家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

「誇る者は、主(キリスト)を誇れ」

2022年10月16日

テキスト:Ⅰコリント1:26~2:5

讃美歌:502&294

 

                (2)コリントにおける分派活動との戦い(1:10~4:21)
                      b.福音と世の智慧との衝突(1:18~3:23)
                                            
 前回、パウロはコリント教会に生じた「アポロ派」「パウロ派」その他の、どの指導者につくかという分派争いを批判し、教会の唯一の基準はキリストであり、人間的資質や賜物という肉的基準であってははならない事を教えた。また、使徒自身の任務は「福音を告げ知らせる」事であり、しかも「キリストの十字架が無力なものになってしまわない」ために「言葉の智慧によらない」告知であるとした。
 パウロが宣べ伝える十字架の言葉(十字架を救済の核心的事柄として告知すること)は、滅びる者には愚かであっても、信じる者を救済する「神の力」である。この世の智慧が(十字架を)愚かとするとは、逆に「神はこの世の智慧を、愚かにされた」ことである。「世は智慧によって神を知ることがなかったので、神はケリュグマ宣教の愚かさによって、信じる者を救うことをよしとされた(決心された)」。
 従って、使徒(伝道者)は「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝える。この方は、(現世利益)を求めるユダヤ人には無力、智慧(解脱)を求めるギリシャ人には愚かであるが、信ずる者にとっては、救いをもたらす「神の力・神の智慧」である。十字架の(=神の)愚かさは、人間的智慧より賢く、十字架の(=神の)弱さは、真に人間を救済する神の力である(25節)。
 次に、神的力・神的智慧が「この世の智慧」を否定し愚かとされた実例を示す。

②神が智慧を卑しめられた事の第一の証明、「召された者達(教会)」(1:26~31)
 パウロは、コリント教会の人々に信仰に召された時の自分を顧みるように促す。26節「肉的基準によれば、知者や権力者や高い身分の者は多はない。かえって、神は知者を辱めようとしてこの世で愚かな者を選び、強者を辱めようとしてこの世で何の力もない者を選び、また、何ほどかの力を有する者を滅ぼそうとしてこの世で何の力もない者、すなわち身分の低い者や軽蔑されている者を選び給うた」。
 パウロは、コリント教会の人々を貶めようとして(身の程を知れと)言ったのではない。そうではなく、神は「低き者を顧み給う」方であることを思い起こさせるためである。神の恩寵を受けた者は、皆、このことについて神を讃美する。旧約聖書にも多くの言及(「わたし(神)は高く、聖なるところに住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕けたる者の心をいかす」イザヤ57:15など)があるし、新約聖書中のマリアの賛歌は「低き者を高め給う」(ルカ1:52)と神讃美している。また、主イエス御自身、神の啓示(福音)が「賢い者に隠され、幼子に顕された」と、神を讃美された(マタイ11:25)。
 神が「低き者を顧み給う」方であり給うことに相似して、地上のイエスも、特に選んで「貧しい者、病人、罪人」に近づき、ガリラヤの名もない庶民を弟子とされたのであった。教会・キリスト者の「無に等しい」卑賤な姿は、(この世的に)愚かで無力な「十字架につけられたキリスト」の卑賤なお姿に倣い、それに与っているのである。
 パウロは、以上のことを「肉なる者はだれ一人、神の前に誇ることがないため」と総括する。これはエレミア9:23「知恵あるものはその知恵を誇ってはならない。力ある者はその力を誇ってはならない。富める者はその富を誇ってはならない」に対応する。全ての知恵と力と豊かさの根源である神の前に、人間の知恵も力も富も、否定されるからである。コリントの人々は、召された時の自分達が、この世的にいって決して知者・権力者・高い身分の者が多くはなかったことを指摘され、そのような神の慈悲深い御性質を思い起こしたであろう。彼らが召されて、キリストと一体に結びつけられ、あらゆる賜物を豊かに受けたのは、この「低き者を顧み給う」神によってである。
 だから召された信仰者自身がではなく、キリストが、彼らの神的智慧となり、彼らの「義と聖と贖い」となられたと、パウロは指摘する。
 とは、そう宣告されるだけでなく、現実に罪と無縁にされることであり、とは、キリストの所有として聖別されたことである。贖いとは、本来は終末時にイスラエルが異民族支配から解放され、自由な神の民となることをいう。だが、イスラエルが待望したこの贖い(解放)は、イエス・キリストの十字架によって、ローマなどの異民族支配からではなく、神に叛く勢力としてのこの世の支配者からの解放という徹底した形で実現した。つまり、罪と死から解放され、自由な神の民とされたという事である。これら全ては、キリストにあって(エン・クリスト)彼らに実現した。
 先に引用したエレミア9章の続きは「誇る者はこれを誇りとせよ。すなわち、さとくあって、わたし(神)を知っていること、わたしが主であって、地に、いつくしみと公平と正義を行っている者であることを知ること」であり、なお敬虔な「神を知ること」を誇りとしている。だが、パウロはこれを徹底し「(キリスト)を誇れ=主にあって誇れ」とする。つまり、信仰者は自分自身から目を離し、低きを顧み給う神の御意志を実現された「キリストを仰ぎ見て」誇る。自分がどうあるかではなく、十字架上で全ての人間の罪と死を滅ぼされた勝利の主を、誇る。

③神が智慧を卑しめられた事の第二の証明「パウロのコリントでの宣教」(2:1~5)
 最初に宣教された者達(教会)を実例としたので、パウロは次に宣教者である自分自身のコリントでの宣教を「神が智慧を卑しめられた」実例とする。
 コリントに入ったパウロは「衰弱し、恐れにとりつかれ、ひどく不安」であったと告白している。彼は、テサロニケからシナゴーグユダヤ人達に暴力的に追われて脱出。ペリアに逃れて宣教し、テサロニケからペリアまで追ってきたユダヤ人達からまた逃れて、アカイア州に入った。だが、残してきたテサロニケ教会を心配してテモテらを送り出し、たった一人でアテネ伝道を試み、失敗してのコリント入りであった。肉体的精神的に疲れ切っていたであろう。だから彼のコリント(シナゴーグ)での宣教は、よく練られた言葉や知恵を用いなかった。ただ、「神の秘められた(救済)計画=奥義(ミステリオン)」として「十字架につけられたキリスト」だけを宣べ伝える決意であった。だが、それが「霊と力の証明」を引き起こしたのであった。この「霊と力の証明」は具体的にはどんなことだったのだろうか。パウロが多くの奇跡を行ったことは使徒行伝にも記されているが、これはそうした奇跡による証明ではなく、聞く者の心に直接、激しい感動を引き起こす霊的力が働いたのであろう。例えば恋に落ちる瞬間、それが自分の意志的決断ではなく「捉えられた」と感じるように、「十字架の言葉」が、それを遙かに上回る強い力でその人を捉え、信仰を引き起こし、今までとは全く違う自分とされる体験である。人間に生来備わった宗教性(宗教的知恵)からではなく、外からきた「神の霊と力」が、「十字架につけられたキリスト」にあって体験せられた。
 5節「それは、あなたがたが人の知恵ではなく、神の力によって信じるようになるためである」。信仰は、人間の敬虔さや意志的決断によるのではなく、その人を御自分の民とするために召して下さった「神の力」を土台としている。これは力強く慰め深いことではないだろうか。
 例え老いや病気で、聖書も読めず、礼拝もできない状態になろうとも、私達の信仰は、私達を御自分の民として下さった「神の力」に支えられ、守られているのである。