家庭礼拝記録

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コリント第二の手紙、はじめに

2024年1月14日

テキスト:使徒行伝18:18~23

讃美歌:534&502

                                   コリント人への第二の手紙
                                             はじめに
 昨年末でコリント人への第一の手紙を読み終え、今年から第二の手紙を読んでいきたい。しかし、これは単一の手紙ではなく、何通かの手紙を編集して一つにつなげたものなので、書かれた順番とその時点の執筆の事情を推測した上で読んでいく必要がある。
 新約聖書の中で最も古いパウロの書簡は、ロマ書を除いてほとんど彼が設立した異邦人教会牧会の為に書かれたものである。そこで回り道するようだが、まずパウロの伝道活動を概観し、また、書簡のほとんどが執筆されたエペソでの状況を少し詳しく観てみたい。
 パウロの年代特定の鍵は、行伝18:12「ガリオンがアカイア州の地方総督であったとき」コリントで裁判を受けた事実である。ガリオン在任はAD51~52年であるから、コリント滞在は50年頃から52年春頃までとなる。ダマスコ途上での回心をAD33頃、最後のエルサレム訪問が56年頃、逮捕されカイザリアに2年拘留後、ローマに護送され、そこで2年過ごして殉教、と言うのが大枠である。
 パウロ使徒としての際だった特徴は、ダマスコ途上で復活者顕現を体験し、「キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに」それまで追求していた「律法による自分の義」を捨て、「キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになること」(ピリピ3章)へと180度の転換を遂げたことであろう。その体験の深さと激しさは、回心後直ちに福音宣教の活動を開始したこと(独立伝道でアラビアのナバテア王国に赴く)に現れている。そして命を狙われる程の反響を呼び起こしたのだから、その宣教の熱烈さは想像がつく。「それから三年後」のエルサレム訪問も、単にペテロと知り合いになるためだけでなく、「エルサレムから始まってイリリコまで」とあるから、エルサレムのヘレニスト会堂(シナゴーグ)でも福音宣教を試みたと言える(行伝9:29参照)。
 彼の「律法からの解放」という明確な自覚と働きがなければ、キリスト信仰はユダヤ教内部に留まり、文化や民族を超えて世界中へ伝播し現在の私達にも届くことはなかった。彼はその為に神に選ばれた器であり、私達「異邦人の使徒」なのである。
 その後、「シリア・キリキア地方」主にアンティオキア教会での働きを経て、シラスと共に独立伝道である第二次伝道旅行を開始した。途中でテモテも参加することになる。出発のきっかけは、異邦人と同席の食卓問題でペテロやバルナバと衝突したからというのが通説である。だが、異邦人への割礼問題を扱ったエルサレム使徒会議やアンティオキアでの衝突を、第二次伝道旅行後とする説もある。一応通説に従うが、参考までにパウロ年表を、①通説と②エルサレム会議を第二伝道旅行後とする説、の2種類配布する。
 どちらにせよ、律法は割礼だけでなく食事や生活の全般に関わってくるから、一回の会議で解決できる事ではない。初期の教会指導者はすべてユダヤ人であったから、異邦人キリスト者が信仰に基づきどのように生活すべきか、混乱が生じることは当然であった。異邦人も割礼を受けてユダヤ人になるべきと主張する者達は、パウロが宣教した「律法から自由な福音」に反対し妨害活動を行った。ガラテヤ書はこれに対して執筆されている。ここで、パウロを苦しめた三種類の「敵」をあげると次の通りになる。
 ❶ユダヤ教徒:キリスト信仰が、律法の枠内に留まる「ユダヤ教キリスト派」のうちは黙認している。だが、律法は救いに必要ないとの主張には激しく反対する。ステパノが殉教したのもエルサレムのヘレニスト(ギリシャ語を日常語とするユダヤ人)会堂でこれを主張したからである。そして、ヘレニスト系キリスト者エルサレムから追放される事態となった。だが、イエスを預言されたメシアと主張したペテロらアラム語ユダヤキリスト者は追放されていない。
 ❷キリスト教内部のユダヤ化主義者:今述べたように、キリスト信仰入信には異邦人も(割礼を受けて)ユダヤ人になるべきと考える者達。いわゆる律法主義的キリスト者である。
 ❸ローマの官憲:これは、皇帝礼拝問題以前には治安上の問題が生じた場合だけ、関わってくる。騒乱を生じさせなければ、公認宗教のユダヤ教内部問題として干渉しようとはしなかった。
 このほか、エペソの銀細工業者やピリピで奴隷から占いの霊を追い出され商売できなくなった一般人からの抗議や妨害もあった。
 ではここで、コリント退去後のパウロ一行の動きを見てみよう。ガリオン裁判はパウロに有利な結果となったから、プリスキラ・アキラ夫妻を伴う突然の退去の理由は分からない。ローマを目指した当初の予定を変更し、エーゲ海交通の中心地エペソを根拠地として周辺伝道をするつもりだったかも知れないし、ガラテヤ地方教会での律法主義的キリスト者(割礼論者)の動きを聞いて、エルサレム側と相談する必要を感じた為かも知れない。
(1)コリント退去後のパウロの旅
 52年春頃、海路でエペソに行く。そこにアキラ・プリスキラ夫妻を残してエペソ伝道を託し、パウロ一行はカイザリア経由エルサレム訪問。その年の冬はアンティオキア教会に滞在し、翌53年春、冬の間は雪で閉ざされるキリキア門峠が通行できるのを待って第三次伝道旅行に出発。第二次伝道旅行で設立したガラテヤ地方異邦人教会を歴訪し、ラオデキアやコロサイなど、黙示録に出てくる教会のあった高地地方経由でエペソに着く。おそらくアキラ夫妻の家で旅装を解いたであろう。
(2)パウロ不在中のアキラ夫妻とアポロの出会い
 アキラ夫妻もほぼ1年近くエペソの会堂で伝道し、自宅に入信者を集めて集会(家の教会)を開いていた。夫妻は会堂でキリスト信仰を説くアポロに出会い、その信仰に足りないものを感じて自宅に招き、パウロ的福音を教えた。アポロはそれを聴いてますます信仰的確信が高まり、大いにユダヤ人達を説得しキリスト信仰に導いた。彼は巡回教師であり、アカイア州訪問を予定していたので、夫妻はコリント教会に紹介状を書き、アポロをコリント教会に送り出した。
(3)エペソでのパウロの働きと入獄、書簡の執筆
 パウロはエペソ到着後、アキラ夫妻の家で同居し、天幕作りで働きながら宣教を行った。当初三ヶ月ほどは会堂で語ったが、やはり律法問題でユダヤ人が騒ぎだし、会堂から退去せざるを得なかった。そこで、ティラノの講堂に場所を移して論じるようになった。エペソのような暑い地方は労働は午前11時頃までであるが、パウロはそれまで働き、以後毎日ティラノの講堂で福音を論じた。五〇代のパウロの盛んな働きぶりが偲ばれる。その時刻には働きを終えた労働者達も集まって聴く事ができたし、安息日だけでなく毎日であるから、「アジア州に住む者は誰でも」(ユダヤ人も異邦人も)福音を聞くようになった。また、エペソで福音を聴いた入信者(コロサイのエパフロスなど)により、エペソ周辺の都市にも福音は拡散し、福音は爆発的に広がって行った。ここで注目しておきたいのは、パウロの宣教には言葉だけでなく「徴と不思議」が伴った事実である。使徒行伝19章にあるような記事は決して誇張ではない。魔術の本を焼いたとの記事は、霊的諸力を人間が利用しようとする技術(魔術)を捨て、唯一の真の神に帰依するという信仰の表れであり、異邦人がパウロの伝道により信仰に目覚めた事を示している。合理主義的現代人は、悪霊追放や癒やしと言った奇跡を認めたがらないが、現在でも霊の働きは存在することを事実と認めねばならない。
 このようなエペソでの日々の中で、ガラテヤ書、コリント第一の手紙が執筆された。エペソでの2年半の終り54年秋頃、福音のあまりの勢いにアルテミス神殿に生活の基盤をおく土産物業者が不安を抱き、有名なデミトリオの騒動が起きる。使徒行伝では、パウロは拘束されず無事だったように書かれているが、実際は入獄したことは、ピレモンへの手紙などから確実であろう。結局は解放されたが、追放処分を受けたようで、騒動の後エペソを離れ、二度と足を踏み入れることはできなかった。
 コリント第一の手紙執筆は、16章の記載からデミトリオの騒動の前だった事が分かるが、第二書簡はこの騒動と入獄の前後に断続的に執筆された可能性がある。詳しくは次回、Ⅱコリント書執筆の事情で取り上げる。エペソでの2年半の間に、ガラテヤ書、コリント書、ピリピ書、ピレモン書が執筆され、その書簡の写しがエペソに集積され、その他の書簡と合わせて新約聖書の核となった。
 今回は、聖書本文に入らなかった。だが、パウロの伝道活動と福音の広まりを通じ、福音が人間を突き動かす現実の「神の力」であることを学び取りたい。今日はここまでとする。