家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

イエスの「兄弟たち」

2022年5月15日

テキスト:ヨハネ伝20:17~23
讃美歌:257&225

                        B.救済者の天への帰還(13:1~20:31)
                                           
2.受難と復活(18~21章)
20章(イエスの復活と弟子達への顕現、福音書の目的)
(1)イエスの復活と弟子達への顕現(20:1~29)
 a.マグダラのマリアへの顕現(20:11~18)
 前回は、マグダラのマリアに顕現されたイエスの「我に触れるな=ノーリメタンゲーレ」を取り上げた。これは、顕現された御方が、マリアが知っていた地上のイエスではなく(そのような存在としては既に死んで葬られている)、その死において人間の義(神の前における義=神への従順)を成就完成された者として、神によって新しい「永遠の命の身体」に復活させられた方である事を告知している。ラザロの蘇生のように、死がまるでなかったかのように地上に戻られたのではない。
 弟子達が誰も理解できなかったような、神からの徹底的な棄却である十字架上の死を、「神なしで、神と共に」神的力をもって忍び通された徹底的な従順、つまりイエスがその生と死によって成し遂げられた義を、神が承認・公示されたのが復活である。「ノーリメタンゲーレ」は、イエスの死の力を告知している。これによって、預言された終末時の死人からの復活、が開始した。
 イエスのご生誕が、ユダヤ人社会の最底辺にいた羊飼いにまず最初に告知されたように、終末時の復活の開始も、当時は精神薄弱者同然に扱われていた女性に、まず告知された事が心に残る。
 では、イエスの復活の効果は如何なるものであるかを、この記事の続きから学んでいきたい。
②マリアへの伝言(20:17~)
 顕現されたイエスは「私に触れるな」と言われ、その理由として「私はまだ父のもとに昇っていないからである」と続けられた。これを、復活の身体は肉の身体で触れることが不可能であると解釈することはできない。後日、トマスには手と脇腹に触るように言っておられるからである。つまり3D映像のような実体のない霊体ではなく、実体を備えた本物の身体である(エマオ途上で,物質であるパンを裂いておられる、等)。従って、マリアに顕現された時点では昇天しておられなかったが、その直後に昇天し「天においても地においても一切の権威を授けられ」て以後、トマスに触れることを赦す権威をお持ちになった、と一応考えておきたい。
 それよりも重要に思えるのは、マリアに託された伝言「わたしの兄弟たちのところに行って、こういいなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしはのぼる』と」である。弟子達を、御自分の「兄弟」と呼ばれるのは、ここが最初である。つまり復活されて以後のことである。それまではイエスの兄弟とは、マリアの子供達に限られていた。「わたし」と「あなたがた」の一体性を繰り返しで強調しておられるところに、苦しみを通して人間を神のものに勝ち取り給うた主の喜びが表現されている。
 イエス受肉された弱い死ぬべ身体において、人間に全く連帯され,人間の一人となって下さった。そして、その肉の身体において人間の義を全うされた。肉の身体において人間に連帯された以上、復活の霊の身体においても人間を手放さず連帯される。復活のイエスの身体において、身体を持った存在である人間の兄弟(長子)となられたのである。父なる神と本質を同じくする子なる神でありつつ、同時に永遠の命に生きる身体の主人、つまり最初の霊の身体をもった人間>として復活された。だから、彼を信じる者達を御自分の「兄弟」と呼ばれる。父なる神は、子なる神の父でありつつ、同時に御子イエスを信じる彼の「兄弟たち」の父、となり給うのである。
 復活のイエスにおいて、「血筋によらず、肉の欲によらない」神の子供達が生まれる。「人間、みな兄弟」なのは生まれながらではなく、復活の主においてなのである。
 さて、神の言葉は空しくは神に帰らず、神の命じおくりし事を果たすのだから、顕現されたイエスの言葉は,マリアに働いてこれらの事を悟らしめた。理屈で頭脳からでははなく、直接霊において、顕現された御方こそ彼女と宇宙万物の<主=キュリオス>であると彼女に悟らしめたのである。
 マリアは弟子達の元に返り、「私は<主=キュリオス>を見ました」と告げ、また主から言われたことを彼らに伝えた。
 b.弟子集団への顕現(20:19~29)
①閉じこもった弟子達への顕現(20:19~23)
 空虚な墓が発見されたその日、つまり週の初めの日の夕方、弟子達はまだエルサレムに留まり同じ場所に集まって閉じこもっていた。イエスはローマに対する反逆者として処刑されたのだから、当然、弟子達も訴追される虞がある。また、サンヘドリンからも異端的一派として石打ちにされる危険がある。ゲッセマネから逃げた弟子達は、それでもイエスを残してエルサレムを脱出する気にもなれず、自然、最後の晩餐を行ったこの家に集まり息を潜めて様子をみていたのであろう。
 その日の早朝、空虚な墓の発見があり、男性弟子二人が事実確認した。その後、遅れて墓から戻ったマリアからイエスが顕現されたという驚くべき報告があった。だが、これを聞いて弟子達の混迷は深まるばかりであっただろう。ラザロを復活させた程の御方である、死から復活されたとしても不思議ではない。だが、弟子達がこれからどうなるかは一層不可解になってしまった。主が彼らの元に戻って、今まで通りの活動を続けられることはもはやあり得ない。あるいは、昇天されて天使の軍勢を率いて地上に戻られ、神の国を樹立されるのだろうか?その場合、自分達はどうなるのか。何の働きもなく、最後にはイエスを見捨てて逃げ去るという、弟子の名に値しない罪人である。だが、マリアの伝えるイエスの言葉は、叱責ではなく喜びのトーンに溢れているではないか。これらをどう考えてよいか分からず、とにかく同じ場所に寄り集まり、何かを待っていた、というのが彼らの状態ではなかったろうか。
 すると、この閉ざされた場所に(戸を通らずに)イエスが来て、彼らの真ん中に立たれた。そして「あなた達に平和があるように=シャローム」と言われた。そう言ってから、御自分の手(十字架に釘付けされた跡がある)と脇腹(死の確認の為、槍で突かれた跡がある)をお見せになった。確かに、あの<死んで葬られた>御方、つまり彼らを弟子として下さったイエスであった。
 だが、彼らが知っていた生前のイエスではない。閉じられた場所に、突然出現する能力を持っておられる。ここで、復活のお身体について考えてみたい。私達と同じ肉の身体であるなら、空間を自由自在に移動することは不可能である。ところが、復活された方は思うままにお姿を現されたり、また見えなくされたりされる。生まれながらの人間の霊は、肉の身体に従属し物質である身体に支配される。だが、復活の主のお身体は霊(創造者である霊)が支配し、形成する身体である。だから、被造物である時間・空間・物質に対し、主権的に振る舞われる。
 一方、弟子達は、まず仰天し畏怖したのではなく、単純に「主を見て喜んだ」とある。彼らの弱さ・罪深さ、イエスを見捨てて逃げ去ったこと、全てを主は赦し、彼らを受け入れて下さっていることが分かったからである。イエスの愛に圧倒され、彼らの不安も自責の念も消え去った。ただ主の愛に抱かれ、彼と共にいる喜びに満たされたのである。主と共にいる平安(シャローム)、つまり別離を告げた最後の晩餐の席で「わたしは再びあなたたちに会うことになり、あなたたちの心は喜びに溢れるであろう。そして、その喜びをあなたたちから奪い去るものはない」(16:16)と予告された通りのことが実現した。弟子達の悲しみは喜びに変わった。
 この喜びは「イスラエルの救い」等と言う狭い限定されたものではない。創造され贖われたことへの感謝と喜びであり、創造者・贖主の喜びと一致している。だから、決して奪われることがない。
 神の愛が押し迫り、イエスの十字架死と復活によってこの<神と人との和解>を成し遂げて下さった。だからこの偉大な神の業を知らされた人間は、それを自分だけに留め置く事はできない。直ちにこのよき音信=福音を、全ての人に伝えねばならない。
 そこで、イエスは重ねて言われた「あなた達に平安があるように(シャローム)。父が私を遣わされたように、わたしはあなた達を遣わす」。こう言って、彼らに「」を吹きかけ、そして言われた「聖霊を受けなさい」。(創造物語でも、神が息を吹きかけて人間は生きるものとなった。)
 この「」は、勿論、復活者の霊、すなわち聖霊である。復活の身体を創り出す命の御霊である。イエスは、死ぬべき人間に連帯し、その生と死によって人間の義を成就し、その義をもって霊の身体を持った<人間=アダム>として復活された。主は死すべき命においてと同様、永遠の命においても人間であり給う。主の復活の身体の霊=聖霊は、新しい<アダム=人間>の霊であるから、彼の兄弟たち(人間達)に分け与えられる。主が人間として復活し給わなければ、人間に聖霊が到来することはない。イエスが肉に死んで永遠の命に生きておられるからこそ、聖霊が彼を信じる者に注がれ、肉の身体にあるままに、永遠の命が約束される。主が「私が去って行かなければ、あなたがたのところに助け主(聖霊)は来ないであろう」(16:7)と言われたとおりである。
 私達人間に永遠の命が約束されるのは、実に、主の死と復活の力によるのである。