家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

結婚と独身

2023年2月5日

テキスト:Ⅰコリント7:1~16

讃美歌:4&388

                    (4)教会からの質問に対する回答(7:1~11:10)
                                            
  前回迄は、パウロが伝え聞いたコリント教会の現状を心配して自発的に書き送った内容である。一方、教会の側からも信仰に基づき自分達の生活をどのように形成すべきか、様々な質問を送って来ていた。以後は、それに応じる答えである。
                                ①現世の絆(7:1~40)
 キリスト者は永遠への希望を抱いているが、地上に生きる限り様々な現世的絆に繋がれている。その代表的なものが男女関係であろう。過ぎ去るべき世であっても、恋愛や結婚、家庭生活そして仕事など他者&社会との関わり中で人間は生きている。そうした人生の様々な局面からの質問が、教会からパウロに寄せられていたのだろう。パウロの回答は勿論当時の社会的構造や結婚観に基づいているから、現在の私達の感覚とは少し違和感があるように思える。だが、キリスト者が永遠の希望を抱きつつ、直面する現実生活にどう対応すべきかの基本的考え方は少しも変わらないだろう。7章に記述されているとおり順番に読んで行きたい。
a.性的禁欲について(7:1~7)
  1・2節。「男は女に触れない方がよい」とは、(男女を問わず)性的関係は持たない方が良いという意味であり、コリントの一部の人々の主張だったのかも知れない。パウロも原則それに同意している。だが、「淫行」の問題で採り上げたような「霊肉を分離して考える」グノーシス主義者が、一方では霊的自由に勝ち誇って身体的快楽を解放する「自由主義」に陥ったが、また他方では逆に身体的行為(性交)を汚れとして嫌悪・罪悪視する「禁欲主義者」もいた。そのような禁欲主義者が「男は女に触れない方がよい」を主張したと考えられる。しかし、情欲から解放されることは一種の賜物(カリスマ)であり、人間の意志や努力で達成すべき掟や律法ではない。また、情欲に縛られる度合いは、人によって様々であることが、アウグスティヌスの「告白」等を読むと分かる。だから無理して禁欲し、かえって「淫行」に陥る危険を冒すよりは、(男も女も)まともな結婚をした方がよい、というのがパウロの考えである。
 3・4節。そして結婚した以上、お互いに(宗教上の理由で)性交を拒んではならないとする。自分の性的機能は、もはや自分自身のものではなく、配偶者に与えたものだからである。つまり性交抜きの結婚を認めない。パウロは、この点で男女を区別していない。
 5・6節。とはいえ、現世的絆をしばらく差し置いて、永遠的絆である神との交わりに集中すべき時がある。聖霊と語り合う祈りのために、相互に納得の上で一定の期間を限り別居することは差しつかえない、という。(当時の信仰者達が、神の語りかけを聴くために如何に祈りに沈潜したかが伺える。一方的な求めや嘆願だけでなく、それに応える〝細き御声〟に耳を傾け息を潜めて待つ集中が祈りの中にある。詩篇の嘆願の祈りが途中で突然讃美と感謝に転じるのは、神がお応え下さったからである。真剣に諦めず求める祈りは、必ずや応えられる)。
 期間を限るのは、別居が長引いて抑制しきれなくなった夫または妻が、サタンに誘惑され「淫行」に陥らないためである。もっとも、以上は許可であって、そうせよと言う命令ではない。本音を言えば、キリスト者皆が(パウロのように)情欲から解放され、自然と独身状態であるほうが望ましい(7節)。だが、神の賜物(カリスマ)は人によって異なるのだから、それに対応して異なる生き方がある事をパウロは認める。(実際、ペテロのように妻帯している使徒や伝道者もいた)。
 ユダヤ教は、イスラエル民族存続のために結婚を義務とした。だが、神の選びが「血筋によらず、肉の欲によらない」以上、もはや子孫を残すためでなく、性的純潔の観点からのみから結婚や男女関係が考えられている。現在の私達にも、7節の賜物が異なる以上、それに応じ異なった生き方があるという考え方は、男女関係に限らず重要である。キリスト者は画一的でなくて良いのであり、例えば洗礼の有り様や聖職者の独身制など、違いを批判し合うだけでなく、賜物の差として受け入れる霊性を持つべきであろう。要は、「愛において働く聖霊に聴く事である。
b.結婚の選択と維持(7:8~16)
 8節の「未婚者と寡婦」は、(男女ともに)結婚の経験がないか配偶者と死別した独身者を指す。パウロは、可能であれば彼自身のようにそのまま独身を継続する方が望ましいとする。だが、無理に抑制してかえって情欲を煽られるよりは結婚した方がましと、至極常識的に考える(9節)。
 10節、既に結婚している場合。離婚しようとすべきではない。これは使徒(パウロ)ではなく主の命令として語られる。イエスは離婚を禁止された(マルコ10:5~12ほか)からである。パウロが、イエス伝承を十分承知していたことが分かる。福音書はまだ成立していないが、地上のイエスを体験した者達がまだ多数活躍しており、教会や新規参入者達は彼らから直接伝承を受けていた。
 既に離婚していた場合、再婚しないでいるか、元の配偶者と復縁することを勧める(11節)。
 福音が新しく宣べ伝えられたコリントのような場所では、入信者の配偶者が異教徒(未信者)のままである可能性が高い。宗教は食事や日常行事など生活に深く関わっていたから、信仰の違いで共同生活が困難になる場合がある。そのような場合でも、キリスト者の側から離婚を申し出てはならないということである。離婚するかどうかは未信者側の決断次第である。未信者である相手が結婚の維持を望むなら、離縁すべきではない。14節、聖霊と結ばれて浄められたキリスト者、の配偶者は、聖なる者である。何故なら、「(結婚した)二人は一体である」だからである。ユダヤ人と非ユダヤ人の結婚によって生まれた子供を、生まれながらにユダヤ人と認めるユダヤ教のラビ的論理が応用されている。結婚の絆はこのように深い。同様に、男女に限らず深い愛で結ばれた者達は一方の信仰によって他方も憐れみを受けるのではないだろうか。十戒も「我を愛し我が戒めを守る者には恵みを施して千代に至る」(第2戒)とある。
 もし未信者側が別れることを選択したら、引き留めるべきではない。情に惹かれて無理に引き留めたり、相手を信仰に導くために引き留めて、結果、批判や罵り合いの結婚生活を継続すべきではない。15節「平和な生活を送るようにと、神はあなた方をめされたのです」。また、信仰は神の選びの事柄であるから、人間の力でそれをもたらそうとするのは不可能なだけでなく「僭越・傲慢」なことである。これは、家族に限らず他者に福音を伝えようとするキリスト者の願いにとって重要なポイントである。宣べ伝え、かつ相手を神に委ね、信頼して祈るべきであろう。実際、家族といっても、神の前に一人で立つ独立した人間なのである。
 以上、ここまでの記述を読むと、独身や結婚についての考えは絶対的ではなく、一定の限界が想定されているのが分かる。離婚禁止命令といっても、未信者からの離婚を認める柔軟さがある。結婚や男女関係は人生の重大関心事であるが、地上での生活はやがて過ぎ去るのだから、永遠を見据えて、現世的絆を自分の中に位置づけるということであろう。
 現世(地上)で開始された神の支配が、やがて完成されるのであるから、一部グノーシス主義者のように肉における地上の生を軽蔑し、どうでも良いように扱うべきではない。自分に与えられた人生を誠実に生きるべきである。では、キリスト者の現世的生活基準はどのようなものであろうか。その原則が、次に語られる「召されたときの身分のまま」という言葉に表現されている。
 キリスト教入信儀式である洗礼において「あなたがたはみな神の子である。キリストの中へのバプテスマされた人は皆キリストを着たからである。ユダヤ人もギリシャ人もない。奴隷も自由人もない。男と女はない。あなたがたはみな一人だからである」(ガラテヤ3:26~28)という定式が唱えられた。受洗者が水から上がってこれを唱えるとき、①宗教的、②身分的、③性的、の三つの差別が取り払われ、主にあって一つに結ばれた共同体を実感したであろう。
 だが教会内は「解放区」であっても、キリスト者は相変わらずこの現実社会で生き続けねばならない。今回はまず③「男と女はない」結婚問題が取り上げられた。次回は、この原則、および①「ユダヤ人もギリシャ人もない」割礼問題、②「奴隷も自由人もない」身分問題を取り上げる。