家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

隠された奥義(ミステリオン)としての「神の智慧」

2022年10月30日

テキスト:Ⅰコリント2:6~16

讃美歌:162&333

                (2)コリントにおける分派活動との戦い(1:10~4:21)
                       b.福音と世の智慧との衝突(1:18~3:23)                                          前回は、神が(この世の)智慧を卑しめられた事の実例として、①召された教会=エクレシア(彼らは決して、この世的な智慧、権力者・高貴者ではなかった)、②コリントでのパウロの宣教智慧の言葉を用いない「十字架につけられたキリスト」の告知が、「霊と力の証明」を呼び起こした)、の2点が語られた。すなわち、キリスト御自身が召された者達(エクレシア)の神的智慧、また「義と聖と贖い」であり、彼らの信仰も「人の知恵ではなく、神の力によって」であることが明らかされた。つまり信仰において、イニシアチブをとるのは(人間の敬虔さや意志的決断ではなく)「神の力」である。
 だが、信仰が憧れ求める「神との交わり」は、決して白痴のような盲信や奴隷的服従ではない。人間の側も、神の御心「神の秘められた計画=奥義」(2:1)を理解し、心から従おうとするべきである。では、人間的智慧が福音を理解できないのならば、どうやってそれが人間に可能となるのであろうか。それが、今回の段落である。
④隠された奥義(ミステリオン)としての「神の智慧」(2:6~16)
 6節「しかし、a.わたしたちは、b.信仰に成熟した人たちの間では、<智慧>を語る。それは、c.この世の智慧ではなく、また、d.この世の滅び行く支配者たちの智慧でもない」。  
 a.ここで突然、一人称複数形「わたしたち」が用いられているのは何故か。これをパウロら教会の指導者達と受け取ることも可能だが、むしろ「キリストにあって罪と死から解放された神の民=エクレシア」と解釈するべきであろう。パウロは、神の民の一員として「わたしたち」と言っているのである。これは、b.信仰に成熟した人たち」とも関係する。「信仰に成熟した人たち=テレイオイ(完全な者たち)」とは、密儀宗教などで入信儀式(イニシエィション)を受ける前の準備期間中の者に対し、秘儀を受けて奥義に参入した者を意味する言葉である。神の民(エクレシア)内部においても全員が均質ではなく、まだ「肉に従って」生活している霊的未熟者もいれば、全面的に「霊に従って」生きているパウロら練達者まで色々いるのである。「信仰に成熟した人たち」とは、ある程度「霊に従って」生きている者達を言う。
 c.「この世=アイオーン」は、1章20節(「この世の論客」など)に使われている<この世=コスモス>(空間的な広がりの宇宙)ではなく、「時代」と訳される黙示思想用語である。黙示思想によれば、創造から完成に至る迄の期間(このアイオーン)は、神に敵対する霊的勢力「支配者=アルコーン」らが支配する。d.この世の滅び行く支配者たち」がこれに該当する。だが、終末時にそれら天使的「支配者=アルコーン」らが滅ぼされ、神が支配する「来たるべきアイオーン」が到来し、義人は救われて神の栄光に与る、とされた。この<神のご計画>は創造に先立って定められているが、人間には隠されており、時の終わりに臨んで選ばれた義人に啓示(アポカリュプトー)される。それを書き記したものが「黙示文書=アポカユプシス」である。
 以上を踏まえて7節を読むと、6節で語られている<智慧>は、「わたしたちの栄光の為に、神が諸々のアイオーンに先立って定められていた<神の智慧」であり、「隠されていた神秘=奥義」つまり時の終わりに選ばれた義人に啓示される<神のご計画>であることが分かる。
 この「隠されていた神秘=奥義=神の救済計画」を十字架と復活によって実現し、啓示(アポカリュプトー)された方がキリストであり、「キリストが<神の智慧>である」(1:30)。黙示録5章は「屠られたと見える羔羊イエス・キリスト)」が神の巻物(神の救済計画)を受け取り、封印を解く(執行する)有様を描写している。
 8節「この世の滅び行く支配者たち」は、神から派遣されたキリストを十字架につけ抹殺することで、少なくとも地上においては神の支配を免れ得たと考えた(誤解した)のである。ちょうど農園の跡取りを殺して農園を乗っ取れると考えた、あの譬え話の悪しき農夫達のようなものである。
 なお、イエスを「栄光の主」と表現しているが、この尊称は旧約聖書において人間的メシアにも許されず、ただ神にのみ用いられる尊称であり、パウロがイエスを神と同一視していることを示している。イエス・キリストは、見えざる神の、人間に対するお姿(形相)だからである。
 9節の「しかし、」はこの上なく力強い。「この世の支配者たち」の反逆であるイエスの十字架を神は用い、イエスの死を、罪と死の因果に支配される全ての「肉=第一のアダム」の死とされた。信じて洗礼を受ける者は、イエスの死に与り、「肉」に死んだ者とされ、罪と死から解放される。
 9節に引用された「目が見もせず、耳がききもせず」以下の詩句は、旧約聖書に存在しない。だが、この神の救済計画は、人間のみならず「この世の支配者たち」さえも予測もできなかった驚くべき恵みであることを述べている。では、それを人間がどうして理解し感謝することができるのか。
 それが10節~12節である。「わたしたち(信仰者)には、神が<御霊>によってそのことを啓示して下さいました」。共同訳では〝〟付で〝霊〟となっているが、これは「神の霊=聖霊」を示している。それ以外の霊と紛らわしいので、私達は<御霊>と表記することにする。
 人間の心中を知るのは当人以外ないように、神の御心(意向)を知るのは御霊以外ない。信仰者が受けたのはこの「神の霊=御霊」であり、御霊によって信仰者は、神が彼らに与えられた恵み(神の民とされたこと、およびその他の救いの賜物)を悟る(理解する)ことができる。
 しかし、神の民全員が御霊を付与され「神の秘められた計画=奥義」を啓示されたといっても、与えられた賜物はそれぞれ異なるのであり、言葉(ロゴス)と智慧グノーシスやソフィア)の賜物を全員が与えられている訳ではない。従って、神的智慧に関わる賜物を持つ者達(パウロや伝道者達)が、他の信仰者達にそれを伝える働きをする。 13節「そして、私達がこれについて語るのも、人に教えられた智慧の言葉によるのではなく、<御霊に教えられた智慧の言葉>によって、霊の人々に霊のことを説明する」とあるのは、エクレシア内部で神的智慧が説明されることを言う。
 御霊を付与された「霊の人々=信仰者達」だから、「御霊に教えられた智慧の言葉=人間的智慧ではない神的智慧の言葉」を聴いて、理解可能なのである。6節の「信仰に成熟した人たちの間では、智慧を語る」とは、このことである。
 14節「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。それは霊的に判断(理解)されるべきものです」。御霊を受けていない生まれながらの人は、いくらIQが高くても霊的な事柄(十字架の意義、復活者イエスの支配、神の国の到来など)や神的智慧は理解不能であり、「愚か」としか感じられない(ローマの権力者や教養人達の、福音への冷笑的態度を見よ!)。
 だから、15節「霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません」。
 御霊を受け、それに従って生きる「霊の人々」は、世の人々の人間的思いやその滅ぶべき定めを理解するが、世の人々からは理解されない。世において、イエスパウロがそうであったように、信仰者達=エクレシアは孤立している。16節に引用された「だれが主の思いを知り、」以下の聖句(イザヤ40:13)は、人間は決して<神の思い=神の御心>を知り得ないとの原則を言う。
 これに対し、16節後半「しかし、わたしたち(エクレシア)は<キリストの思い>を抱いています」。御霊は、<キリストの霊>として注がれるから、引用聖句に合わせて「霊」を「思い」と表記し、<キリストの思い>と表現されている。「霊の人」は、「奥義」を啓示する<御霊=キリストの思い>を注がれ、それによって一切を霊的に判断・理解することができる。
 <御霊>は信仰者達=エクレシアにこれ程の霊的賜物と視力を与え、人間的思考(思い煩いや肉の誇り等)から解放する。従って「堅く立って、二度と奴隷の軛につながれてはならない」(ガラ5:1)のである。