家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

最初の弁面Ⅲ イエスの死を負う

2024年2月25日

テキスト:Ⅱコリント4:1~12
讃美歌:284&338

            コリント人への第二の手紙
                                        A.最初の弁明

 コリントに来訪した「論敵」は、「無割礼の福音」に反対するため、パウロらが①他教会(エルサレムやアンテオキアなど)からの推薦状を持たない、②パウロはかつて教会迫害者だったし、イエス直弟子でない、等の個人攻撃をしたようだ。そこでパウロは、❶コリント教会の人々が(無割礼のままで)聖霊により異言や預言の賜物を受けていること自体が、自分達の推薦状である、と論駁した。またそれは、キリストが自分達を用いて聖霊によってコリントの人々の心に書き付けた世に対する「手紙」であり、またそれこそ預言された(エレミア31:33「来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約は、…すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」)終末時の「新しい契約」である。
 この「新しい契約」は、聖霊が人間を内面から変革し「主と同じ姿に造りかえ」る事により「人を義とする」ものである。「人を罪に定める」役目を担った「古い契約=律法」に仕えたモーセの顔が、神の栄光で「輝いていた」のであれば、「人を義とする」「新しい契約」に仕える者は、なおさら勝った「栄光に包まれているはず」である。
 以上のような希望と確信を抱いているので、❷自分達の人間的資質がどうあろうと、「神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語って」きた、と述べた。
 そして、モーセは「古い契約」(この言葉によって、「旧約聖書」の名称が生まれた)の栄光が過ぎ去るのを隠そうと「覆い」をかけたが、今日でも律法が朗読される時はまだこの「覆い」が残っていて、神と人を隔てている。それは、キリストにあって「神の無条件の救い」が明らかになってはじめて取り除かれる。
 「主の方に向き直れば」つまりイエス・キリストを信じ受け入れれば、「覆いは取り去られ」「鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます」。それは「主の霊聖霊」の働きによる、と語った。ここでは、イエス・キリストを信じ自分を委ねるとき、人間が新しく「造りかえられて」いく事が述べられている。キリスト者の生涯は、生まれながらの自分が、主にあって「造りかえられていく」過程である。
 さて今日は、そのような「新しい契約」に仕える使徒が、自分自身について語る箇所である。
(6)啓示の光(4:1~6)
 「1こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。 2かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。
  3わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。 4この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。
  5わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。 6「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました
 1節、このように「新しい契約」を告知する栄誉ある任務を、委ねられるという恩寵に与った以上、「わたしたち」はそれを遂行するにつき弱気や落胆に陥るような事はしない(できない)、とパウロは断言する。コリント教会では、論敵達の影響でパウロの伝えた「福音」が、未熟で真理が「覆われている」という批判が広がっていた。論敵は、自分達が受けているイエス伝承やエルサレム教会の権威を誇示し、パウロの語る福音を貶めようとしたのであろう。ガラテヤ書では「御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか」(ガラ3:3)と真っ向から反論したが、ここでは自分の語る福音は神から啓示されたものであり、その権威は人間的資格によらないと反駁しようとする。
 パウロは、啓示された「神の言葉を曲げず、真理を明らかにすること」だけを一心に行い、(論敵のように)当人不在のところで人を誹るような「悪賢く」「卑劣な隠れた行い」をせず、他の人間からどう見られるかは「神の御前で…すべての人の良心にゆだねる」と、弁明する。
 パウロの伝えた福音が「覆いが掛かっている」とするなら、それは(信じないで)「滅びの道をたどる人々に対して覆われている」のである。神に反逆する「この世の神(支配者=悪魔)」が、不信者の心を眩まし「神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光」を見えなくしたのである。
 キリストが「神の似姿」と称されるのは、すべての人間が神との正しい関係に入れるように、彼らの罪を担って死に、かつ彼を信じる者が神に生きるために復活されたこの方が、神の愛を具現しておられるからである。「キリストの栄光」と言うのは、彼を信じる者をすべて救いに至らせる力は神のものであり、最初の創造を更新し完成させる創造者の栄光に輝いているからである。この新しい創造(新しい契約)の告知・布告が福音である。
 パウロ一行は、論敵のように自分の資格や権威を宣伝したりしない。人間には、持って生まれた霊的能力というものがある。(例えば、行伝8:9の「サマリアのシモン」はその力で多くの人を惑わした)。そのような人間的能力によらないことを明らかにするため、パウロは、自分が行った多くの奇跡や特別な啓示(ダマスコ体験や第三の天に挙げられた事など)を語らず、「主であるイエス・キリスト」だけを語る。自分達は、「エスのために=彼に使役されて」あなた方コリントの人達に福音を伝える僕(奴隷)なのである。
 「闇から光が輝き出よ」と命じて光を創造された神が、(ダマスコ途上で)パウロの心の中に「(啓示の)」を出現させて、「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟」らせて下さった。(ここの主語は「わたしたちパウロ一行」になっているが、実際はパウロ自身の体験)。これは、全く突然の「啓示」であり、自分から求めた事ではなかった。
(7)イエスの死を負う(4:7~12)
 「7ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。 
 8わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、 9虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。 10わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。 11わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。12こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります
 7節。ところで、この福音という無上の「」が、粗末で壊れやすい土器のような「わたしたち」宣教者に託されている。これは、福音の「並外れて偉大な力」が、宣教する人間からではなく、神から出たものである事が明らかになるためである。
 8節。具体的に言えば、「わたしたち」宣教者はいつも「四方から苦しめられ…、途方に暮れ…、虐げられ…、打ち倒され」ている。(この言葉に、パウロが体験した数々の苦難が思い浮かぶ)。
 9節。しかしそれにもかかわらず、「行き詰まらず、失望せず、見捨てられず、滅ぼされない」。

 10節。言い換えれば、「わたしたち=福音宣教者」はいつも「エスの死」(地上のイエスが味わわれた苦難と死。この「」は、「殺害」を意味する「ネクローシス」である)を「体にまとって」いる。それは、イエスの復活の命が使徒達の「この体に現れるため」である。
 11節。ここでパウロは、宣教を始めて以来絶えず味わった命の危険を考え(ダマスコ城壁から逃れたり、ピリピで石打ちされたり(行伝14:19参照)、ユダヤ人テロリストに狙われたり、etc.)、「生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています」と実感を込めて言う。それは、イエスの復活の命が、死ぬはずの身に実現するためである。(実際、ピリピで石打ちされ、死ななかったのは奇跡といえる)。このように彼は、前の手紙15章で述べた「死者達の復活」の希望を、現在の自分の苦難において表現し、告白している。
 しかしここまでは、「地上での患難は、天上で大いに報いられる」という一般的な敬虔の範囲で理解できない事もない。驚くべきは12節である。12節は、使徒・宣教者である「わたしたちの内には」苦難という「死が働」くことによって、その結果(自分達の身にではなく)宣教相手である「あなたがたの内には命が働」くことになる、と言っている。これは地上のイエスの苦難が、信仰者達にもたらした効果と少し似ている。キリストの霊である聖霊バプテスマされた信仰者は、キリストに巻き込まれ、地上でイエスが他者の為に苦難されたように、(力に応じてだが)他者の救いの為に苦難し、それによって世に福音の光をもたらす。それはその人のうちにある主の働きである。言い換えれば、7節同様、苦難に打ち勝つ宣教の力は「わたしたちから出たもの」ではなく神からの力であると、自分の内面から語ったといえる。
 しかし別の面から言えば、3:18「鏡のように主の栄光を映し出しながら、…主と同じ姿に造りかえられて」いく事の地上での実現であり、それは将来の復活への希望に結びつくのである。13節以降、その希望が語られているが、長くなったので今日はここまでとする。