家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

御霊の種、神の畑

2022年11月13日

テキスト:Ⅰコリント3:1~9

讃美歌:214&234A

                (2)コリントにおける分派活動との戦い(1:10~4:21)
                       b.福音と世の智慧との衝突(1:18~3:23)
                                            
 パウロがこの手紙を書くに至った直接の原因は、コリント教会に生じた分派争いであった。それも、パウロが去った後にアポロがコリントを訪れ、シナゴーグで「聖書に基づきイエスがメシアであると公然と立証し、激しい語調でユダヤ人達を説き伏せ」(行伝18:28)成果をあげ、大勢のユダヤ人達が新たにコリント教会(シナゴーグに隣接していた)に加わるようになったことがきっかけであった。では、アポロはどんな人物であったのだろうか。
 使徒行伝に、アポロは「アレキサンドリア出身で聖書に詳しい雄弁家」と紹介されている。アレキサンドリアはヘレニズム文化の中心地であり、ユダヤ人が多く住み、ユダヤ教ギリシャ哲学の素養をもって寓意的に解釈したフィロンの出身地でもあった。アポロも当然フィロンの影響下にあり、聖書とギリシャ哲学両方の専門教育を受けた人物であったようだ。ステパノの殉教後、各地に散らされたヘレニストキリスト者は、当然アレキサンドリアにもキリスト信仰を伝えたであろう。アポロもそのような(律法から自由な)ヘレニスト伝道者からキリスト信仰を受けたと思われる。彼がエペソに来訪した際、アキラ夫妻と出会い、彼らから更に詳しく神の道」の解き明かしを受けた(行伝18:25~26)。アキラ夫妻はパウロの同労者として彼の影響下にあり、パウロが説く《聖霊によってキリストに結ばれる》という革新的福音をアポロに解き明かしたであろう。(「ヨハネバプテスマしか知らなかった」とは、それまでアポロはまだユダヤ教の延長線上でイエスをメシアと信じていた、ということではないか)。だがこうして、パウロと同じ福音を宣べ伝える伝道者となったのである。(ルターは、ヘブル書の著者をアポロとしている。)そして、アキラ夫妻の紹介でコリントを訪れたのであった。
 彼はコリントで大いに伝道の成果を上げた。彼のフィロン風の(現代的)聖書解釈やパウロとはまた違った語り口などに、コリントの人々は魅了されたであろう。アポロの伝道により新しく教会に加わるようになった人々を中心に、自然発生的にアポロ派が形成され、それに対抗してパウロの宣教によって信仰に入り最初に教会を形成した人々がパウロ派を形成し、互いに教説を競いあうようになったと考えられる。だがどちらも、旗印とする人物が体現する宗教性や賜物の優劣を競うものであった。だからパウロは、人間的宗教性や智慧は福音と相容れずむしろ対立する事を説いてきたのである。その上で、前回は「信仰に成熟した人たちの間で」語られる<智慧>は、人間的智慧ではなく、キリストの霊として信仰者に注がれる御霊(聖霊)であり、この世の事柄だけでなく神の御心という奥義まで「一切を判断」するという超越性が語られた。
 しかし、現実に私達が経験する教会の姿は、それとは随分違っている。地上にある信仰者達=エクレシア=教会は、御霊を受けてもまだ「霊の人」として完成しているのではない。世にある限り自己の「肉に死に霊に生きる」戦いの中にあり、絶えず完成に向かって進む「途上」の存在である。パウロは、ここで教会のあるべき姿から、現実のコリント教会の有様に立ち返る。
⑤分派活動についての再度の反論(3:1~23)
 3:1「兄弟たち、わたしはあなた方には、 <霊の人>に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では <乳飲み子>である人々に対するように語りました」。幼児が、大人の食物を咀嚼しえないように、霊的に未熟なコリント教会の人々に、パウロ神的智慧を直接語ることができなかったし、現在でもそうであると言う。御霊により「①言葉(ロゴス)と②智慧グノーシス・ソフィア)」という素晴らしい賜物を豊かに受けたのに、その賜物によって互いに仕えるどころか、かえってそれら賜物や教説の<優劣を競う>という人間的な分派争いが生じたからである。霊的賜物を誇ったり、妬んだりするとは、御霊を受けてもなお、彼らは「相変わらず肉の人」として振る舞っているのである。
 これは、異邦人を中心とする教会が陥りやすい危険であった。イスラエル信仰の伝統を持つユダヤ人社会では、まずイスラエルをエジプトから助け出された神への感激があり、究極の救いとはその神との人格的交わり(神と人との愛の交わり)であることは自明であった。従って「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛する」(申命6:5)ことが最高の境地とされた。ところが、そうした信仰伝統のない異邦人社会では、救いとは人間が「悟り」や天使的仲介によって至福の状態に到達することであり、宗教はその手段であった。だから、キリスト信仰でさえ、神との愛の交わりが目標ではなく、人間が至福に至る手段(つまり普通の宗教)と受け取られる危険があった。(それは現在でも存在する)。だから、神の御心に添うか否かよりも、至福に至る手段である教説の優劣が信徒達の関心事となったのである。コリント教会の霊的「幼児性」はここにある。
 以上のように考えると、自己追求する人間性が、いかに神がイニシアチブをとる交わりを嫌い、抵抗するかかが、よく分かる。イスラエルにおいてさえ、神に信頼し身を委ねるよりも、律法遵守によって<自ら>神に義と認められることが追求された。だからこそ、神はイエスの死において全ての人間の肉を裁き滅ぼし、彼を復活させ神の霊によって生きる新しい人類を創造されたのである。(詩篇51:10「あゝ神よ、わがために清き心を作り、わがうちに直き霊を<新たに>おこしたまえ」との祈りは、このようにして聞き届けられた。)復活のイエスを信じる者は、注がれた御霊により神を愛し御心を知る新しい人間とされ、御霊が形成する身体を受ける。復活のイエスが栄光の姿で出現されるとき、彼らも(肉の目に隠されていた)霊の身体で立ち上がるのである。
 5節「アポロは、いったい、何者か。またパウロは何者か。あなた方を信仰に導いた人に過ぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである」。アポロのギリシャ哲学風の論理であれ、パウロのラビ的論理であれ、伝えようとする内容は同じである。人間を愛し御自分の民とされる神の御意志(恩寵)は、イエス・キリストにおいて現実となったという福音である。パウロ使徒として、アポロは伝道者として、キリストに立てられ用いられる器に過ぎない。肝心なのは、神の救いの御意志であり、それを世に実現される主イエスの御力である。
 6節~7節「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させて下さるのは神である」。パウロは、信仰者の群れ=エクレシアをイスラエルの伝統に従い、神が作物を収穫される畑に譬える。ここで福音書の種まきの譬と芥子種の譬を思い出そう。私達死ぬべき人間に付与される御霊は、土に蒔かれた芥子種のように小さく微かである。だが、そこに不思議な命があり「夜昼寝起きする間に」土から芽吹いて、空の鳥が宿る程の最大の野菜に成長するのである。生老病死を味わい、四苦八苦(愛別離苦など)しつつ生きる信仰者の土の身体・肉の生涯は、御霊の種が成長する土壌であり畑なのである。この土の身体・肉の生涯から、永遠の命に生きる霊の身体が成長するのである。
 一方、種まきの譬は、蒔かれた種が落ちる土(福音を聴いた人間)の有り様が問題となる。与えられた御霊を如何に扱うかで、最後の審判が決せられるのである。聞かされた福音(御霊)を大切に扱い、この世での生活やその成果を思い煩うことによって、永遠の命に至る希望を見失う事があってはならない。なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからである。
 8節「植える者と水を注ぐ者は一つであって、それぞれその働きに応じて報酬をうける」とは、使徒や伝道者は、神から報酬の支払いを受ける雇われた労働者だと言う事である。彼らの働きを評価されるのは神であり、決して人間ではない。人に捨てられた石が、隅の親石となったからである。
 9節「私達は神の同労者である」とは、パウロもアポロも神の御業に用いられる僕同士だという意味である。しかし、彼らを通じて(用いて)神が働かれる点において、神の働きに与る光栄を受けた者達である。9節後半「あなたがたは神の畑であり、…」とは、まだ世にあるエクレシア(教会=信仰者達)は、「神の民」を収穫するために、神が御霊の種を蒔かれた「土の身体の人間達」であり、従って、荒野を旅するイスラエルの如く、約束の地(完成)へと導かれる途上にある事を言う。(バラムも、彼らを呪うことはできなかった。)