家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

聖霊付与の約束-1

2021年10月10日

テキスト:ヨハネ伝14:15~24

讃美歌:181&66

                        B.救済者の天への帰還(13:1~20:31)                                           
1.弟子達への告別説教(13:1~17:26)
14章(イエスが道であること、聖霊付与の約束)
 前回、御自分が去ることは父の御許に弟子達の居場所を作るため、つまり十字架の御業によって人間を浄め、神と共にいる事ができるようにするためである、とイエスは語られた。そしてそれを成し遂げた後、弟子達を迎えに戻り「私の居るところに、あなた達もいることになる」、つまりいつまでも一緒に居ると言われた。これは、聖霊によるイエスの臨在を意味している。
 イエスが去るのは父(神)の御許に行くことであるから、「私がどこに行くのか、その道をあなた達は知っている」と言われ、トマスの問いに答えて「わたしが道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」と言われた。イエスの十字架を通してでなければ誰も神の御許に行くことはできないから道であり、イエスこそが「ヤーウェの救い」の実体(真理)であり、神と偕なる永遠の命そのものだからである。イエスはその名の通り、世に顕現された「ヤーウェの救い」であり、イエスを見ることは神を見ることである。また、イエスの名によって祈ることは、イエスが父に代理して叶え給う。つまりイエスは、人間に相対される神(ヤーウェ)そのものである。
(2)聖霊付与の約束(14:15~31)-1 
 「あなた達は私を愛しているならば、私の命令を守るであろう」と、イエスは言われた。「私を愛する」とは、イエスを信じ、全身全霊をイエスに委ねること、つまり信仰を献げる事である。そうする者は、イエスへの愛の表現としておのずから彼の命令(イエスに愛されたように互いに愛し合う事)を行うであろう。従って、守れという命令形(should)ではなく、未来形(would)で表現されている。信仰によってイエスに結ばれた者は、復活のイエスの命に生きる。だから、その人の内にいますイエスの御霊によって動かされるからである。
 16節「私は父にお願いしよう。父は別の同伴者をあなた達に与え、その方がいつまでもあなた達と一緒に居るようにしてくださる」。イエスが世を去っても、弟子達は取り残されるのではない。地上のイエスが弟子達を保護されたと同様に彼らに同伴し、教え、導き、助け、慰める方(同伴者=パラクレートス)の派遣を、イエスは父にお願いすると言われた。3節で「戻ってきて、あなた方を私の元に迎える。こうして、私のいる所に、あなた方もいることになる」と、イエス御自身が弟子達に臨在されるように語られたのに、「別の同伴者」と言われるのは何故だろうか。
 最後の晩餐でこれを語られるイエスは苦難の僕として試練を受ける御方であるけれども、聖霊は勝利された栄光のイエスが父の名において派遣される霊だからである。勝利のイエスから神の名において派遣される霊が弟子達に宿り、弟子達に同伴される。地上のイエスが弟子達を保護し導いたように、聖霊が弟子達に同伴し、教え、慰め、導き、愛と喜びに満たして下さる。「パラ」とは、「傍らに」という意味であり、「クレートス」とは「呼ばれた者」という意味がある。呼ばれてその人に傍らにいる者、一般的には弁護人、助け手と訳される語である。英語ではComforter(慰め主)、Helper(助け主)、Counselor(助言者)、Advocate(弁護者)等と訳されている。要するに、地上のイエスが弟子達を支え導いたように、またはそれ以上に信仰者に伴い、彼らを支え、愛と喜びに満たして下さる霊だからである。
 17節「その方とは真理の霊である。世はその霊を受ける事ができない。…あなた達はその霊を知っている。その霊はあなた達の元にとどまり、あなた達の中におられることになるからである」。
 「真理=アレテイア」とは、影とか予型に対する実体(リアリティ)を意味する言葉であり、聖霊が実質的な霊的体験を得させることを言う。だから、地上のイエスを弟子達が体験してもその時は理解できなかった事を、思い起こさせ深く体験せしめる霊である。聖霊によってイエス(および彼における神の愛)を知った弟子達は一変した。彼らは殉教をも恐れぬ使徒となったのである。このような深い体験は、人間自身の理性や霊性で神を知ろうとする世の人には知ることも感じることもできない。だが弟子達=イエスを信じる者は、この霊によって神を知り、自分が神のものである事を悟る。だから、パウロも「かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい」(Ⅱコリント5:16)と語っている。聖霊がキリストを知らしめるのである。
 「あなた達の中に(間に=エン)居られる」とは、キリスト者相互の間、つまりエクレシア(信仰共同体)に居られるとも解釈できるが、むしろ個々のキリスト者一人一人に内在されると解釈する方が良いであろう。そうすれば、共同体においても当然その群れと共に居られることになり、個人と共同体双方を導く方として聖霊の自由な働きを考える事ができる。
 だから、もはやイエスがお身体においてではなく、聖霊において神と共に(三位一体で)信仰者に内在し彼らに同伴されるのであり、彼ら(弟子達=信仰者達)は取り残された孤児ではない。
 「もうしばらくすると」イエスの捕縛・十字架死によって世からイエスは取り去られてしまう。だが、地上に居られた時よりも一層具体的・実態的に弟子達=信仰者達に臨在すると約束された。私達現代のキリスト者は地上のイエスを見ない。だが、地上のイエスと共に生きた弟子達以上に、主が私達に同伴して下さる。「その日には」イエスが神の内に居ますように、弟子達=信仰者がイエスの内におり、イエスが彼らの内に居ます事が分かる。聖霊がその交わりを実体化するからである。互いに主に愛されたように愛する者(イエスの命令を守る者)は、イエスを愛する者である。神はその人を愛し、イエスもその人に御自分を現される。つまり御自分のお姿をその人に刻印される。だから、その人はイエスの業を行うであろう。イエスの苦難と業に倣って生きるだろう。
 イスカリオテでないユダが、弟子達にだけ御自分を現して世全体にそうされないのは何故かとお尋ねした。マルコ・マタイ福音書では十二弟子の中にイスカリオテのユダ以外にユダはない。だがルカ伝6:16と使徒行伝1:13に「ヤコブの子ユダ」が登場する。これは、マルコ・マタイ伝の「タダイ」と同一人物と推測される。彼の質問は、迫害される共同体(キリスト者達)を代表している。何故、終りの日までイエスが主であると言う事が世に隠されているのか、という問である。イエスについての認識が世と異なる事によって、世から迫害と試練を受ける者達からの問いである。
 イエスはそれに直接お答えにならず「私を愛する人は、私の言葉を守る。…愛さない者は私の言葉を守らない」23・24節と言われた。イエスを信じ自分を献げるか否か、信仰の真実さが証されるのが試練である。同時に、迫害や苦難を耐え抜く信仰が、世に対してもその信仰の真実さを証明する(証する)のである。イエスがそうであり給うたように、キリスト者も自分を捨てて他者を愛するならば、イエスが彼らにおいて世に宣教されることになる。神は人間に救いを押しつけたまわない。人間が神の愛を悟り(知って)、自分から応答する信仰を求めておられる。キリスト者が試練に耐えつつ神を慕い求める事によって、世は神の愛を知るであろう。信仰者はこうして終りの日まで福音を証し、世に対し責任を負う。そのような人に、イエスと父が聖霊において臨在する。つまり三位一体の神が、その人と共にいる、と言われた。終りの日を待たず、肉にあるままにすでに神と偕なる生がその人に開始するのである。こうして語っておられるイエスの言葉は、イエス御自身の言葉であるだけでなく、イエスを派遣された父(神)が語り、証言しておられるのだ、と言われた。
 今回取り上げた箇所は、神秘的・霊的であり、難解のように見える。だが、歴史上にイエスが出現したという事実が、どんなに私達を支えているかを考えれば分かりやすい。イエスの十字架死と復活が、世のはじめから神が人間を愛し御自分に向けて創造された事を悟らせ、私達の人生を永遠の神に結びつけ、「神と偕に住む」永遠の命への希望を抱かせている。既に過ぎ去った死者達も、現在の私達も、やがて生まれてくる人々も共に、主イエスにあって神を讃美する日を、私達は待ち望んでいる。イエスは「今いまし、昔いまし、やがて来たるべき方」(黙示録)なのである。