家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

コリント教会の分派争いと「十字架の言葉」

2022年10月2日

テキスト:Ⅰコリント1:10~25

讃美歌:9&257

                (2)コリントにおける分派活動との戦い(1:10~4:21)
 前回の冒頭の挨拶から、使徒の関心はコリント教会に与えられた霊的賜物の豊かさからくる、熱狂主義的傾向にあることを学んだ。そこで使徒は、彼らが神によって「キリストとのコイノーニア(交わり)」に入れられ、恵みとして言葉(ロゴス)と智慧グノーシス)に豊かにされた事を指摘し、その完成である主の到来をいよいよ切に待ち望む教会であるように祈った。
                      a.分派活動による集会の分裂(1:10~17)
 パウロは、冒頭の挨拶の後、早速本題に入る。おそらくコリント教会員であるクロエの家中の者(家族や奴隷、従業員)から、教会内に分争があると聞いたからである。それは、どの霊的指導者に連なるかという人間中心的分派争いであった。パウロ派、アポロ派、ケパ(ペテロ)派、そしてキリスト派まであったと言う。
 当時の礼拝の様子は分からないが、パウロやアポロという使徒や伝道者がいた場合、彼らが礼拝をリード(司会)し秩序が保たれていたであろう。だが、そうした指導者が不在の場合、11章(主の晩餐についての指示)から想像すると、礼拝参加者が分派別に集い、預言し、異言を語り、会食をしたのではないだろうか。それでは礼拝の統一が失われ、同じ場所で幾つかのグループがバラバラに礼拝するという(いわゆる、バズセッションのような)騒然とした、秩序のない集会になってしまう。だから、パウロは10節「語ることを一つにし、…同じ心、同じ思いになって、堅く結び合っていてほしい」と、まず礼拝の統一を勧告したと思われる(これは教会内部の一致に結びつく)。単に「お互いに仲良くしなさい」だけではないだろう。
 分派の詳細は不明だが、洗礼を授けた指導者をグループの旗印にしたり、あるいは特定の霊的能力を重んじ、それに優れた指導者を選んでグルーブの旗印にしたようである。例えば、「言葉(ロゴス)」を重んじる者はアポロを旗印にし、パウロを低く評価したであろう(パウロは雄弁ではなかった)。ケパ(ペテロ)派は、おそらくパレスチナ出身のユダヤ人であり、その出身を誇ったのではないか。「パウロ派」や「キリスト派」の内容は想像がつかない。このように誰に連なるかという人間中心的な分派争いだという以外は、推測できるだけである。
 この状態に対し、パウロは13節「①キリストは、いくつにも分けられたのか。パウロは、あなたがたの為に十字架につけられたことがあるのか。それとも、あなた方はパウロの名によって洗礼を受けたのか」、と皮肉を言う。それは、裏返しに次の事を言っている。
  ①教会はキリストの身体として一体ではないか。
  ②あなた方が罪と死から解放されたのはキリストの十字架死によってではないか。
  ③洗礼は、キリストに死に与ることではないか。
つまり、教会の一切の基準はキリストである。それなのに、人間的な資格や賜物の差による分派が存在すること自体、キリストが罪の<肉に死んで下さった>事を忘れ、肉(人間性)の基準に立ち返ることなのである。
 ③の「パウロの名による洗礼」については、パウロは、洗礼を授けることは主に同労者(シラス・テモテ・アキラ夫妻など)に委ね、自分はごく少数の人にしか洗礼を授けなかったから、誰も「パウロの名によって洗礼を受けた」と言えない筈だと、神に感謝している。
 なぜそうしたかといえば、17節「キリストがわたしを遣わされたのは、バプテスマを授けるためではない」からである。彼の主要任務は「福音を告げ知らせるためでありしかも、キリストの十字架が無力なものになってしまわないように言葉の智慧によらないで告げ知らせること」である。
 つまり彼の任務は、「十字架の福音」を告げ知らせることであり、その為には「言葉の智慧」を用いない告知=宣教でなければならない、というのである。
 「言葉の智慧」という言葉は何を意味するのか。これは、人間的霊性グノーシス)による理解や実践的智慧グノーシス)による諭し、あるいは論理性や倫理性(ロゴス)による説得、と考えてよいだろう。例えば「諸行無常」等の宗教的直観や悟り、イソップ物語のような実践的な賢者の智慧、あるいはソクラテスの「産婆術」のような論理、といった人間的智慧による説得である。
 だから「言葉の智慧」による宣教とは、イエスの生涯と言動を、このような人間的智慧の教えとして解釈する事である。実際、当時のキリスト教内部では、福音を「キリストの十字架による救済」として宣教することは、決して一般的ではなかった。イエス言動録である「Q資料」や、「トマス福音書」には、受難物語(十字架)が欠落しているという。そこから推測できるのは、パウロ当時から、イエスの言動を、言わば宗教的智慧や悟りのような「智慧の教え」として説くキリスト者が存在したことである。こうした「智慧の教え」からみれば、イエスの十字架の出来事は、あってはならない間違いや、よくある義人の苦難となり、なくてもよい(空しい)ものになってしまう。
 パウロの任務は、人間的智慧と鋭く対立する「十字架の福音」を告知することである。
 こうして教会内分派という具体的な問題から、福音の本質的な事柄が語り出される。
                      b.福音と世の智慧との衝突(1:18~3:23)
①神の力としての十字架の愚かさ(1:18~25)
 18節「十字架の言葉は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である」。この「十字架の言葉」とは、上述した「十字架を救済の核心的事柄として告知する」ことである。告知=ケリュグマは、人間的智慧による説得=「言葉の智慧」ではない。(福音=良き知らせgood newsは伝える=「告知する」ものであり、説得するものではない)。内容的には「キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、…」(15:3~4)以下であろう。
 この告知(十字架の言葉)が、それを聞いて(伝えられて)受け入れる者に、信仰を起こさせ、救いに至らせる「神の力」となる。また、それを拒否し受け入れない者に、滅亡をもたらす裁きとしての「神の力」となる。だから「十字架の言葉」そのものが、人を右と左(滅びと救済)に分ける審判となる。そこには、ただ人間の決断だけではなく、神の恩寵の選びが働く。
 信仰に入るのは、まず神が(名を呼んで)召し、聖霊がその人に中に働き、応答させるのである。神の召しと聖霊の派遣なくして、信仰に入ることはできない。例えばガンジー福音書から「無抵抗」を学んだような、人間側から選択する行為は、信仰の決断ではない。
 なお、「救われる」とは、世界と人間の苦難への人間的対処・対応ではなく、実際に「もはや死もなく悲しみも叫びもない…」苦難のない至福の状態(神の国)に入れられる事である。 
 人間的智慧から見て十字架は愚かだということは、逆に20節「神はこの世の智慧を、愚かにされた」ということである。ロマ書にも、人間的智慧によっては人間は神を認める事ができなかったとある(「神として崇めず、感謝もせず、…自ら知者と称しながら、愚かになり」ロマ1:23)」。ここではイザヤ書29:14「わたしは知者の知恵を滅ぼし、…」以下が聖書の証言として引用されている(19節)。
 21節の直訳は「というのは、神の智慧において、世は智慧によって神を知ることがなかったので、神は<ケリュグマ=宣教>の愚かさによって、信じる者を救うことをよしとされた(決心された)からである」と、宣教の愚さによる救済によって、人間的智慧を否定される神的意志が語られる。
 22節「ユダヤ人は徴を請い」の、ユダヤ人が求めたメシアの徴とは、ダビデ家出身である公にメシアらしい特別な奇跡を行うエリアが先駆けとして到来している生涯中にイスラエルの解放を達成する、だそうである。イエス・キリストに当てはめると、①~③はクリアしても、④(イスラエルを異民族支配から解放する)点は、ローマに処刑されたのだから当てはまらない。
 一方、ギリシャ人の求める「智慧」は、「宗教的悟り」に近い「フィロソフィー=哲学」であろう。ギリシャ哲学は肉体からの解脱を求めたから、まず「復活」を受け入れないだろうし、また理性に反すると拒否するだろう。現代人も、それに近いのではないか?
 伝えた相手がどう受け取ろうと、使徒(伝道者)の務めは「十字架につけられたキリスト」を告知する事である。この方こそ、信仰者に救いをもたらす「神の力」「神の智慧」であり(24節)、十字架の(=神の)愚かさと弱さが、真に人間を救済する神の智慧と力だからである(25節)。