家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

キリストの体

2023年7月16日 

テキスト:Ⅰコリント12:12~31

讃美歌:534&191

                        (5)集会のための指示(11:2~14:40)
 前回は、①聖霊の基本的働きが、「エスは主である」と認識させ告白させる事であること、及び、様々の恵みの賜物=カリスマについて学んだ。②各人がそれら別種の賜物を分けて与えられるのは、その人個人の為ではなく、12:7「全体の益となるため」である。
 コリント教会は、1:5「言葉と言い、知識といい、すべての点で豊かにされ」、1:7「どんな賜物にも欠けるところがない」霊的に非常に恵まれた教会であった。それだけに、自分の受けた賜物に自信を持ち、信仰的な自己主張が激しかったのであろう。それが、分派争いというかたちで現れてきていた。
 パウロは、様々の異なる賜物があっても、それらを分け与えるのは同じ「唯一の御霊聖霊」である事を示し、務めや賜物は種々あれど相互に協調し引き立てあって、エクレシアを「建てる=形成し機能させる」方向に用いられるべきことを示す。
                         聖霊の賜物について(12:1~14:40)
身体の譬え(12:12~27)
12~13節「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、奴隷であろうと自由な身分のものであろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」。
 口語訳では「肢体」と翻訳されていたが、それだと目や鼻のようなものは想定されにくいから「部分」と翻訳したのは意味が通りやすい。パーツは様々あれど全体が組み合わされて一つの身体を形成するように、「《エクレシア》の場合も同様である」ではなく、☆「《キリスト》の場合も同様である」とある。つまりエクレシアが《キリストの地上における体》とみなされる事は重要である。
 「エクレシア」とは、ヘブル語の「カーハール=神の民、イスラエルの会衆」を70人訳聖書がギリシャ語に翻訳した用語である。これは、元々「召集されたポリス市民達の集会」の意味であり、キリスト者共同体にこの言葉を用いるとき、「キリストにあって神に召集された神の民」の意味をもつ。召集と結合の原理は、市民としての「ポリス」や、イスラエル会衆としての「律法」ではなく、「聖霊の働き」である。人間は様々な共同体を形成してきた。血縁や地縁を結合原理とする家族や部族・民族、共通の利益を原理とする会社や組合、権力を原理とする国家や帝国など。だがここに新しく、民族や身分や性別などあらゆる人間的差違を超越し、ただ<聖霊の働き>を召集原理とし、キリストに帰属する共同体《エクレシア》が形成されたのである。これは霊なるキリストの具体的な地上での身体であり、キリストの御業を地上で行うべく形成された組織である。
 「皆一つの体となるために洗礼を受け」と翻訳されている箇所を直訳すると、「一つの御霊によって一つの体の中にバプテスマされ(浸し入れられ)」となる。信仰告白し洗礼を受けたということは、「キリストの死の中へとバプテスマされた」(ロマ6:3)とあるように、以後、もはやバラバラの単独者ではなく、キリストを頭とする共同体=エクレシアに吸収され、その一部となったという事である。その各部分(信仰者個人)は、各自の自然的命ではなく、復活の主の命(聖霊)によって生きる。この霊的「体」において、ユダヤ人・異邦人の宗教的差別もなく、奴隷・自由人の身分的差別もない。
 14~21節は分かりやすい。種々の異なる賜物=カリスマがあるのは、それぞれが働きを分担して、エクレシア全体を<キリストの地上での身体>として機能させる為であり、賜物は相互に他を必要としている、と言う事である。
 だが22節「ほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」から24節前半「見栄えのよい部分はそうする必要がありません」迄は、身体の譬えからはみ出している。人間の身体の弱い部分は、そこを庇ったり保護したりするが、普通はそこが特に必要とは思わないだろう。また、23節「見苦しい部分をもっと見栄え良くしようとする」とか27節「見劣りのする部分をいっそう引き立てる」も、一般的な感覚ではない。むしろ見苦しく見劣りする部分は、目立たないように隠すのが通常であろう。だから、これは「キリストの身体」としての特性なのである。
 地上の主イエスの行動を思い浮かべれば分かる。主は「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われ、会堂でイザヤ書「貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである」が御自分によって成就された告げ、罪人と食を共にし、病を癒やし、悪霊を追い出された。つまり、意図的に人間の中で「ほかよりも弱く見える部分」や「見苦しく、見劣りのする部分」である貧民や罪人、病人や不幸な者達のところに赴かれた。また、「すべて労する者、重荷を負う者」に「我に来たれ」と呼びかけられたのであった。
 従って地上のエクレシアも、主が「貧しい人に福音を告げ知らせるために」遣わされたように、「弱く、貧しく、苦しんでいる者達=ほかよりも弱く見える部分」に遣わされている。つまり「ほかよりも弱く見える部分を、かえって必要」とし、追い求めるのである。霊的物質的な助けを必要とする者が援助や配慮を受け、幸いな神の民とされるために、エクレシアに賜物=カリスマが注がれているのである。神が罪人を招き、キリストによる義を与え神の民として下さったからには、エクレシア内外の「ほかよりも弱く見える部分」に仕えることが、主の身体としての任務なのである。また、内部において信仰的に弱く劣った者を支え高めることが、エクレシアの健康なのである。
 25節「体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っている」状況が個々の集会に、また公同の教会全体に実現するならば、どんなに大きな喜びが天にあり、福音が山の上にある町のように世に輝かされる事であろうか。神はエクレシアを「見劣りのする部分」をいっそう引き立て、どこも等しく世に輝くように組み立てられた。25節「それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合い」、26節「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」愛の一致が実現する。歴史的現実としては、教会はそうではなく争いや分裂を繰り返してきた。だが、パウロは信仰の確信をもって、27節「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」と言う。神がそれを成し遂げて下さるからである。
 一方、軍隊のような組織が円滑に動くためには指揮系統の確立が必要なように、賜物相互が連携し働くためには系統だった秩序が必要である。次に、様々な務めの序列が示される。
《エクレシア》の構成(12:28~31)
 28節「神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです」。この箇所の「教会=エクレシア」は単数形であるのに対し、「使徒」は複数形である。すなわち、使徒パウロの建てた個別のコリント教会だけでなく、エクレシア全体が対象とされている。
 まず最初に「使徒」「預言者」「教師」の三つの務めが挙げらる。これらは、「神の言葉」に仕えてエクレシアを指導する務めである。「使徒」は、復活のキリストを証するため(福音を告知するため)に復活者御自身によって選ばれ召された者達であり、エクレシアの土台を形成する最も重要な務であり、また歴史的に限定されている。「預言者」とは、10節の「預言」の賜物によって散発的に預言する者ではなく、霊によって悔改めと審き(終末)を宣べ伝える信仰の指導者である。ユダヤ人のキリスト教運動は、定住せず各地を巡回する預言者達によって担われていたことがマタイ伝や「Q資料」などから伺える。パウロが形成した異邦人諸集会では、アポロのように巡回する預言者も、アキラ・プリスキラ夫妻のように定住し特定の集会で活動する預言者もいた。後に「預言者」は「使徒」と並びエクレシアの土台を形成する指導者階級とされた(エペソ2:20など)。第三の「教師」は、聖書や伝承の知識と忠実で熟達した信仰生活からくる知恵で、求道者や信徒の信仰を指導する人達である。習熟が必要なこのような能力も賜物=カリスマと考えられている。
 以上が指導者階級であり、「次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者」とある。病気の癒やし以外にどのような奇跡が行われたか詳しくは分からないが、そうした業によって復活の主が生きて働いておられる事が証され、教会を励ました。「援助する者、管理する者」には、困窮者を援助する奉仕活動をする者(使徒行伝のタビタという婦人は貧困者へのこのような奉仕をしていた。歴史的にも教会は孤児や貧困者・病人への組織的奉仕活動を行ってきた)。また、集会の運営や管理する務めも、御霊の賜物として理解・認識されている。
 最後に「異言を語る者」がおかれている。これは、コリント教会で特に「異言」が重んじられていたが、パウロは、それが多くの賜物の一つに過ぎず、エクレシア内ではまず奉仕的な賜物が優先して尊重される事を示したのである。
 29節以下、「皆が○○であろうか?」と問い詰め、それぞれ異なる賜物を持つ者同士が、互いに他を必要としている事を改めて確認させている。
 しかし、これら賜物や務めは一つに固定したものではない。パウロ自身、「使徒」「預言者」「教師」を兼ね、誰よりも多く異言を語り、奇跡や病の癒やしを行い、また個別教会を組織するために日夜労苦している。マタイ伝のタラントの譬えにあるように、忠実な僕は更に多くの「タラント=賜物」を与えられ、怠惰不忠の僕は「持っていたもの」まで取り上げられるのである。
 パウロは、更に「もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」と教会を励ます。私達も、信仰に召された以上、更に信仰に進ませていただき、主のご用の為に、なにがしかの働きをさせていただきたいと願わずにおれない。しかし、<自分が用いられる事>が、コリント教会の人々のように自己主張の種にもなり得るのである。自分の奉仕も、他者の奉仕があってこそ活かされる。このことを弁え、お互いに「もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努め」ていきたい。