取り上げた「主の晩餐」が、主にあって「皆が一つとなるため」であったと同じように、様々の霊の賜物=カリスマも、主の身体であるエクレシア(ひとつである教会)を形成し、機能させるために用いられるべきものなのである。
 礼拝毎に唱えられる「使徒信条」も、聖霊の働きとして「聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体の甦り、永遠の命」を信仰告白している。人間的理性だけでは認識できない福音の事柄を、認識させ告白させ、エクレシアを形成して下さる聖霊を讃美し、私達を終りまで導き給うよう祈り求めていきたい。