家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

トマスへの顕現

2022年6月12日

テキスト:ヨハネ伝20:24~29

讃美歌:533&534

                        B.救済者の天への帰還(13:1~20:31)
                                           
2.受難と復活(18~21章)
20章(イエスの復活と弟子達への顕現、福音書の目的)
(1)イエスの復活と弟子達への顕現(20:1~29)
 前回は、閉じこもった弟子達への顕現を取り上げた。罪を赦す権限付与については、カトリック系教会における告解の秘蹟との関係など、もう少し突っ込んで考えたい事もある。だが、私達自身が主の死によって赦しを受けた事から鑑み、他者に対して「赦しの福音」をさし示すべき義務がある事をまず心したい。こうした制度や自分に対する悪を赦すことについては、今後の課題としたい。
 c.トマスへの顕現(20:24~29)
 今回は、前回取り上げた弟子達への顕現(十字架後はじめての日曜日の夕方)に居合わせなかったトマスへの顕現を取り上げる。思いがけず6月1日から9日まで入院してしまい、準備が充分でないので、「ディデュモスと呼ばれるトマス」がヨハネ伝ではどんな人物として描かれているかをまず振り返ってみたい。
 「トマス」という名は、双子を意味するアラム語「トーマー」から来ている。アラム語を解さない人に説明する為、双子を意味するギリシャ語「ディデュモス」を添えたのである。だから、通称トマスである。14:22に「イスカリオテでないユダ」が登場しており、これが通称トマスの本名ではないかと考えられている(シリア起源の外典などでは使徒トマスは「ユダ・トマス」と呼ばれることが多いそうである)。だが、推測なので、私達としては「トマス」の言動として記された箇所(11:16、14:5、20:24~29、21:2)だけを取り上げたい。
 トマスは後にパルティア(現在のイラン)やインドまで伝道した使徒として、新約聖書外典である「トマス行伝」にその活動が伝えられ、東方キリスト教では主要な使徒として重要視されている。また新約外典トマス福音書」の著者とされ、さらにはイエスの双子の兄弟(!)として彼にだけ特別な秘儀が伝えられたとするグノーシス文書まで存在するそうである。
  トマスは、共観福音書では十二弟子の一人として名前が挙げられているだけだが、ヨハネ伝では以上のようにその言動が詳しく取り上げられており、ヨハネ共同体と親しい繋がりがあったことが推測される。おそらく長老ヨハネの伝承にも度々登場して、愛弟子にとって十二弟子の中でも親しみのある人物だったようである。おそらくペテロやゼベダイ兄弟よりも年が若く、年少の愛弟子には身近に感じられる人物だったのではないか。
 トマスが最初に読者の注意を引くのは11:16「我々も行って、一緒に死のう」という言葉である。ラザロを甦らせる為にユダヤ地方に行こうとされるイエスを、弟子達は石打ちにされる危険があると引き留めようとした。だが、このトマスの言葉で弟子達も、例え死の危険があろうともどこまでもイエスに従って行く覚悟をつけたのである。だが、ここでちょっと「あれ?」という気持ちにならないだろうか。イエス様のような神的なお方が、簡単に石打ちで殺される訳がないだろう。ここはむしろ、「師イエスに従って行き、自分達の命を賭けても、なんとしてもお守りしよう!」とでも言う方がふさわしいように感じる。なんで「一緒に死のう」なのか?
 次に、彼は14:6「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」という有名なイエスの言葉を引き出す質問をしている(14:5「どうしてその道を知ることができるでしょうか?」)。
 そして、「疑うトマス」として、この20:25「あの方の手に(十字架の横木に釘付けされた)釘の跡を見、この指を釘跡にいれてみなければ、そしてわたしの手をあの方の脇腹(死の確認の為、ローマ兵に槍で刺された傷跡がある)に入れて見なければ、わたしは決して信じない」である。これはちょっとどぎつ過ぎないだろうか。たかがカテーテルを刺された傷さえ相当に痛いというのに、五寸釘を打ち込まれた掌の傷跡に指を差し込むだの、槍で突かれた脇腹の穴に触って見るだの、なんというサディスティックな行為だろう!これは、ただの同一性の確認(復活された方がナザレのイエスだという)以上のものがある。
 イスラエルの信仰的伝統には、民の罪を負って死に、民を救う「神の人」のイメージが存在する。例えば、モーセは神に背いた民イスラエルの罪を負って、約束の地を目前にしながら一人淋しく死なねばならなかった。その遺体すら葬られることなく、神御自身が彼を葬られたのであった。第二イザヤの預言した主の僕は、「その打たれた傷によって」神の民の傷を癒やし、自分自身は非業の死を遂げる(終りの日の審判の際には、その犠牲にふさわしく報いられるのではあるが)。洗礼者ヨハネは,イエスを「世の罪を取り除く神の小羊」と呼んだ。つまり、世の罪を自分の身に負って死ぬ御方、という意味である。
 この「神の人」は、確かに民の罪を負って死に、民の罪をきよめる。だがその人自身は、死と滅びを代理して身に受ける。その代理的な死が、それ以降に犯された罪に対しては無効であるにしても、その死は、人間としては最高の自己献身であり、神と人との仲立ちの行為である。トマスは、イエスをそのような「神の人=神の羔羊」と見ていた。だから14章では、この御方に従って自分も「一緒に死ぬ」ことを願ったのである。
 そして、そのように「世の罪を取り除く」為に死んだ御方が、終りの日の死人の復活でもないのに「復活」された、と言うことが飲み込めないというか信じられないのである。では、日曜日の夕方に顕現された天的な人物(天使のような存在=グノーシス)が、本当に世の罪を負って死と滅びを身に受けられたあの御方(イエス)なのかどうか、その傷跡に触れるようにして確認しなければ信じられない。イエスの顕現を報告する弟子仲間達は、本当にあの方の代理的苦難と死を理解しているのか?顕現された方は、本当に「世の罪を取り除く」為に死んだイエスその人なのか?それがトマスの気持ちだったのではないだろうか。
 もし、簡単に傷跡もない天的姿で顕現するようなグノーシスであるなら、十字架での死と滅びは見かけだけのものであり、本当の意味の自己奉献ではないことになる。アブラハムは本気でイサクの喉を掻き裂いて奉献しようとした。そのように、イエスは本気で御自分を「奉献」された筈だ。このようなトマスの考えは、民の罪を負う「神の人」の人間性を前提とし、それに固着した上で、最高の人間の神への献身を想定している。
 さて、日曜日の夕方の顕現から8日が過ぎた(当時の計算は、その当日を含むから実際は一週間後の日曜日)。トマスを含む弟子一同が、8日前と同様に集まっていると、前回と同じように、戸は閉ざされていたのにイエスが顕現され、彼らの真ん中に立ち、「シャローム」と言われた。そして、トマスに向かって、御自分の傷跡に触れるように言われた。
 この瞬間、トマスの神観・人間観は全く崩壊した。人間である「神の人」が「命を賭けて」神に近づいたのではなく、神が「命を賭けて」人間に近づき、人間として人間の罪を負って死に、人間の義を確立して下さったのであった。トマスが敬慕・崇拝した師イエスは、人間となってくださった「」であった。つまり、民の罪を負って「自己献身」の死を遂げたのは、神御自身だったのである!トマスは崩れて、「わが主よ、わが神よ」と言った。
 地上のイエスは、全く一人の人間としてその生涯をお過ごしになった。その弱い人間性において神への従順を貫き通し、人間の義を確立されたのである。この義によって、神は彼を永遠の命を持った「人間」として復活・昇天させ、終りの日の死人からの復活が開始された。万物・人間は、この勝利された人間であり神である御方を通して祝福される。復活の主のお身体の傷跡は、罪の肉の死を意味する。ここ(主の死)から罪の赦しの恵みが、肉なる人間達に注がれるのである。
 ヨハネ伝は、その序文でイエス・キリストを「ロゴス」と呼び、その御方を「」と言い表した。そして、記述の最後は、復活し顕現されたイエスに対し「」と告白するトマスの証言によって締めくくられている。
 顕現された御方イエスは、トマスに「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信じる者は幸いである」(20:29)と言われた。これは、トマスへの叱責というよりも、聖書によってその証言によって信じるキリスト者に対する祝福の言葉である。キリスト者は、聖書の証言に従い、その様々な角度からの証言に聴いて、信仰すべきである。例え特別な霊的な体験をしたとしても、それを聖書の言葉によって吟味し、繰り返し御霊の助けを乞い求めねばならない。また、なんら特別な体験がなくとも、聖書に登場する人物達の受けた体験を自分の体験として受け入れ、神を讃美すべきである。主は、絶えず油を注いで弱い私達の信仰を励まし、育て、導いて下さるであろう。
 今回は、ここまでにして次回から福音書全体の結び部分を取り上げたい。