家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

「主の晩餐」に与る心構え

2023年6月18日

テキスト:Ⅰコリント11:27~34

讃美歌:39&174

                        (5)集会のための指示(11:2~14:40)
                           ②「主の晩餐」について(11:17~34)
 前回は、コリント教会の分裂した礼拝の有様を叱り、「主の晩餐」のあるべき姿を、主が直接命じられた事として、その伝承を伝えた。過越の食事が、イスラエルのエジプト脱出を記念し子々孫々伝えるべき大切な行事であったように、「主の晩餐」は、キリスト者&エクレシアが「主の死」によって罪と死の因果から解き放たれた事を記念して行う大切な行事であり、礼拝の中心である。パウロは26節「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、<主が来られるときまで>、主の死を告げ知らせるのです」と、それに与る毎に、主の贖罪に感謝し、将来の救いの完成への希望を信仰告白し、その事によって周囲の世界に福音を告げ知らせるべきことを教えた。
 現在は聖餐式として儀式化しているが、その由来が「主の晩餐」の簡素化であることを考えると、パンと葡萄酒が聖職者の祝福により「主の肉と血」に変化するという「化体説」は、受け入れがたい。パンと葡萄酒は物質であるまま、それを信仰を持って飲食する事が主とその身体と交わる霊的な行為なのである。(従って、主にあって一つである筈の兄弟達を、差別したり排斥したりすることは、許されない)。パウロは、次に「主の晩餐」に与る心構えを教える。
 ❸「主の晩餐」に与る心構え(11:27~34)
 ①(心構え)27~28節「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです」。
  ここが朗読されると、胸がドキンして自分が相変わらず神の戒めを守らず、愛に欠けた者であることが心配になる人は多いだろう。前回の末尾に少し触れたが、「ふさわしくない」者とは、不道徳的で愛に欠けた罪人、という事ではない。29節に「主の体をわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしている」とある事から分かるように、「ふさわしくない=主の体をわきまえずに飲み食いする」ことである。具体的には、「主の晩餐」を意見の合う者同士の食事会と勘違いし、意見の合わない者や貧しい者を無視して、自分達だけで飲み食いする事である。
 「主の死」は、ユダヤ人や異邦人、男や女、貧しい者と富める者、すべての差別を乗り越え、主にあって一つとするためであった。ヨハネ17:11「わたしたち(父なる神と子なる神)が一つであるように、皆が一つとなるためであります」。パウロも10:17「パンは一つだから、私達は大勢でも一つの体です。皆が、一つのパン(主の体)を分けてたべるからです」と語っている。このように、「主の死」が「皆が一つとなるため」であった、という「主の晩餐」の意義を弁えずに飲食することが、「ふさわしくない=主の体をわきまえない」ことである。
 29節「主の体をわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしている」を、(主の晩餐の)意義をわきまえずに飲食すると「パンと葡萄酒」が体内で呪いの食物となる、と言ったように魔術的に解釈してはならない。そうではなく、そうした行為が主の裁きの対象となる、という意味である。聖餐式は、外部からは密儀宗教的な儀式のように捉えられがちであるから、努めて信仰を告白する霊的な行為として聖餐式を行うようにすべきであろう。
 とはいえ、30節は穏やかではない。「そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです」。この書簡成立時点、パウロはじめ当時の信仰者達は、自分達がまだ生きているうちに「終りの日」が到来すると信じていた。それ程までに「主の再臨」の切迫を感じていたのである。「わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパがなると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたち(生者)は変えられます」15:51&52。「眠りにつく」とは死ぬということであり、「変えられる」とは肉の身体から霊の身体へと(死を経ることなく)変化させられることである。つまり、主の再臨前にキリスト者が死ぬ事は、ある種の「裁き」と考えられているのである。
 しかしパウロは、裁きを語ると同時に、直ちに励ましと慰めを直結させる。31&32節「自分をわきまえていれば、裁かれはしません。☆裁かれるとすれば、それはわたしたちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の<懲らしめ>なのです」。主の晩餐の意義をわきまえ、しっかりと信仰に立てば(病や死で)裁かれない。その上で、裁きとして病んだり死んだ場合、それは最終的に「罪に定められる」事ではなく、信仰の訓練としての「懲らしめ」だとする。
 現在まで、無数のキリスト者が主の再臨を待ちつつ死んだ。おそらく私自身もそうであろう。それは、今生きる者達が、いよよ切に主の再臨を希望し待望するための「主の懲らしめ」であり、訓練であるという。相澤は、その最後の著作「キリスト者の希望」の末尾を「この卑しい体の変容への希望のゆえに」、この書簡16:22「マラナタ、私たちの主よ、来たりませ」で結んでいる。病と死に苦しむ時、主が十字架の死をもってそこからの解放して下さった事への感謝はより深くなり、救いの完成である再臨をより切に待望する。信仰者の死は、エクレシアの信仰と待望が更に真剣なものとなるための<懲らしめ>なのであろう。この生をよく過ごすためだけ信仰したり、天国を死後の別世界のように考え、この世界に「神の国=神の支配」が到来することを信じない曖昧な信仰は、「罪に定められることがないように」懲らしめられるのであろう。
 (黙示録では、殉教者達の魂が「主よ、いつまで正しい裁きを行われないのですか!」と叫ぶと、殉教者の数が満ちるまで待つように言い渡される。主が勝ち取られた救いは「安価な恵み」ではない。エクレシアの待望の祈りが満ちて、はじめて救いの完成が到来するのではないだろうか)。
 パウロは、内面的心構えを教えた上で、次に集会の持ち方について具体的な勧めと提案を示す。
②33&34節「…食事の為にあつまるときには、互いに待ち合わせなさい。空腹の人は、家で食事を済ませなさい。裁かれるために集まるというようなことにならないために。その他のことについては、わたしがそちらに行ったときに決めましょう」。
 当時の礼拝は、シナゴーグの礼拝に準じ、まず聖書(旧約)が朗読され、説教(預言)や祈りと讃美(異言を含み)が続き、最後に礼拝の主要部分である共同の食事が行われた。同じ場所でバラバラの礼拝とならないよう、せめて食事部分だけでも一緒にできるように、待ち合わせよ、と勧める。空腹で待ちきれないようなら自宅で食事してから来ればよい、と言う。これは、すでに「主の晩餐」が実際の食事から、パンと葡萄酒だけに簡略化され(聖餐式として)儀式化していくことを示している。当時流行した密儀宗教では、入信儀式(洗礼のような)を受けた者だけが与る秘密の救済儀式が行われていた。その影響から、聖餐式が外部の者を排除しキリスト者だけが与れる救済儀式と考えられるようになっていった。だが、上述したような「主の晩餐」の意義から考えても、これはその都度付与される救済儀式ではなく、「主の死」を記念し、その効力を自己と世界に告げ知らせる「霊的行為」である。それを為し得るのは、パンと葡萄酒を信仰をもって飲食する者だけであるから、結果として聖餐式を行えるのは信仰者、即ち洗礼を受けたキリスト者だけということになる。おなじパンと葡萄酒を飲食しても、信仰告白していない者はその霊的行為を為し得ないからである。従って、部外者を排除する密儀としてではなく、行われる飲食(聖餐式)を主に結ばれて一体となる決意と感謝をもって霊的な行為としてなすべきである。
 このように「主の晩餐=聖餐式}は次第に儀式化され、礼拝の中心は、元々「主の晩餐」(信仰告白)の準備段階であった聖書朗読や説教・祈りなどに移っていった。プロテスタントの礼拝は、この部分が独立したものである。信仰者相互の平等な交わりとしての食事(パウロは、ユダヤ人と異邦人が同席する食事を主張してユダヤ主義キリスト者と戦ったのであるが)は、愛餐会として礼拝とは別に行われるようになった。私達は聖餐式の魔術的儀式化を避けると同時に、主に結ばれ主にあって一体とされることの意義をしっかりと自覚したい。それは何より、「渡される夜」主が命じられた「(ゴルゴダで死なれた主)を記念して」行うべき行事なのである。                                  
 次回からは、霊的な賜物についての段落に入る。聖餐式に関して「霊的行為」を取り上げたが、霊的であるとは如何なる事か、霊の賜物について教えられつつ学んでいきたい。