家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

死人の復活-2

2023年10月1日

テキスト:Ⅰコリント15:6~11

讃美歌:1&508

                              (6)死人の復活(15:1~58)
Ⅰ.キリストの復活(15:1~11)
 前回、コリント教会創設者であるパウロが伝え、コリント教会の人々が「受け入れ、生活のよりどころ」としている福音を、もう一度繰り返し確認した。
 それは、①「受けたもの」である。復活された主ご自身が、弟子達に顕現し身をもって示し、啓示されたものであり、人間が考え出した教説ではない。②イエス・キリストの死と復活は<聖書に書いてあるとおり>、つまり「イスラエルに啓示された救済の実現」であり、罪から解放された新しい命に生きる途が開かれた事。③また、それが人間の関与なしに神の側で生起しただけでなく、人間である復活の証人達によって全世界に伝えられる為に、「ケファに現れ、その後十二人に現れたこと」。以上の三点であった。今回は、その続きである。
 だがその前に、前回礼拝後「身体の甦り」そのものはあまり嬉しくないという話が出たので、少し取り上げたい。確かに、体調不良や情欲に悩まされる「肉の体=サルクス」は負担であり、それから解放されたらどんなに良いかと空想してしまう。だが、意識だけの存在では何もできないし、人間ではなくなってしまうから、何らかの実体(姿形)が必要であろう。それが、復活の身体(霊の身体)の件であり、後から取り上げることになる。
 そもそも「人間は死んだら終り」というのはあまりに耐え難いことなので、それに抗して様々な教説が存在する。プラトンも「パイドン」で、現在の生を善く生きる為に最も良いと思われる<仮説>として霊魂不滅説を挙げ、それに賭けて生きると述べている。ユダヤ人の復活信仰も、神からの啓示の要素抜きなら、そうした一種の宗教思想や仮説に過ぎない。
 だが、十字架に死んだイエスを神が復活させたという「事実」は、イスラエルに対する神の約束が真実であること、つまり「神がいます」ということを実証した。だから、「死人の復活」を預言した<聖書に書いてあるとおり>の神的現実を受け入れ、それに基づいて自分を形成するために聖書を読むのである。さて、今日のテキストに入ろう。
❸復活者の顕現の連続(15:6~9)
 エルサレム原始教団で成立した「宣教の言葉=ケリュグマ」は5節までである。それは、復活者が十二弟子に顕現された事で終わっている。しかしそれだけだと、地上のイエスの弟子であったことが、福音を啓示される資格のように受け取られかねない。
 そこでパウロはケリュグマに続けて「⑥次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。⑦次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、⑧そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」と述べ、福音は復活の証人達の資格や経歴に関わらないことを示そうとする。
 6節の「五百人以上もの兄弟たちに同時に」顕現された状況は、おそらくペンテコステの出来事のように大勢の信者が一堂に会した場であろう。そのうちの大部分は、まだ存命である。つまり、指導者達に限らず一般信徒にも顕現された。
 7節は、この書簡が書かれた当時、キリスト教本部のように見られていたエルサレム教団の指導者達への顕現である。エルサレムの原始教団は、当初ペテロが指導的立場にあったが、排他的国粋主義の台頭によりまずステパノらヘレニストキリスト者(ギリシャ語を日常語とするユダヤキリスト者)が追放され、次いで地上のイエス同様に律法を比較的自由に解釈するペテロらも迫害されてエルサレムに留まれなくなった。残留できたのは、「義人」と呼ばれた主の兄弟「ヤコブ」ら律法を遵守するユダヤキリスト者達だけであった。これは、エルサレム教団指導部も、同じく顕現された主から福音を「受けた」ことを言う。
 8節「そして最後に、…わたしにも現れました」と、パウロ自身も顕現された主から直接「受けた」復活の証人、つまり使徒であることをを述べる。これは彼が、9章で取り上げたように、コリント教会の人々から、ペテロらエルサレム教団系の使徒達より一段下に見られていたからである。
 キリスト信仰は各地のシナゴーグを中心に爆発的に広まっていて、エルサレム教団やアンティオキア教会から使徒達や指導者達が、新しくキリスト者となった者の指導のため各地に派遣されていた。だがパウロは、教団や他教会から派遣された訳でもなく、金銭的支援も自分が設立した教会からたまに受けるだけで、基本的には自活して独立伝道していた。加えて、彼は地上のイエスの直弟子ではなく、キリスト信仰成立後はその迫害者であった。そうした点から、他の指導者達より下に見られたのである。だから、パウロは自分を「月足らずで生まれたような」と言い、かつ、9節「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」と付け加える。だが、福音を顕現された主から直接「受けた」ことが、「使徒」たる資格である。だから、それまでの経歴や人間的資質に関わらず、彼は自分が使徒である事を主張する。
パウロ使徒たるのは神の恩寵であること(15:9~10
  10節「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」。
 原文には「神の恵みによって今日のわたしがある」の、「今日の」はない。英訳は「By the grace of God I am what I am.」となる。使徒たることは、主権的神の召しつまり「神の恵み」である。そして、その「神の恵みは無駄にならず」、「他のすべての使徒よりずっと多く」宣教の実績を挙げた。事実、コリント教会の人々がキリスト者となったのも、彼の働きの成果である。また、パリサイ派ユダヤ教伝道者として専門教育を受けた彼は、他の使徒達の誰よりも(旧約)聖書に通暁し、神学的理論や洞察に優れていたであろう。
 とはいえ、パウロはこの実績や学識を誇ろうとはせず、「働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵み」とする。事実、彼は雄弁ではなく「話はつまらない」と言われた。だが、彼の働きには聖霊の力が伴ったことが、書簡や使徒行伝記事にも多々述べられている。
 11節は、ケリュグマの確認である。「とにかく、わたしにしても彼らにしても」宣教者が誰であれ、「あなたがたはこのようにイエス・キリストの復活を)信じたのでした」。
 その<キリストの復活>を踏まえて、普遍的死人の復活を説いていく。

Ⅱ.死者の復活(15:12~34)
❶死者の復活がなければ(15:12~19)
 前回も述べたように、サドカイ派を除く殆どのユダヤ人は、終りの日には全死人が裁きを受ける為に復活し、義人は永遠の命に、それ以外は永遠の滅びに入ると信じていた。(ダニエル12:2「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入りある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」)。だから、終りの日の復活は、正義が回復され義人は救われるが、義人以外の<大部分の>人間達には罪の赦し無しには恐るべきものであった。ここから、贖い主を与えるという預言を信じ待望する信仰も生まれたのである。
 以上のような信仰を持つユダヤ人には、イエスの復活を、その死(十字架)が全人類の罪の贖いである事を、神が認め公示された事と受け取ることができた。だからイエスを信じる「義人」は、「終りの日の死者達の復活」を神の支配の完成として喜んで待望することができる。
 ところが、コリントの教会の一部に、イエスの復活というケリュグマを認めながら「死者の復活などない」と主張しする者がいた。この主張に対し、パウロは「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです」(13&16節)と2度も繰り返して驚きを表明する。
 死者達の復活を認めなかった理由は分からないが、おそらく現代人同様に「身体の甦り」を<肉体=サルクス>への復活と誤解したのではないか。あるいは、聖霊により霊的変革を受け、内面的に満たされることを救いの完成と見たのかも知れない。だが、ナザレのイエスが死んで、そのまま(人間として復活しないで)元の神の子として天に帰られたのなら、それは人間としての「復活」ではないし、その生と死は、他の人間とはなんの関係もなくなる。
 また、実際は復活しなかったイエスをキリスト(救主)として宣教しているとすれば、それは神がしなかったことをしたという偽証罪に相当する。そして、それを信じたキリスト者の信仰はただの空虚な思い込みということになる。
 そして、もし「(人間として)キリストが復活しなかったなら(罪の贖いもないのだから)あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」17節。
 だが、イエスの死を全人類の罪の為の贖いと神が認めたから、罪ある全人類を代表して死んだその人間イエスを、神と調和して永遠に生きる<人間>として、神が復活させたのである。つまり、普遍的死人の復活の最初として、神が、キリストとしてイエスを復活させた。これを否定することは、キリスト教信仰をただの空虚な教説にしてしまう重大な結果を生む。
 18&19節には、あらゆる苦難に耐えて宣教するパウロの実感がこもっている。(実際は救主ではない、復活しなかったイエスを)信じての死は、ただの滅びであり、また、この世を享楽しようとせず迫害される者たちは、この世で最も惨めな者達である。

 今日はここまで。